愛を失う数時間前
21 イブの断罪
――やっほー
――おーい、来たぞー
リビングの窓を叩く音と一緒に、複数のはしゃいだ声がした。
『――どうすれば……』
未知留が怯えている声を初めて聞いて、風香は鼻歌を歌いたい気分だった。
『……のん、大丈夫だから、僕の言うとおりにするんだ、いいね』
今にもガチガチと歯が鳴りそうなほどの小声で未知留が言っている。
『……』
花音の返事はない。
『のんっ』
未知留が喉の奥で怒鳴っている。
花音は放心状態のはずだ。自分を知る人間はこの世に兄と風香しかいない。大勢の人間が窓に張り付いている様はさぞ恐怖だろう。
『……しっかりしろ。いいか、ここを乗り切るんだ。僕が絶対に何とかするから――わかったか、のん』
『……』
花音は頷いたのかもしれなかった。
未知留が歩き出す音がした。窓の方向へ声が向かっている。
『あの、どうしたんですか?』
爽やかな声色を作っているが表情はどうだろう。
引き攣っているんじゃないだろうか。
『どうしたって――、雨宮君からご招待の時間を聞いてないから俺らもどうしたもんかと思って』
『招 待?』
『えっ? 今日だよね? イブに予定のない人だけ『噂の洋館』に呼んでくれるって』
『……とにかく、玄関。そっちへ歩いて――、ありますから』
未知留は今、間違いなくパニックに陥っているだろう。普段では考えられない雑な言い回しをしている。
『おじゃましまーす』
未知留が招いたであろう玄関から、どやどやと賑やかな音がする。
『こんにちは。お土産です』
女性の声も数人混じっている。
『噂通りすごい家だなあ』
この声は遠藤先輩だ。
『明治や昭和を舞台にしたドラマに出てきそうだ。な、川奈くん』
『……そうですね』
未知留との仲を疑いながら“ミス広報”の彼女も連れてくるとは、思った以上に遠藤先輩は怖い人だ。それを承知で来ただろう彼女も、遠藤先輩の疑念を晴らすことより未知留の家や妻が気になって仕方がないのだろうか?
なかなか面白いことになりそうな予感がして、風香は笑いを堪える。
『――どうぞ、座ってください』
未知留の声は上擦っていた。
『今、お茶を……』
どかどか、がたがた、と音が立つ。
スリッパは人数分揃えてきた。椅子も同じ数だけ用意してある。
未知留がこの“違和感”に今気づけたなら、これから起こる修羅場の半分ぐらいは回避できたかもしれない――、残念。
『あっ、こんにちは! 今日はお世話になります!』
誰かが花音に気づいたのだろう。
当然、テーブルに準備されていた二人分の食事やワインにも目がいくだろう。
『やっぱり我々早く着き過ぎたんじゃ』
『雨宮君、申し訳なかったな、俺たちとの約束の前に奥さんとパーティをしてたのに、邪魔しちゃったな』
『は、まあ……』
未知留は必死に頭を回転させているはずだ。
いつ招待すると言ってしまった?
いつ“今日”の日付を口にしてしまった?
そして冷静になろうとすればするほど、次の問題に直面する。
――もてなすための料理はどうすればいい?
今から注文なんてできるはずがない。
テーブルの上を咄嗟に見るだろう。
残っているものはないだろうか。だが食い散らかした料理など客に出せはしない。
『雨宮君の奥さん、超綺麗ね!』
女性社員が花音の容姿を誉めだした。
『やっぱり会社に来た女はストーカーだったのね。怖すぎるよねえ』
女性は三名が参加だと栗生から聞いている。“ミス広報”は花音の美しい容姿にショックを受けているのか、それとも敵対心からか、返事も相槌も聞こえてこなかった。
『――あ、ええと、妻です。よろしくお願いします』
未知留が花音を『妻』と紹介した。
ぷはっ
風香は可笑しくてたまらなかった。
未知留は墓穴を掘った。妹を妻だと言い切ってしまった。
『今、妻がお茶の準備をしますので……』
未知留が二度同じことを言った。
平常心を失った証拠だった。
『行くよ』
立ち尽くしているだろう花音をキッチンへ誘導してあげるようだ。
人に慣れていない花音を皆の視線から守るために震えているその背中を支えているとしたら、その様子もまた、仲睦まじい新婚夫婦に映るだろう。
皆、窓から兄妹ふたりがキスを――いや、もっと際どい行為をしているのを目撃したはずだから。
風香のスマホが振動した。
メッセージは栗生だった。