愛を失う数時間前

 「ここだ……」
 ひとりごち、マンションを仰ぎ見た。

 暗い色のタイル壁は街の風景に溶け込んでいて、いつものように通り過ぎてしまいそうだった。
 マンションへと入っていく住民をやりすごし、エントランスの案内板から部屋の場所を探した。マフラーの中に顔の半分を隠しながらエレベーターに乗り込んで、目当ての部屋に素早く入った。
 
 中はがらんとしていた。
 “浮気部屋”にでもしているのかと邪推したが、未知留が妹に話したことは本当のようで、窓にはカーテンすら掛かってなかった。
 考えてみれば、他人嫌いで妻さえ信じない未知留が、自分のテリトリーに人を招き入れるなどありえないことだった。
 
 窓からの明かりとスマホのライトで行く先を照らし、書類が入れてありそうな、造り付けの棚を開けては閉じて進んだ。
 権利書や実印、通帳はキッチンのシンク下に仕舞われていた。

 ……本当に、あったんだ。
 手に取って確認した。
 複数ある通帳も開いた。すべてを足すと億を超えていた。

 ……ばかにしてっ、
 ……これだけの資金があるくせに、私のお金も当てにしてっ

 結婚する際、未知留から『資産と呼べるようなものはこの古い洋館しかない』と聞かされていた。それを疑う必要など風香にあるはずがなかった。
 いつか洋館を改装してカフェを開く――、その夢は、これから夫婦で力を合わせて稼いでいけばいいと、風香は本気で思っていた。

 ……。
 風香に今残っているのは、未知留を信じて愛した過去への虚しさだけだった。

「ひとまとめにしてあって助かったわ」
 風香はぐんと顔を上げ、わざと声に出して言った。



    +

 その日、未知留は夜遅くに帰宅した。

「おかえり。実はね、あのあと未知留の会社に挨拶に行ったんだ」
「うん」
 未知留のしらっとした反応から予測は付いたが、誰かが未知留に知らせたようだ。
「あ、知ってた? 誰が連絡してくれたの?」
 わざと機嫌を取っているように振舞った。
「会社の人だよ」
「……」
 その名を明かすつもりはないようだ。

「ごめんね。未知留にメールで会えないって言われて、家に帰るつもりだったんだけど、せっかく買っちゃった手土産もったいないなって思っちゃって」
 両手を合わせて謝る。
「実は、あの時すでに会社の近くにいて」
「そっか」
「荷物にもなるし、さっと渡すぐらいならいいかなって」
「ふうん」
 未知留は気味が悪いほど穏やかだった。

「未知留って、会社の人たちにすごく好かれてるんだね」
「そう?」
「うん! 私がダメ出しされたほどだよ」
「どういうこと?」
 落ち込んだ風を装い、『妻として未知留をフォローできていないと指摘された』と話した。でなければ、挽回せねばと焦り家に招待した――という流れに繋がらないからだ。
「うーん?」
 未知留は顎に指先を添えて斜め上を見た。
「僕は会社で風香のことを特に話題にした覚えはないけど、なにか勘違いがあるのかもしれないね」
 ……でしょうね。あんたが話題にしたのは私じゃなく妹のことだもんね。
 風香はしおらしくしながら心の中で毒づいた。
「でも社内イベントとか、私が参加しなかったのは事実だし、責められて当然だと思って」

「……」
 未知留からは慰めも、庇う言葉も出なかった。
「これから頑張るね!」
 風香は両手でガッツポーズを作って振った。
「妻って、いろいろしなきゃいけないことがあったんだね。未知留に恥かかせちゃってて、今までごめんね」
 風香は純朴な妻を演じた。
「大丈夫だよ」
 会話の最後まで、未知留は自分の感情を口にしなかった。と同時に、風香の行動についても言及しなかった。
 風香はこの日、未知留が腸から怒るとどうなるのかを知った。


 
    +  +

 ファミレスの休憩時間、由真が早足で飛び込んできた。 
 
「今、風ちゃんの旦那さんから電話があって」
「――え?」
 突然のそれに風香は心臓を鷲掴みにされた思いだった。「なんで……」
 心の声が漏れた。
「風ちゃんの仕事内容に変更があったかどうかの確認みたい」
「!」
 風香は親指の爪を噛んだ。
 昨夜の光景が頭から離れなかった。

 夜が更けた頃、未知留はそっとベッドから出て暗闇の中で風香のスマホを開いた。――暗証番号を咄嗟に変えておいたのは虫の知らせかもしれなかった。
 未知留は開けられず諦めたが、安心するわけにはいかなかった。

 未知留はたぶん、ダイレクトに「見せて」と言ってくるだろう。それを拒めば信用を取り戻すことは容易ではない。念のため、朝の慌ただしい身支度の隙に優斗と栗生の番号を疎遠になった知人の連絡先へ移しておいた。


「風ちゃん、大丈夫だよ。『変更ありません』って答えておいたよ。それで良かったんでしょう?」
「!」
 心細さと安堵の入り混じった顔を晒したのかもしれなかった。
 由真のてのひらが風香の肩に乗った。
「まだ時間あるからゆっくり休んで」
 由真の優しい囁きが、沁みた。

 静かにドアが閉まり、風香は両手で顔を覆い――、落ち着け、落ち着け、と自分を励ました。
 未知留がどう出ようと自分がやるべきことはただひとつだ。

 急ごう。

 風香はスマホを取り出し栗生にメールをした。
< 36 / 61 >

この作品をシェア

pagetop