愛を失う数時間前【通常版】
風香は怨憎の中、次々と失くした記憶を辿っていった。
優斗という大好きな友達がいたこと。優斗を特別だと感じていたこと。ずっと一緒にいたいと願った。だが叶わなかった。
風香の母は優斗だけの母となり、風香は父と家に残った。――そうだ、新しい家族はすぐに出来たわけではなかった。なぜ勘違いしたのだろう。父と母が離婚してほどなく、父は不倫相手と別れたのだ。
――あいつが連れて行ってれば……
酒に溺れ泥酔した父は、時々恨みがましく風香を見た。
しばらく経って、父は家を空けるようになった。その日の“食費”だけがテーブルの上に置かれていた。
しんとした家の中は哀しかった。寂しかった。怖かった。だが頼る人がいなかった。風香は身の回りのことを自分でやるようになった。
時間を掛けて、愛されていない風香が出来上がった。
その頃にはもう幸せだった記憶もそうではない記憶も、平穏の邪魔になるものはひとまとめにして消すことに成功していた。あきらめたのだ。呪いのように、救いのように。
――そういうことか。
風香は呆けたように薄暗い虚空を見た。
いつのまにか兄妹の荒い息遣いが止んでいた。
風香は無表情で姿勢を戻し、掻き毟って乱れた髪を整えた。
ずれ落ちていた片方のイヤホンを再び耳の中にしっかりと入れる。
そして唐突に冷静になった。
――兄妹は今、リビングでシテいたのだ。まだ外が明るい中カーテンも閉めず、証拠となる盗聴器の前で。
風香は思わず、短く笑った。
これらがすべて録音されていることへの愉悦が止まらない。
衣類を着直す気配が聞こえる。
兄妹はけだるい声色のまま、取るに足らない会話を始めていた。
『――ねえ、お兄ちゃん』
花音が不安定な声色で未知留に問いかける。
『……この家には権利? 証拠? みたいなの……ある?』
『どういうこと?』
『あの人が男に言ってたの。それを手に入れるって』
『風香が? 男? のん、まだその話続いてるの?』
『だって! この家が取られちゃったらどうするの。のんは、ホームレスになっちゃうの?』
『はは。なにそれ」
未知留は笑い出している。
『大丈夫だよ。もし泥棒が入ってきて権利書を盗んでいったとしても、印鑑証明や実印がないとどうにもできないよ』
『そうなの?』
『そういうものだよ』
花音が小声で『よかったあ……』と言った。
『お祖父さんが持ってたマンション、覚えてるよね』
『うん』
!
風香は顔を上げた。
……は?
マンション?
風香には知らされていない資産だった。
『管理が大変だから父さんが売ってしまったけど、ひと部屋だけ買い取ってあるんだ。そこに大事なものは置いてあるからね』
未知留は県道沿いに建つ十二階建てのマンション名と部屋番号を口にした。
そこは過去、何度も未知留と通ったことのある場所だ。未知留は立ち止まりもしなかった。なのに……。
『鍵は会社のロッカーに入れてあるからね。暗証番号はのんの誕生日だよ。僕に何か起きたら会社の人に案内してもらって』
『のん、そんなこと、できないよ。……お兄ちゃん、いなくならないで』
『ははは。大丈夫だから心配しないで。万が一のために教えただけだよ』
……。
風香は両手で口元を覆った。
……未知留、こんな大事なことを。
ありがとう。
油断した未知留に、心から礼を言った。
風香はイヤホンを付けたまま、物音を立てないよう細心の注意を払い収納庫から這い出て、家の外へ出た。