愛を失う数時間前
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『――――わあ!』
風香の耳に、クリスマスの電飾にはしゃぐ花音の声が聞こえてきた。
『風香がひとりでやったんだよ。気に入った?』
『……気に入った、けど、こんなことぐらいであの人のこと許さないで、お兄ちゃん』
『わかってるよ』
『もっと冷たくしないと! お兄ちゃんの邪魔して恥をかかせたんだもん』
『でも反省してるようだから』
『お兄ちゃん、優しすぎるの!』
……なるほど。
未知留の一連の行動には『罰』の意味合いが含まれていたのか。
風香は、いつもの小部屋で兄妹の会話を淡々と聞いた。
『でもさ、誰も来ないのに一生懸命掃除して、準備して、僕の機嫌を取ろうと必死だったでしょ』
未知留が満足気に――クスッと笑っている、その表情が目に浮かんだ。
『だから、もういいんじゃないかな』
『えー』
『ね、今回だけ』
……。
風香は薄暗く寒い小部屋の中で、未知留との日々を思った。
未知留と長い年月を過ごした。
相手の性質を知っているのは未知留だけじゃない。風香もまた、未知留がどうすれば機嫌を直すか知っている。
……私もね、未知留。あなたが私に絆されるよう、動いたに過ぎないよ。
『さあ、パーティーを始めよう』
未知留の声と共に、未知留の好きなバロック音楽が流れた。
『そろそろ頼んだ料理とケーキが来る時間だし』
シャンパンの蓋が飛んだ音がする。
『のんが好きなロゼのワインだよ』
『ありがとう、お兄ちゃん』
液体を注ぐ音の中、花音の声が少しくぐもる。
『ねえ、あの人、本当に早く帰ってくるの?』
花音は一秒でも長く未知留と過ごしたいようだ。
……のんちゃん、心配しないで。
風香はくつくつと笑う
……心配しなくても、この先はふたりきりだよ。よかったね。
『飲食店はイベントの時期が一番忙しいから、どうだろう』
『ふうん』
働いたことのない花音にはピンとこないようだ。
『クリスマスもそうだけどお正月もたぶん忙しいよ』
『わあ! よかった』
……。
風香はしらっとしながら心で未知留に話しかける。
……そのために、私のことを人気のファミレスで働かせたんだよね。
『お兄ちゃんとクリスマスできないなんてかわいそ』
はは……
心にもないことを言う花音に失笑する。
『ただ、可能性は低いと思うけど用心はしておいたほうがいいから』
チャイムが鳴った。
注文していた料理が届いたようだ。
未知留の足音が玄関の方へ向かって小さくなっていく。
『頼みすぎちゃったかな』
未知留の声が足音と一緒に戻ってきた。
袋や箱を開けるガサガサとした音、皿やグラスをテーブルに並べる音、その間に花音の『すごい』『かわいい!』『豪華!』とはしゃぐ声が挟み込まれる。
『あの人の分は?』
……そういえば、ずっと“あの人”呼びなのね。
風香は片頬を揺らす。
花音は結局、自分のことを一度も「風香さん」とも「お義姉さん」とも呼ばなかった。
……結構、尽くしてあげたはずだけどね。
『これは僕とのんの分だよ。だから遠慮しないで食べて』
『やった!』
『のん、乾杯しよう』
『うん!』
『今年ものんとふたりでイブを過ごせたことに感謝して、乾杯』
『乾杯』
それからしばらくは楽しそうなカップルの会話が続いた。
――つまらない、くだらない、甘い言葉のオンパレードだ。
だがそろそろ腹も膨れ、アルコールも十分入った頃だろう。
風香はそっと小部屋から這い出た。
外へ出て、大きく呼吸する。
スマホを取り出し未知留の番号を呼び出す。
「――未知留、ごめん」
わざと小声を向けた。
「今、スタッフルームでこっそり掛けてる。店忙しくて」
早口で言う。そして声を沈ませた。
「やっぱり早くは上がれないや。『上がっていい』って言われてもこの状況じゃちょっと……」
「そっか、残念だね」
未知留のしらじらしい言葉を聞きながら「もう切るねっ。ごめん」と畳みかけた。
『――――つも通りの時間になるって』
そっと小部屋へ戻る。イヤホンが兄妹の会話を拾う。
『やった! じゃあ夜までお兄ちゃんを独り占めできるのね!』
『はは。僕のことは今日に限らず、のんがずっと独り占めしてるだろう?』
『心のことじゃないもん』
『わかってるって』
デリバリーも到着し、妻(風香)も戻らない――未知留は今、一瞬で気が緩んだだろう。ドアにはチェーンは“絶対”掛けたはずだ。だからこそ、とっておきの“コース”を用意した。
風香は再び外へと出て、シミュレーション通りにプランターとオブジェで玄関への通路を塞いだ。そして、外周に配置した『↑』の電飾を点けた。
栗生にメッセージを送った。
風香:そろそろ来てもらえますか?
栗生:了解です
再び小部屋へと戻ると、イヤホンから服が擦れるような音がし始めた。
『ふたりきりの世界』が訪れた途端、案の定、兄妹は雄と雌になった。湿った水音が聞こえてきた。
「……」
風香は無表情で、耳から耳へ雑音を流した。
『のん、酔っぱらっちゃったあ。目、開けてらんなあい』
『はは。のん、誘ってるの? 僕を煽るのがほんと上手いんだから。誰から教わったの』
『お兄ちゃんしか、いないでしょ、もっ、――きゃ』
『のん、今日はずいぶん軽装だね……まさか下も』
『やんっ、お兄ちゃんの、えっち』
『――これはおしおきしないと』
『ん、つ、冷たいよぉ、のん、ケーキじゃ、ないんだけど……んんっ、あ――はぁ、……ん』
『おかしいなあ、のんが、いつもより甘い』
『お兄ちゃんにも、お返しっ』
『ふふ、ふ』
『んふふ、ふ』
『ふふ―――― ひっゅっ』
甘ったるく重なり合っていたふたりの声に、喉に空気が入ったようなそれが混じった。と同時に、テーブルか椅子か、なにかが鈍い音を立てた。兄妹がリビングの窓の向こうにいる来客に驚き、立ち上がった音だろう。
『な、なん、で……』
それは風香が初めて聞いた、未知留が激しく動揺したことを裏付ける弱々しい声だった。