愛を失う数時間前
彼らの言葉から大体の事情が分かった。
未知留は残業を断る口実に、『妻』を使っているということだ。
風香は口を開いた。――大人しくしていようと思ったが気が変わった。
「そうですよね、“午後から夜遅くまでのシフト”で妻を働かせる男なんて、常識的にいるわけないですよね」
「……」
風香の答え方に遠藤先輩が喉元を引いたのを見た。――これでアンテナが立ち上がらなかったら『営業成績ナンバーワン』は未知留の言う通り“運”だろうと思いながら。
別の社員が話しかけてきた。
「そうだ! たまにはイベントにも参加してあげてください。雨宮君は毎回独身者のグループに混ざっているので」
「イベントですか?」
初耳だった。
「うちの会社、『家族イベント』が多いんですよ。夏は屋形船を貸切ったりバーベキューしたり、秋にはチーム対抗でスポーツ大会もしましたよ。我が社は伝統で新人が幹事なんですよ。雨宮君、がんばってますよ」
「そうなんですね」
にこにこと相槌を打ちつつ、未知留はなぜそんなことまで隠すのだろうと不思議に思った。
「ではお詫びもかねて今年中にぜひ、我が家へいらしてください」
風香は皆に聞こえるように声を張った。
「えっ、雨宮君のお宅にですか? いいんですか?」
いいわけがない。未知留は他人を家に入れることが大嫌いだ。
「夫がみなさんをご招待するなら、妻として精一杯おもてなしさせていただきます」
未知留に最終権限を渡しておく。
「ではあとで、雨宮君と日程について相談させていただきます」
「ええ、ぜひ」
会社で猫をかぶっている未知留が、先輩たちの催促にNOと言えるのか、お手並み拝見だ。
「そういえば、社員旅行の写真はご覧になりましたか」
遠藤先輩が好意的に話しかけてきた。
「写真、ですか?」
悪妻の印象が多少は和らいだのだろうか。他の社員たちも笑みが増えている。
「見せてもらってないですか? なにやってんのかな、雨宮君は」
「行けなかった奥さんに気を使ったんじゃないですか?」
風香は、そうかもしれませんね、と周囲の会話に合わせる。
「じゃあご覧になってください、社内報ですが」
遠藤先輩は近くにいた社員へ指示を出した。
ほどなく風香の手に冊子が乗せられた。捲る脇から遠藤先輩が説明を加えてくる。
カメラ目線ではない未知留は、時に新入社員の役割を爽やかにこなし、時に穏やかに笑い、上司が求めるであろう社員の枠にきれいに収まっていた。……相変わらず自分の見せ方を知ってるよね、
あちこちに写っている未知留が気障りで仕方ないが、今はページを移動し女子社員だけを確認した。
「――あ」
さっき会社の前で見かけた女性を指す。
遠藤先輩が視線を落とした。
「ん? 川奈ですか?」
「もしかして、『ミス広報』の方ですか」
「そうですよ! よくご存じで」
「……」
風香は唇だけで笑った。
――女の勘、のようなものがどうやら当たったようだ。
時間差で同じ方向へ向かっていく男女なんて、意識して見てみれば怪しさしかない。
「わが社一の美人社員ですから写真でも目立ちますよね。ははは」
自分のことでもないのに遠藤先輩は鼻息を荒くした。相槌を打てば「実は彼女なんです」とでも自慢しそうだった。
風香は先手を打った。
「夫と親しいみたいで」
遠藤先輩にだけ届くよう、ぼそっと。
「……」
遠藤先輩の表情が面白いほど『無』になった。
「……」
風香は遠藤先輩から視線を外し、少し離れたところで遠慮気味に立っている若い男性社員に会釈した。部屋に入って来た時から気になっていた。
「あの、よかったらこれ、みなさんで」
にこりと笑って話しかけてみる。
「ありがとうございます」
素早く寄ってきた男に三つ目の紙袋を渡した。
「先輩のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
礼儀正しく言うと男は両手を使って否定した。紙袋も揺れる。
「いえっ、俺――、先輩じゃなくて雨宮君の同期です! 栗生といいます」
読みが当たり、風香は心の中でほくそ笑む。
一年目の社員は他の社員と纏っている空気が違うため分かりやすい。
「栗生さんはどこか具合が悪いのですか?」
風香は心配そうな声色を向けた。
「えっ、俺ですか? どこも悪くありませんが……」
初対面の相手に、突然『体調』について言及されれば不思議に思って当然だ。
風香は“種明かし”を始めた。
「実は、ここへ来る前に夫にメールをしたんです」
遠藤先輩を背後に感じながら、風香は会話を続けた。
「今日は外部と打ち合わせがあって残業だと言われて。新入社員は強制的にお供だって。だから、栗生さんは体調が悪くて会社に残っているのかと」
「……あー、はは、そう、ですね……ええと、さっき、治りまして……」
栗生の戸惑った視線は、風香を通り越して遠藤先輩へと流れている。
「それはよかったです」
目の端で、遠藤先輩がスマホを取り出したのを見た。未知留にだろうか? それとも彼女に所在確認でもするのだろうか?
「あの、栗生さん、残りのお菓子をどこかに置かせていただきたいんですが、控室みたいなところはありますか?」
風香は紙袋を少し持ち上げ、耳打ちした。
「……あ! どうぞこちらへ」
栗生がロッカー室へ案内してくれることを願いながら、社員たちに一礼し部屋を出た。