愛を失う数時間前【通常版】
家の中をひと通り案内すると、優斗は渡した間取り図を手に、見るものすべてに興味深そうだった。
風香は寝室の前で足を止めた。
視線で“はじまり”の合図を送り合い、ドアを開けた。
――「へえ、ここが寝室か」
優斗の第一声は驚くほど自然だった。
「オシャレな部屋だけど、なんかムカつく」
「……」
主要な台詞以外は優斗に任せている。
設定さえ守ってくれれば何を言っても構わないと伝えていた。
コートを受け取ってハンガーに掛ける。
優斗が窓際へ歩いていく。
「なに見てるの?」
「どこかから忍び込めないかと思って」
いつもとは違う、嫉妬を混ぜ込んだ声色に少しときめいた。
「なあ、俺たちいつになったら一緒になれる?」
優斗が初めての『台詞』を口にする。
「“もう少し待って”」
風香も答える。
自分が言われたそれを口にすると、ほんの一瞬、気が晴れた。
「無理。一秒も待てない。愛してる、風香」
優斗の切ない声に後れを取りそうになり慌て――、ふと閃いた。
優斗の醸し出す、愛しくてたまらないという雰囲気に乗ってしまえば、もっと自分の演技が本格的になるのではないか?
風香は優斗の指先を取った。
絡めると、守られているような、不思議な気持ちになった。未知留以外の男の手はこんなに熱いのか……。
無意識に優斗を引き寄せた。背の高い優斗には爪先立ちをしなければ唇を迎えにいけなかった。
風香は優斗の首に両手を回した。優斗の手は風香の腰にあった。
「っん、……っ」
いったん受け入れた優斗のキスはあっという間に激しくなった。ただそれは強弱を伴った優しく深いキスだった。
……これが、キスだったんだ――
風香は、夢中になって優斗の舌を求めた。
「……は、ぁは」
唇が離れるタイミングを何度も見送って、風香はようやく爪先を床に落とした。
「風香、愛してるよ」
優斗の愛の囁きを聞いていたらなぜだろう、胸が苦しくなった。
「今すぐに風香を奪いたい」
「……」
こんなセリフあっただろうか、と思いながらも優斗の切ない声が心地よかった。
優斗に握られた手をじっと見つめる。
――大丈夫、やれる。
優斗のおかげで勇気が湧いてきた。
「たくさんいるあの人の浮気相手に、夫をあげるって言ってみようかな」
花音に聞かせようと無意識に体がコンセントの方向へ向いた。
「今、何人いるの?」
「さあ。数えきれないんじゃない?」
「最低だな」
「昔から誰とでも寝る男だし、いちいち気にしてられないよ」
風香は大袈裟に嘆いてみせた。
未知留に愛されている花音の、その幸福感にほんの一時でも泥水を流し込みたかった。
「そんなことはどうでもいいんだけど、通帳とかこの家の権利書とかなかなかみつからなくて」
「手に入れたらどうしたい?」
「もちろん全部現金に換えてこの家から出ていくよ」
「引きこもってる妹がいるだろ?」
すべて聞いているであろう花音に向けてはっきりと言う。
「働けばいいんじゃない?」
「住むところは?」
「ホームレスにでもなったらいい。今までさんざん楽したんだから」
冷たく言い放ってから、風香は派手に笑った。
耳にこびりついているのは、未知留と花音が風香を笑い者にしたあの日の声だ。
……逆の立場になってみて、どう?
風香は盗聴器の向こう側にいる花音に心で問いかけた。
それからいくつかの決め台詞を言い終え、風香は天井を見上げた。
――肩からすっと力が抜けた。
「風香」
「あ……」
優斗に労うように抱きしめられ、風香はその腕に身を預けた。