愛を失う数時間前
17 妻の静かな反逆
「ちょっと意外です」
廊下を歩きながら栗生の放った言葉に首を傾ける。
「なにがですか?」
「雨宮の奥さんってイメージしていた感じと違うなあと」
「どんなイメージだったんです?」
「小柄で、色白で、女の子っぽくて、甘えるのが上手な」
「夫がそう言ったんですか?」
「……あ」
栗生が言葉を止めたのは風香の顔つきが変わったからだろう。
風香は無力感に襲われた。
未知留は花音を脳裏に描いて伝えたに違いなかった。
「入社して間もない頃に聞いたので、たぶん俺の記憶違いだと思います。すみませんでした」
栗生は空気を読んだのか、明るい声で言葉を重ねた。
「でも実際の奥さんの方が大人っぽくてクールで、いい意味で裏切られました! 年下だなんて思えないなあ」
「!」
風香はぐっと顔を上げた。――未知留を庇って見逃してやる理由はない。
「栗生さんは夫と同じ年ですよね? でしたら私たちも同級生ですよ」
栗生の視線が泳いだがにこりと笑って見せる。
完全に黙ってしまった栗生の隣で、風香は廊下の先を見据えた。
……どうかしてる
未知留の企みがようやく分かった。
引きこもりの花音は他人に姿を見せていない。風香を追い出した後は、初めから花音が妻だと思わせる計画だったのかもしれない。年齢も花音に合わせて“年下”だと言ったのだから。――そうか、だから会社行事に妻(風香)を同行させなかったのか。
「――ここが男性社員専用の休憩室です、どうぞ」
栗生がドアを開けた。
「……」
部屋の中を見渡した。
端にはロッカーが並んでいる。
「冷蔵庫はこちらです」
風香は「ありがとうございます」と言ってからロッカーを仰ぎ見た。名前はなく番号だけが貼ってある。
「夫のロッカーはどこですか?」
「雨宮は13番ですね」
手を伸ばした風香に栗生の声が追いかけてきた。
「あ、暗証番号ですよ」
「はい、知ってます。『妻の誕生日』です」
……そう、私じゃない方の、ね
風香は、一か八か賭けに出ることに決めた。
未知留に“先輩からの期待の座”を奪われた栗生なら、もしかしたら未知留の裏の顔に気づいている“同志”かもしれない――と希望を掛ける。
「栗生さん、夫は遠藤先輩の彼女と深い仲になっている可能性があります」
風香は背中で言った。
「夫の弱点になるはずです」
向き直って、言う。
「どうぞうまく活用してください」
「いや、そんなわけ……」
栗生は左右に首を振った。
「いくら雨宮でも、遠藤先輩に可愛がってもらってて、いろいろ目を掛けてもらってるんですよ」
「……」
「雨宮だって遠藤先輩を慕ってますし」
風香は目を細め、言葉に含みをもたせた。
「元々、遠藤先輩に気に入られていたのは栗生さんじゃなかったんですか?」
「!」
栗生が打たれたような顔になった。
「どうして遠藤先輩の好意があなたから夫に移ったのか、考えたことはありますか?」
「……」
「あの人は自分の目的や野心のために他人を利用するのが得意なんです」
……誰よりも、知ってる。
「そういう人なんですよ、私の夫は」
……私もそうやって未知留の彼女になって、妻になった。
「栗生さん、ご相談があります」
「は、はい、なんでしょう」
「これから私がすることに目を瞑ってくれませんか」
「――」
数秒の間――。
その数秒で、終始窺うように揺れていた栗生の目元が変わっていた。
栗生は何かを察したのだろうか。
彼がわざと視線を外したのを見届けてから、急いで四桁の数字を押した。
素早くロッカー内を見回す。
予備のスーツとワイシャツ、ネクタイが掛かっている。上段にポーチと、見たことのないスマホが置いてあった。
風香はスマホを横目で眺めた。花音との連絡用なのだろうか、それとも浮気相手に教える番号なのだろうか――だがどうでもよかった。
ポーチの中から目当ての鍵を抜き取り、代わりの“ダミーキー”を入れて元に戻した。
「栗生さんは私をここへは案内していない――そのことをお忘れなく」
ロッカーを閉じてから、最後の紙袋を栗生に渡した。
「……わかりました。このお菓子は俺がここに置いたことにします」
栗生がポケットからスマホを出した。
「連絡先教えてもらえるとありがたいです」
「もちろんです」
願ってもなかった。
栗生の通行証でセキュリティゾーンの外へ出てドアの前で足を止める。
「栗生さん、皆さんと一緒に必ず我が家へ来てください。今日あなたが私に感じた違和感の正体がわかるはずです」
頷いた栗生に見送られ、風香は未知留が勤務するビルを後にした。
――その足で、未知留が隠していたマンションへ向かった。