愛を失う数時間前【通常版】

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「おかえり。疲れたでしょう」
「ただいま」
 未知留は、風香の出勤前に出張から戻ってきた。
 労いながら出迎えた。 

「お昼ごはんどうする?」
 昼の時間は過ぎていたが一応聞いた。
「いらないよ。先輩と駅ビル内で“うどん”食べてきた」
「いいね、寒いし」
 適当に会話をしながら、注意深く未知留の様子を探る。

 ――昨日、花音が未知留に告げ口をしたならいつも通りのはずはない。だが未知留に変化はない。

「……」
 花音は伝えなかったのだろうか、それとも、伝えられなかったのだろうか、どちらだろう。
 ……どっちでもいいけど。
 風香は笑顔の裏、心で呟いた。

 花音が告げ口した場合の、その応酬は頭の中でシミュレーションしていた。
 ――「何のことかわからないけど……、私って、のんちゃんに相当嫌われてるんだね」
 困惑した声で言うのだ。
「のんちゃん、なんでそんなこと言ったのかな。のんちゃん、心の方……大丈夫?」
 大切な愛する花音を侮辱された未知留が、心配しただけの妻に何を言うのか――、その反応も見物だと思った。

 
「仕事大変だった?」
 風香は頭の中で繰り広げたやりとりから意識を離し、会話に戻った。
 未知留はソファに身を投げ出した。
 そのテーブルの前に、労うようにコーヒーを置く。

「僕は先輩の隣にいただけだし、楽だったよ」
 未知留は社内で力のある先輩に気に入られ、大切な商談に同行を許されたらしい。
 少し前までは別の同期が可愛がられていたが、未知留がその座を奪ったようだ。
 同期の名前は確か――栗生、と言ったか。社交的で情に脆く、“四世代同居の大家族”という育ちがウケているようで、未知留は「虫唾が走る」と吐き捨てていた。

「ショッピングモールには予算内で入れそうなの?」
「たぶんね」
 未知留は少しも嬉しそうじゃなかった。
 それどころか口元が歪んでいる。
「未知留を連れていってくれた先輩って、何年も営業成績一位なんでしょう? 優秀なんだね。未知留もそんな人に目をかけられてすごいね」
 未知留が片眉を上げた。 
「遠藤先輩? あの人、運で昇ってるだけ。まあ、少しおだてればいろいろやってくれて便利だけどね」
 自分を取り立ててくれる先輩にも感謝をしない――未知留らしい、と思った。
 ……そりゃそうか、こんなに長い間一緒にいる私のことも平気で裏切ってるもんね。
「僕が担当だったらもっといい場所を確保できたと思うよ」
「へえ、そうなんだね」
「あんな区画割り当てられて、俺の手腕どうだ、みたいな顔されてもね」
 未知留は呆れたように肩を上げた。
 他人に好意を抱けない未知留は、誰かの成功に興味がない。
 
「結婚してるの?」
 風香は質問を続ける。
「まだ。広報に彼女がいるけど、近々別れそう」
「どうして?」
「その彼女、ずいぶん前から僕にアプローチしてきてて。先輩の彼女だから仕方なく優しくしてるのに、僕のために遠藤先輩と別れるとか言いだして」
「ええ? なにそれ……」
 わざと指先で口元を覆った。
「その人、未知留が結婚してること知ってるの?」 
 相手の女を悪者にし、未知留に合わせて会話をしていても、内心――ただ優しくしただけで、女が恋人と別れるなんて、言い出すわけがない――と確信している。
 未知留の裏切りを知った今なら、見抜くことは簡単だ。

「もちろん知ってるよ」
「それなのに言い寄ってきたの?」
「自分に酔ってて笑えるよ。僕を奪いたいらしいよ。そういう下品なところは遠藤先輩とそっくり」
 そう言う未知留の片頬も、下品に歪んでいた。
「キレイな人なの?」
「んー、『ミス広報』とか呼ばれてたかな。僕はタイプじゃないけど」
「ふたりきりで会ったりするの?」
「まあ、そうだね、頼まれれば会うことはあるよ。広報でも影響力があるようだし繋がっていて損はないから」
「でもさ、そんな風に会い続けたら、相手が未知留に本気になっても仕方ないんじゃない?」
「そんなの僕には関係ないでしょ」
 未知留は当たり前のように言い切った。
 ……そうだよね、私が未知留の言葉を信じて彼女になって、妻になって、これからは幸せな未来があるはずだと夢見たことも、自分には関係ないんだよね。
 風香は鋭く尖りそうな目元を隠すため、キッチンへと戻った。
 ドリッパーを洗いながら会話の続きに戻る。

「未知留、かっこいいもんね」
 風香がこれまで嫉妬しなかったのは、未知留が隠さなかったからだ。今のように、相手の女を蔑みながら“報告”してくるそれに、すっかり安心していた。

「高校の頃もさ、未知留と友達だった頃から女子のやっかみすごかったしね。恋人になったらもっとすごくなったけど」
「ずいぶん昔のことだね」
「未知留が大学生だった頃は、女の子に待ち伏せされて『別れてください』って詰め寄られたことがあったよ」
「え、なにそれ。初耳」
「未知留のこと信じてたから、あえて言わなかったの」
「そうだったんだね」
 一度や二度ではなかった。
 思い返せば、彼女たちの言葉尻はおかしかった。未知留に片想いをしていた程度では到底使わない言葉で責めてきた。

「僕はフリーじゃないって先に言ってるよ。それで向こうから寄ってくるのはしょうがないよね」
「わかってるよ」
「でもどうしたの? 今までそんなこと聞いてこなかったのに」
 いい気分で喋っていた未知留がふいに現実に戻った。
 風香は口を閉じた。
 証拠を残そうと思うあまりやりすぎてしまったようだ。

「あ、もうこんな時間! 今日は『早く出て』って言われてたんだった!」
 もっともらしく慌ててみせた。
「そっか。頑張って」
 すぐに未知留の機嫌が良くなった。
 
 部屋へ戻ってコートとマフラー、手袋を手に玄関へ行くとすでに未知留が待っていた。今日も妻を送り出したらすぐドアにチェーンを掛けるのだろう。

「いってきます」
 玄関ドアから陽射しが入ってきた。
「今日は少し暖かいね」
 うん、と頷く。
「気をつけて」
 
「ありがとう」  
 ――大好きな妹と思う存分ヤってればいい。

 風香はいつものように笑顔を作ろうとした。
 だが口角がそれを拒否しようとしたため――、素早く外へ出た。
 
 
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