愛を失う数時間前【通常版】
『のん、怖かったんだからあ。お兄ちゃんのスマホ、繋がんないし』
『ごめんごめん、会社に置き忘れちゃって』
花音の部屋には固定電話がある。明細書の通話記録には未知留の番号しか載っていない。花音の『世界』は未知留だけなのだ。
『そんなことばっかり』
『だから少しでも早く帰ってきたんだよ、のんのために』
『うん。――はあ、ん』
あっという間に雄と雌になった兄妹の湿った音が、イヤホンから風香の耳に絡まってくる。ばさ、ばさ、と衣類を脱ぎ捨てるような音がした。
『全部愛しいよ、僕の、僕だけの、のん』
『お兄ちゃ――んっ、そこ、くすぐった……ぃ』
風香は無意識に両指で喉のあたりを掻き毟った。
血管がふくれあがるようだった。
実の妹相手にだらしのない声で喘いでいるこの男が、いつも斜に構えて上品そうにしている自分の夫だと思うと。
この兄妹は、ふたりだけであれば家の中が“楽園”だと信じているのだ。
あの夜も――、風香がふたりの禁忌を知ったあの最低な日もそうだった。
開けっ放しのドアに廊下まで響き渡る大音量の音楽、憚ることなく快楽を貪る卑猥な声。
ふたりはいつから一線を越え、どの程度の頻度で抱き合ってきたのだろうか。未知留が告白してきたあの日は? プロポーズしてきたあの日は? 未知留を信じ切っていた、穏やかだった月日のどこで……
唐突に、頭の中が、ジジジジジ……と乱れた。
――“誰か”が入り込んできた。
皮膚を掻き毟り発狂している、“誰か”。
たまらずに瞬きをしたら場面が切り替わった。
薄黄色のブラウスに赤いジャンパースカート姿の、“女の子”。
可愛らしく編み込んだ髪の毛と、――フリルのリボン?
風香は眉間を寄せる。
ふたつの世界が瞬きのたびにコマ送りのように切り替わる。
発狂する“誰か”が顔を上げた。
その窪んだ両目からは墨のようななにかが垂れ落ちている。
鼻歌混じりの“女の子”は、ぴょんぴょん飛び跳ねている。
風香は必死に目を凝らした。
なぜだろう――正体を突き止めなければ――という切迫感に急き立てられる。
場面の切り替わりがどんどん早くなった。
“誰か”は、少しずつ幼くなり、
“女の子”は、流れるように成長していった。
見覚えのあるふたつの影はやがてぴたりと重なった。
……ああ、
この“誰か”は……、“女の子”は……、私だ。
それを認めた途端、記憶が一気に傾れ込んできた。
――あの頃は毎日、母が選んだ服を着て、膝の上に抱かれて髪を編み込んでもらった。
母の頬ずりを覚えている。母に呼ばれていた愛称は『フッカ』。……そうだ、ゆっくんがそれを真似たんだ……。
なにもかも、思い出した。
……これが、私が忘れていた過去か。
風香は口を開けたまま、大きく息を吐いた。
自分の夫と義妹に見せられた地獄が、風香の人生で最も悲惨だった過去を今、追い抜いた。皮肉なことにその衝撃が、望んで消したあの頃の記憶を戻したのだ。