愛を失う数時間前【通常版】
13 壊れる音、蘇る記憶
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――『のん、ただいま』
『お兄ちゃん、おかえりなさい』
『あれ? 今日はどうしたの。いつもは飛びついてくるのに。――おいで』
ソファがギシッ、と音を立てた。
『寂しかったの?』
『……うん』
抱き合っているのか、無音が続いた。
風香は収納庫に身を潜め、膝を抱えてイヤホンの声に集中した。
ファミレスには、体調不良で遅れて行くと伝えてある。
『お兄ちゃん、出張ってどこに行ったの?』
『言わなかった?』
『聞いたけど、どこに泊まったのかなあって』
『ビジネスホテルだよ』
『……うん』
未知留の浮気を疑うように仕向けたのに、花音は未知留を問い詰めなかった。
『お土産買ってきたよ』
がさがさと袋が擦れる音がする。
……そういえば私にはなにもなかったなと、風香は卑屈に片頬を揺らした。
『――ねえ、お兄ちゃん、あの人浮気してる』
意外にも、花音の声には切迫感があった。
『何言ってるの、のん』
それに対し未知留は悠長な声で返している。
『ほんとだよ。私、聞いたんだから』
『聞いたって、例のアレで?』
予想はついていたが、盗聴に未知留が関わっていることはこれで明らかになった。
『そう。お兄ちゃんがいないときに寝室に男を連れ込んでた!』
『ははっ、まさか、風香に限って』
『嘘じゃない。いやらしいこともしてた。気持ち悪いよっ』
風香は鼻で笑った。
……あんたらの行為の方がよっぽど“気持ち悪い”けど?
『うーん、録音でもしてれば信じたけど』
『できないやつだもん。お兄ちゃんも知ってるでしょ。それにお兄ちゃんが、そういうことはしちゃダメって言ったから』
『まあね、残っちゃうからね』
……ふーん、自分のために録音させなかったんだ。
なるほど、未知留らしい。
『次は絶対に証拠掴むから。だから新しいの買っていいでしょう? お兄ちゃんたちの部屋にしかもう残ってないんだよ』
『あー、風香に大掃除で捨てられちゃったんだったね。――まあ、もういいじゃん?』
『でも……』
買い物の決定権も未知留が持っていて、花音は了承を得ないと買えないようだ。
『あのね、のん。風香が求めているのは『家族』だよ。だから風香は、のんがやきもちを焼くような関係にならなくていい――便利な存在だよね』
『うん……』
『そんな子が浮気はありえないよ。それに、もし男がいたら僕に分からないはずがない』
……。
風香は暗がりと寒さの中で細く息を吐いた。
確かに、未知留との穏やかな関係こそが本物の愛の形だと思い込んできた。本能のまま愛情を欲する行為は、軽蔑している両親と同じに成り下がることだと――未知留が言ったから。
結局それらも、未知留に都合がいいように刷り込まれた価値観だった。
現に風香は、優斗との深いキスが嫌ではなかった。
『でもお兄ちゃん、私聞いたの、ちゃんと、ほんとなの』
『のんが風香を嫌いなのはお兄ちゃんも理解できるよ。僕をとられるんじゃないかって不安なんだよね?』
花音が拗ねたのか、未知留の声が優しくなった。
『そんなことは絶対にないって断言する。僕には、この世にのん以外に大切な存在はいないよ。だって僕はのんで、のんは僕だろ?』
……。
つっこむところしかなかった。
大切な妹と愛し合う――未知留にとってそれが『愛』なら、他人である自分とのそれにはどんな感情があったのだろう。