愛を失う数時間前
20 たのしいクリスマス
――クリスマス・イブ
「玄関の周辺、きれいにしてくるっ」
昼食もそこそこに、風香はダウンコートを羽織った。
「もう大丈夫だよ。十分きれいだって」
未知留は笑っていた。
「いいから、やらせて」
……最後の確認と準備だから。
風香は「えへへ」と笑った。
通りからは、洋館の全体は見えない。
樹木が周りを取り囲み、玄関までのスロープは弓なりになっている。
枝分かれしたひとつは車庫へ続き、ひとつは庭へ伸び、一番細い通路は洋館の外周をひと回りできるようになっている。
外周の障害物はすべて取り除いた。
後は、行く方向を示す矢印↑の電飾を点け、門扉から玄関への通路にはプランターやオブジェを置いて通れなくすればいい。
+
風香は掛け時計を見上げた。家を出る時間だ。
「会社のみなさんが来るのは四時頃だったよね?」
「そうだよ」
未知留の表情にも声色にも、妻への一片の罪悪感も浮かんでいなかった。
「驚くだろうなあ、この素敵な洋館を見たら!」
風香はぱあっと表情を明るくさせる。
クリスマスムード一色の華やかなリビングは、洋館の雰囲気にぴったりだった。
……まるで映画のセットね。
風香は、未知留に微笑みかける。
……この『茶番劇』の主人公は未知留、あなただよ。
「そこまでじゃないよ、ただ古いだけだし」
「未知留は生まれたときからこの家に住んでるから麻痺してるんだよ! 私、最初に来た時、美術館とかお城かと思ったんだよ」
「それはいくらなんでも言い過ぎ」
未知留は機嫌良く否定してから、時計を見上げた。――もう行ったら?
心の声が聞こえてきそうだった。
「じゃ、そろそろ行くね」
風香はソファから立ち上がった。
――今日、家には誰も来ない。
そもそも未知留は、今日のパーティーのことを会社で一言も口にしていない。そう栗生から聞いている。
風香は無言のまま無駄に笑みを浮かべた。
『雨宮未知留』は、こんなにも鮮やかに嘘を吐く人間だった。
出会って友達になり、恋人へ、さらに夫婦になるまで、意のままに動いた風香はさぞ扱いやすかっただろう。
「……」
未知留を前にしても心は何も動かなかった。
未知留と向かい合って浮かべるその笑顔は今、鏡と同じだった。
「私もなるべく早く帰ってくるね」
身支度を整えながら言う。
「ん?」
「店長がね、“新婚”だからって、悪がってくれて」
「……」
わずかだが未知留の目に剣が宿り、口元に不快さが滲んだ。未知留を疑わなければ見過ごしているサインだった。
……ほんとうにね、笑っちゃう、私たち“新婚”だったんだよね。
ねえ、未知留、それについてどう思ってる?
「まあ、あんまり期待しないで。早く帰れたらラッキー、ぐらいに考えてて」
もっともらしいことを口にした。
「客商売って先が読めないから……」
「うん。そうだよね。無理しないで」
「……」
これで未知留は少し焦るだろう。
妻が帰宅するまでの時間を計算し、愛する妹との甘い甘いクリスマスパーティーを、たっぷり過ごすつもりでいるだろうから。
「じゃあ、帰ってこれそうならメールくれない?」
「え?」
風香はわざとぽかんとした顔を向けてみた。
これまで未知留は、妻からの『帰るコール』を必要としたことがなかった。
「……」
風香の反応から未知留もそれに気づいたようだが、ポーカーフェイスは崩さなかった。
「もし間に合うようだったら会社の人たちに少し待ってもらうよ」
「ああ、そういうこと」
風香は屈託のない顔を向ける。
「そうだよね、未知留の妻だもん、挨拶ぐらいはしないとね」
「早く帰ってこられるといいね」
……心にもないことを。
「うん」
嘘を平気で口にできる未知留の声を背中で聞きながら、玄関で靴を履く。
「じゃあ今日は、よろしくお願いね」
「まかせて」
「いってきます」
「気をつけて」
風香は笑顔で手を振った。
その背中を未知留に見送られ、クリスマスリースが飾り付けられた玄関ドアを閉めた。