愛を失う数時間前
後編
16 はじめまして、雨宮未知留の妻です
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「いつもお世話になっています。雨宮未知留の家族のものですが……」
風香は未知留の勤める会社に来ていた。
昨日の兄妹の会話から、未知留がいないことを承知の上で、受付で未知留を呼び出した。
――のん、僕明日遅くなるんだ
――また?
――デリバリーで好きなの頼んでて
――……わかった
盗聴して分かったことは、未知留が遅く帰宅することは珍しくないという事実だった。
『交代で花音の食事を準備する』という取り決めは未知留が言い出した。だが実際は、風香だけが律儀にそれを守っていたのだ。
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「雨宮君の奥さんですか?」
大人しく待っていると、社員が風香に声をかけてきた。
「雨宮君、さっきまでいたんですけど」
「そうなんですね」
困った表情を作って、手に持った四つの紙袋に視線を落とした。
差し入れだと察したのか「せっかくだから雨宮君の職場、見て帰られますか」と提案してきた。
「はい。ぜひ」
風香は頭を下げた。
――数十分前、未知留が会社から足早に出てきたところを陰から見ていた。
駅へは向かわず、細い路地へ入っていった。
風香はスマホを開き、メールを送った。
風香:今日ひさしぶりに外で会わない?
未知留:どうしたの? 仕事は?
風香:連絡ミスで、私の出番が今日じゃなくなってたの
未知留:そんなことあるんだね、抗議した?
畳みかけるような文面が返ってくるところをみると、急いでいるのだろう。
未知留:これから先輩と取引先に行かないと
風香:こんな時間から? 理由つけて断れないの?
未知留:新入社員みんな行くから僕だけ抜けられない
風香:そっか。了解
「……」
風香は無言でその文字を眺め、スマホをバッグに戻した。
ビルへ向かって歩く。
ドアの前で、ひと際目を引く奇麗な顔立ちの女性とすれ違った。細身の身体に上質そうなコートを羽織っている。
短く視線が絡まった。
……。
風香は、振り返った。
予感めいたものを意識が拾った。
女性は周囲を気にしながら未知留が歩いていった細い路地へと、足早に消えていった。
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――「えっ?」
「雨宮君の奥さんが来たって?」
複数の声が寄ってきた。
風香は会釈し、自己紹介した。
「早くご挨拶を――と思っていたのに、遅くなってしまってすみません。――これ、みなさんで召し上がってください」
有名菓子店のロゴ入り紙袋をひとつ、渡した。
背後から興味津々と言った顔つきで寄ってきた女性社員数名にも笑顔を向け、ふたつめの紙袋を差し出した。
「わあ、ここの美味しいんですよね」
「ありがとうございます。あとでみんなで頂きます」
「せっかく来てもらったのに雨宮君と入れ違いになっちゃいましたね」
人気の手土産を渡したおかげか、好意的な視線の中で会話が始まった。
「残業になったんですよね? さっきメールしたら『先輩と営業』って返ってきて」
「……」
案の定、その場にいた数名の顔に困惑と好奇心が現れた。
皆で顔を見合わせ始める。
「それ、雨宮君が言ったんですか?」
「はい。でもお菓子を買ってしまったなあ、と……。なので内緒で来てしまいました」
ちょっと舌を出してみる。
ドアの外が騒がしくなった。複数の足音と共に声がした。
「雨宮君の奥さんが来てるって?」
その声に風香はドアの方に顔を向ける。
「わあ。珍しい人がいらっしゃいましたね! 遠藤といいます」
快活な声が緩慢な空気を一瞬にして変えた。リーダーシップが正義、といったところだろうか――と、風香は素早く観察する。
「はじめまして、雨宮です」
「ようやく会えましたねえ」
求められるがまま握手を交わすも、初対面にしては言葉に棘を感じた。
「今までご挨拶せず、すみません」
風香は頭を低くした。
「雨宮君から奥さんの“シフト”の件は報告受けてますから、そうかしこまらないでください」
「え、っと」
困惑するも遠藤先輩はさらに突っ込んできた。
「雨宮君は期待の新人なんで、奥さんには彼を支えていただけるとありがたいとは思っていますけど」
「……」
まるで風香が支えていないかのような言い方だった。
「……なにか支障が出ているのでしょうか?」
疑問のまま尋ねた。
遠藤先輩が眉を寄せた。
不穏な空気を察したのか、同僚が口を挟んできた。
「遠藤は彼をかなり可愛がっていましてね、もっと仕事を教えたいようなんだけど『家庭の事情で残業NG』ってことで歯がゆいんでしょう。――奥さん、気を悪くしないでくださいね」
「……」
「奥さんの夢を尊重したいという優しさも、雨宮君の良いところですから」
「……」
一応唇で笑う。