愛を失う数時間前
「どうしたの! さっきまで何も言ってなかったのに」
席に着いた未知留に嬉しそうに駆け寄って小声で言った。
未知留はまだ能面のように笑っていた。
「風香を見送ってから、急に行きたくなったんだよ」
……嘘ばっかり。本当に出勤してるか、確かめるためのくせに。
「そっか、嬉しい!」
未知留が自分の思惑通りに動かない風香に、疑いの目を向けているのは言うまでもなかった。
「なに食べる?」
風香は笑った。
未知留はハンバーグのセットを指した。
「これをふたつで。のんの分はテイクアウトでお願いできる?」
「かしこまりました」
風香は親しみのこもった笑みと営業用の言葉づかいで未知留の席を後にした。
背を向けた途端、動悸が激しくなった。
未知留の信頼を失えば警戒に繋がり、復讐など夢のまた夢になってしまう。
……うまくやれているだろうか。
他の客を接客しながらも全神経は未知留へ向いていた。
未知留はゆっくり食事をし、ドリンクをお代わりをした。
窓ガラス越しに感じるその視線は、まるで蛇のように風香へまとわりついた。いつも通りの妻かどうか――、細部まで見極めようとしているのが分かった。
――「おつかれさま。朝食出来てるよ」
帰宅すると未知留が爽やかな笑顔を向けてきた。
「いつもありがとう」
風香は眠そうな目で礼を言った。
風香の深夜勤務を見届けた未知留は、ようやく警戒を解いたように見えた。
「あ。そうだ、みんなを家に招待する日そろそろ決めないとね」
珍しく未知留の方から言及してきた。
「うん! お願い。十二月は仕事も忙しいしさ、日程早く知りたい」
風香は身を乗り出すようにして迫ってみせる。
「前にも言ったけど、クリスマスの前がいいな」
風香をストーカー扱いしたのだ、その日が来ても風香(妻)を表に出すつもりはないはずだ。
すべてわかっていて、風香は急かした。
「今度こそ、内助の功ってやつ、発揮してみせるよ!」
「たのもしいね」
「まかせて!」
最後まで、互いの仮面は剥がれなかった。それを知っているのは自分だけだということに風香は悦に入る。
その日の夜、未知留が言葉通りに日程を持ってきた。
「二十四日になったよ」
「え、休日でイブだよ?」
「その日がいいという人が多かったんだ、特に遠藤先輩がね」
「そうなの? でもイブだなんて……」
風香は焦ってみせる。「出勤代わってもらえるかなあ」
カレンダーに視線を合わせる。店長には、『クリスマスまでは働けない』とあらかじめ伝えてある。
「イベントの日は休むと迷惑が掛かるんだけど、どうしよう……」
「料理はプロに注文するから、風香は何もしなくて大丈夫だよ」
「え、でも」
「もちろん風香が作ったことにするから安心して」
「それじゃ、私が“もてなす”って未知留の会社の人に言ったの、嘘になっちゃうよ」
「食事の準備をして仕事に出掛けたって説明するよ」
「そういうわけには……」
「掃除はしておいてくれるでしょう?」
「もちろん、するけど、でも」
未知留の目元がすっと冷え、唇が閉じたまま横に伸びた。
「風香、僕がそれでいいって言ってるんだけど」
「……決定?」
恐る恐る聞く。
「うん。決定」
「……わかった」
風香はいつも通り、折れた。
長い年月の中で、そう躾けられたと今なら分かる。
「……」
風香は下唇を噛みしめる。
そうして不本意だがあきらめる――という演技をして、未知留の傍から離れた。