愛を失う数時間前【通常版】
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「ただいま」
ポストから取り出したチラシを手に、玄関ドアに鍵を差し込んだ。
脳内では、開けた瞬間にチェーンが見えて、指が震えた。
だがドアは、すっと開いた。
「おかえり。今日はいつもより早いね」
未知留は昨日風香を送り出した時同様の、爽やかな笑顔を向けている。
「うん」
風香はすっと口を開く。
「暇だったから、店長が少し早く上がらせてくれたんだ」
未知留の顔を見たら、裏切られた憎しみをぶつけてしまうかもしれない、ただはらはらと泣いてしまうかもしれない――そんな想像はまったくの杞憂だった。
「なんか、逆に“暇疲れ”した感じ」
「そっか。おつかれさま」
これまでも、自分の生い立ちや境遇を他人に悟られないよう、世間にうまく紛れ込んで生きてきた。
……私の面の皮の厚さも、未知留と似たり寄ったりだわ、
自分たちは、他人から同情されることを極端に嫌う同志でもあった。感情を隠すことなど、なんてことはないのだ。
「……」
風香は自虐的に頬を揺らす。
未知留の頬も揺れている。
……昨日、妹とヤッておきながら。
「座ってて」
夜のシフトをこなした朝は未知留が朝食を用意してくれている。
ダイニングテーブルにはスクランブルエッグとソーセージ、野菜サラダにスムージーが二人分用意されていた。未知留はトレイに花音の食事を乗せているところだった。
「のんちゃんの朝食、私持っていこうか?」
――この仮面に未知留は気づくだろうか、
それを望んでいるのか、それとも用心したいのか自分でも分からなかった。
「いいよ、風香は労働してきたんだから」
未知留は“優しい夫”の顔で、風香の分の厚切りトーストをトースターにセットした。
「パンが焼けたら先に食べてていいからね」
「ありがとう」
遠ざかっていく足音が聞こえなくなり、風香は笑顔を止めた。
「……」
目の前の朝食に無言のままフォークを突き刺し、腹を満たすためだけに口に運んだ。食べながらスマホを取り出す。『離婚 原因』と打ち込んで検索を掛ける。
・性格の不一致
・金銭問題
・浮気
・肉体的または精神的な暴力
・親との同居
この中で未知留に当てはまるものは『浮気』だ。
だが未知留が果たして妹との浮気を認めるだろうか。
風香は頭を振った。
――証拠を、掴まないと。
未知留を会社へと送り出し、その足で未知留の部屋へ向かった。
風香たち夫婦が主に過ごすのは玄関から近いリビングとその並びのキッチン、そして結婚後に主寝室にした洋室だ。未知留が子供の頃から使っている部屋は二階にあり、私物もそのままになっている。
ドアを開けて、未知留らしい整理整頓された空間にそっと入った。
――この部屋に入ったのはいつぶりだろうか。
「掃除は自分でするから大丈夫だよ、荷物置いてるだけだし。なるべく風香に負担かけないようにしたいんだ」
「未知留、いつもありがとう……」
慣れない家事とフルタイムの仕事とで手一杯だった風香は、自分を気遣ってくれる優しい未知留を自慢の夫だと思ってきたのだ。
――部屋の中を静かに見回した。
乱れのない空間は、誰かが足を踏み入れたら簡単にバレてしまいそうで慎重にならざるを得ない。風香は端から順番にそっと見ていった。
本棚、ラック、チェスト、机、鏡、シェルフ、クローゼット――
怪しいものは特になかった。
ひと回りしてもう一度部屋全体を眺める。
……そういえば、私と一緒に買ったものはどこにあるのだろう。写真立てとか……
先ほど見た個所には入っていなかった。
風香が持っている方は、寝室やリビング、玄関やキッチンなど目につくところに飾っている。
未知留との思い出は数え切れない。
他にもお揃いで買った帽子やペン、タオルやキーホルダー、いろいろあったはずだ。
今度は目的を持って引き出しを開け、収納箱の中も確かめた。
だが風香との思い出はどこにもなかった。
……いったいいつからなかったの?
枯れたはずの涙が目尻に溢れてきて、風香は慌てて上を向いた。……大丈夫、こんなことで傷ついたりしない。だってどうせ離婚するんだし。
『離婚する』と思うだけで、隙あらば顔を覗かせようとする惨めさが引いてくれ、風香は安堵する。……そう、私は私の意志で離婚するんだ。決して裏切られて、傷つけられたからじゃない。
無理矢理にでも、嘯く。
そうして抉られた心の傷から気を逸らそうと、なにげなく本棚に目を向けた。
――あ!
そこに見つけたのは、風香が以前プレゼントした写真集だった。待ち合わせた本屋で先に来ていた未知留が手に取っていた。記念日が近かったためタイトルをとっさに覚え、プレゼントとして買ったのだ。
……これは持ってたんだ。
「……」
引き抜いた。
本の重心が不安定で、思わず落としそうになり慌てて両手で掴んだ。
真ん中が膨らんでいた。
何が入っているのかと開くと、何通もの手紙が挟んであった。なにげなく差出人の名前を見た。息が止まりそうになった。
――――三枝木 優斗
それは、風香の母が再婚した相手の、子供の名前だった。