愛を失う数時間前


 風香は耳からイヤホンを抜いてポケットへ移し、滑るように庭を抜け道路へ出た。
 栗生が歩いてくるのが見える。両手に風香の勤め先であるファミレスのロゴ入りの袋を持っている。
 駆け寄って荷物を受け取った。

「ありがとうございます。パシリみたいなことさせちゃってごめんなさい」
「お安い御用です」
「では行きますか」
 風香は共犯者の視線で栗生を見上げた。

   +

 玄関の鍵は開いていた。
 未知留の動揺が伝わってくる。
 風香は靴を脱ぎ、すっと背筋を伸ばした。
 栗生と頷き合い、賑やかなリビングに向かって歩き出す。

 ガチャッ
 ドアノブを回した。
 その瞬間、空気が凍った音が――本当に聞こえた。
「みなさん、いらっしゃいませ。ようこそ」
 風香は明るく、はきはきと言葉を掛けた。
 その場の全員が固まっている。
 ……犯罪者と思っている人間が来たのだから、その反応も当然だ。
 
「やっぱりお料理きてないんですね。持ってきてよかったです――未知留、手伝って」
「……」
 キッチンにいる未知留は恐怖とも憎悪とも取れる顔で唇を震わせていた。
 風香はたっぷりと微笑んだ。
「あれっ、珍しい。のんちゃんも下りてきたの? 部屋から出てきたことないのに」
 呆然としている面々に向かって言った。
「――あ、みなさんにご紹介済んでますか? あの子は未知留の妹で、名前は花音です。“美人さん”で夫にそっくりでしょう?」
 優雅なバロック音楽が流れる中、誰ひとり言葉を発しない。
 風香は慣れた手つきでテーブルに料理を並べた。
「手伝います」
 栗生の声に、ありがとうございます、と笑顔を返す。
 
「みなさん、どうかされたんですか?」
 栗生が不思議そうに声を掛けている。
「なにかあったんですか? 俺、遅れて着いたんでわからないんですけど」
「え……、だって、その……」
 誰もが状況を把握できない、といった様子だった。
 風香は表情を曇らせてみせる。
「すみません、手作りじゃなくて。まさかイブにみなさんをお招きするとは思わなかったもので」
 栗生だけが「そんなそんな」と大袈裟な相槌を打ってくれる。
「飲食業はクリスマスとか死ぬほど忙しいじゃないですか。かえって申し訳なかったですよ。ね、先輩」
 栗生が遠藤先輩に振った。
「――あ、えっとそうだな。栗生君が、奥さんと連絡取り合ってたんだったな……」
「はい。この前、奥さんが会社にいらしたときに意気投合しまして」
 
 未知留からイブに皆を招待すると聞かされ、栗生に知らせた。
 ――会社では全然、話題にすらしてないです……
 栗生は悔しがってくれたが、その流れは風香の予想していた通りだった。

 栗生と相談し、シナリオを用意した。
 まずは栗生が、社員の何人かに声をかける。『イブの午後』の食事会など普通は敬遠されがちだが、そこは社風が後押しした。新入社員の栗生から「一人は寂しいんで、ぜひ!」と頼まれれば、先輩や上司は「しかたないな」と笑って応じる。結局、誰ひとりとして断る者はいなかった。
 栗生が選んだのは未知留の評価に敏感な中間管理職、不倫を極端に嫌う先輩、社内で“スピーカー”と呼ばれる女性社員たち――いずれも目と耳が確かで、口が軽く、正義感が強い。
 そうして前日の夜、行き先を雨宮家に変更した。「予定がなければ誰でもどうぞ」と、妻(風香)からの招待付きで。

「栗生君も、言ってくれたらよかったのに……」
 困惑している遠藤先輩の横には“ミス広報”がいる。少し前まで驚愕一色だった眼差しには今、嫌悪感しか浮かんでいない。
「俺は『先輩たちが招待されてる』って聞いたんで、俺に付き合ってくれた後にこっそり行くんだと思ってたら、奥さんから『遠慮しないで一緒に来てください』って言ってもらって。で、乗っかったんです」
 栗生は終始落ち着いている。
「いや、俺たちは誘われたわけじゃ……、その」
 こういう時、男はどうしたらいいのかわからないようだ。女性陣はすでに気持ちを切り替えて、品行方正な未知留のスキャンダルに目をぎらつかせているというのに。
 
「……っていうか、イブって決めたのは、栗生君だろ……?」
 風香はすかさず割って入った。
「もともとイブがご招待日でしたから、偶然ですね」
 この流れに持っていきたかったのだ。
 風香はスマホの画面を軽くタップした。

 ――二十四日になったよ
 ――え、休日でイブだよ?
 ――その日がいいという人が多かったんだ。特に遠藤先輩がね
 ――そうなの? でもイブだなんて…… 出勤代わってもらえるかなあ……
 
 ――料理はプロに注文するから、風香は何もしなくて大丈夫だよ
 ――え、でも
 ――もちろん風香が作ったことにするから安心して

 録音の再生を止めてから、言う。
「栗生さんには相談に乗ってもらってたんです。夫は、私には何もしなくていいと言うけれど、お料理を注文し忘れてるみたいだったので心配で……」
 未知留を見遣った。
 未知留は固まったまま、棒のように突っ立っている。倒れる寸前の花音がその腕にぶら下っている。


「ということで、申し訳ないのですが私は仕事に戻らないといけません。今は『配達』ということで出てきたので」
「……あ、は、はい、どうぞ、お戻りください」
「……我々のためにありがとうございました」
 風香の退場に、皆が呪いを解かれたように風香を労った。
「すみません。ではみなさん、『ごゆっくりお楽しみください』」
 風香は営業スマイルで一礼した。
 そして未知留に視線すら与えずリビングのドアを閉めた。


 玄関を開けると、冷気が肌を刺した。
 真冬の風に背筋を伸ばす。
 
 ――この呪われた洋館を、
 風香は振り返ることなく立ち去った。


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