愛を失う数時間前【通常版】
03 日常が壊れる音
――今も昔も風香を支配するのは、『愛されなかった』記憶だ。
風香が幼い頃、両親が離婚しそれぞれに新しい家族を持った。
ダブル不倫の末だった。
母は風香と同じ年の息子がいる恋人の元へ行き、父は娘がふたりいる女を妻にした。
風香の家には朗らかな継母と礼儀正しい義姉妹がやってきて、荒んでいた父は『理想的な夫』『頼もしい父親』の顔を振りまくようになった。
そんな中、風香は父に外へと連れ出された。
「お父さんは、お母さんたちが早く慣れるように努力している。だからおまえがそんな態度だと困るんだ」
「……」
言葉の意味が理解できずにいると、父は苛立った声色を向けてきた。
「いつもムスッとしてるじゃないか」
……私が?
「意地の悪いことはするな」
……意地の悪いことって、なに?
……私をどんな人間だと思ってるの?
暴言に思えるそれに絶句していると、父はさらに語気を強めてきた。
「ひとりだけ家族の輪に入らないで被害者面していることを言ってるんだ」
……それは、みんなの仲が良すぎて、私が入っていけないだけじゃない……
「……」
「もしもこの家が気に入らないなら母親の方へ行けばいい」
!
その一言で風香は悟った。……お父さんも、私のことが邪魔なんだ、と。
――――「母親のくせに子供を連れて行かないのか」
母が家を出ていく前日だった。
真夜中のリビングでは話し合いが続いていた。
風香も眠れなかった。
――もし、両親のどちらかが『やり直そう』と言い出したら、すぐに飛び出して「みんなで頑張ろう」と言おう!
風香は、祈るような気持ちで暗い階段に座り込んでいた。
乱暴な口調で父は続けた。
「男には息子がいるんだよな。その子供だけを育てるってわけか」
母が淡々と言った。
「彼と話し合って、そう決めたから仕方ないわ」
!
風香は自分の耳を疑った。
父とこの家に残るようにと、父が寂しがるから仕方がないのだと辛そうに言ったのは母だ。
……違ったんだ、お母さんは私を置いていきたかったんだ。
母のついた嘘が風香の幼い心を鋭く抉った。
風香はあの瞬間、母への思慕を葬った。
……これからはお父さんとふたり、仲良く暮らしていこう。意地でも。
でもそれも見当違いの決意だった。
+
……なぜ、この名前が出てくるの……?
風香は手紙の束をみつめながら、嫌な予感に取り囲まれた。
……しかも未知留の部屋で、こんな風に隠すようにして。
不穏に波打つ心臓の音を意識しながら、恐る恐る封筒から便箋を取り出した。
『未知留、元気?
また懲りずに手紙を送ります。
電話もメールもDMも俺だとわかると拒否されるから、こうするしかないこと分かってくれ。
もしかしたら未知留は俺の手紙を読まずに捨ててるのかもしれないと思ってる。だからしつこく同じ内容で送ってる。もしこれまでの手紙をちゃんと読んでくれてるんだったら、同じことばっかでうんざりするだろ。それが嫌だったら頼む、連絡をくれ』
風香は次々と封筒を開けていった。
『未知留、また手紙を書いてごめん。
どうしても伝えなきゃいけないんだ。
風香さんの母親のことなんだ。
前回はなんとか持ちこたえたけど今回は分からない。だから最後にどうしても会わせてあげたい。
顔を見て話をすること、手を握ること、謝ること、そのくらいはさせてやりたいんだ。
いつか一緒に暮らすために別々に暮らすことを選んだって、風香さんにちゃんと伝わってない気がしてさ。
俺は未知留が風香さんに話してくれたと信じてるけど、本当はどうなんだ?
未知留を疑うわけじゃないけど、実の母親が死にそうだっていうのに無視するなら、彼女はお母さんをまだ恨んでるとしか考えられないから、おかしいなって、思ってさ……、責めてるように感じたらごめん』
『風香さんから連絡がない理由は、未知留の嫉妬なのか?
だったら約束する。俺は自分の気持ちを絶対に打ち明けないし、未知留が嫌ならひとことも言葉を交わさない。目だって合わせない。誓うよ。信じられないなら、未知留が一緒に付いてくればいい。だからお願いだ。風香さんに、お母さんに会いに行くよう説得してほしい。
病院の場所と病室の番号を書いておく。絶対に渡してくれよ。もし今度も無視するなら俺にも考えがあるから。
それじゃ頼んだ。
未知留、おまえともまた会いたいよ。その日を待ってるからな』
日付は風香たちが結婚する以前のものだった。
……なんなの、これ。
母親の再婚相手の子供と未知留が友達だったことも初耳だったが、その子供が自分を知っていることも解せない。そして母親が自分と『いつか一緒に暮らす』と考えていたとはどういうことだろうか。しかもその事情を未知留が知っているとも書かれている……。
動揺と混乱の中、すべての手紙を読んだ。
――手術後半年が経ったが退院のめどが立たない、いつ急変してもおかしくない、今のうちに会わせたい――予後が悪く意識混濁の状態が続いている――また手術になった、術中に亡くなる可能性もありその前に会わせたい……
先に読んだ手紙に書かれていた通りほとんど同じ内容だった。
すべてを読んでから元の状態に戻して写真集を閉じた。
「……」
閉じてから、最後のページがわずかに膨らんでいることに気づき、再び慎重に開いた。住所は未知留の会社宛てで、切手の日付は風香と未知留が結婚した後だった。
『ハガキありがとう。ずっとずっと、待ってたから嬉しかったよ。
そして結婚おめでとう。
未知留の言うことはもっともだ。俺ももう手紙を送ったりはしないよ。この手紙も言われた通り会社宛てにした。大丈夫だったよな?
最後に未知留に謝りたいことがある。
悪かったよ。
あの時、“どういうつもりで彼女に近づいたんだ”なんて言ったこと、後悔してる。ただ分かってほしい。あの頃、俺は真剣に悩んでた。悩んで未知留に話を聞いてもらってた。おまえには彼女が俺の初恋だって話したよな。いつか再会してちゃんと始めるために、今は会えないってことも話した……。
それなのに彼女と内緒でつきあい始めただろ。裏切られたと思ったし、大切だった女の子も友情も失って俺も苦しかった……。
けど結婚するって聞いて、ようやく未知留が真剣だって知ったんだ。
彼女が幸せになるなら俺は応援するよ。
それで未知留に頼みがある。
結婚式は挙げないで籍だけ入れるって書いてあったけどに、お母さんに彼女の花嫁姿を見せてあげてほしい。ずっと楽しみにしてたからさ。その相手が俺だったらよかったけど……ってごめん、最後まで未練たらしくて。けどこれで最後の最後だからさ、俺の皮肉を結婚祝いだと思って受け止めてくれ。
彼女を幸せにしてくれ。頼んだぞ』
「わけわかんない……」
風香は思わず声を漏らしていた。それほどの衝撃だった。