愛を失う数時間前
22 戻れるならば
――終わった。
風香は、白い息を空に向かって吐いた。
軽やかな足取りでファミレスへと歩きながらスマホを確認する。
由真からメッセージが入っていた。
由真:風ちゃん、うまく家を出られた?
自然に笑みが零れた。
自分を心配してくれる誰かの存在を、素直にありがたいと思う。
由真:荷物取りに来るでしょう? 待ってるよ
退職した風香はスタッフルームに入れない。
置かせてもらったスーツケースは由真に持ってきてもらうことになっていた。
メッセージを返す。
風香:今、そっちにむかってるところ!
詳しくは行ってから話すね
仕事を終えた由真を職場で待機させていると思うと、気が急いで早歩きになる。
優斗からもメッセージが入っていた。
読んですぐ、てのひらの中でスマホが振動した。
既読マークが付くのを待っていたかのように、新しいメッセージが届いた。
優斗:よかった。
読んでくれたってことは、終わったんだよね
!
風香はその文字に目を凝らした。
優斗:今日その家、出るんだよね。
ごめん、由真ちゃんから無理矢理聞いた
……由真ちゃん、
風香は弱い息を吐く。嬉しいような、
でも……。
優斗:駅で待ってる。
そのとき、大事な話するから
……大事な話?
風香は、無意識にポケットの“膨らみ”に指を這わせ――
はたと立ち止まった。
……ない!
両方のポケットをまさぐった。
……ない。
確かに入れておいたはずだ。
『復讐の日』を数えてきた間、
ポケットの“膨らみ”が風香の心を保っていた。
どこで落としたのだろう。
ポケットにはイヤホンしか入っていない。
風香は足の向きを変えた。
もう二度と通らないはずの道だったが、目を凝らして地面を探した。
みつからないまま家の前まで来てしまった。
「……っつ」
風香は不安感から口元を押さえた。
戻りたくはなかった。――だが、戻らねば。
優斗を十七年も縛りつけたあのストラップを、こんなに簡単になくすわけにはいかない。
風香はぐんと顔を上げた。
今ならまだ、会社の人たちが家の中にいる。『忘れ物をした』と言えば不自然ではない……、はずだ。
緊張のまま足早に玄関へと急ぐ。
だが目前で飾り付けたクリスマスリースがわずかに動いた。
風香は慌てて壁伝いに飛び退いて身を隠した。
すぐにドアが開き足音が続く。
……まさか、もう帰るの?
不安は的中した。
複数の声が「お邪魔しました」と言っている。
だが、それならば今がチャンスだ。
未知留も見送りに玄関で足止めを食う。花音がどう動くかは読めないが、鉢合わせしてもあの子に何か出来るわけもない。未知留にさえ会わなければどうとでもなる。
風香は急いで外周を突っ切った。
荷物を外に置き中庭のドアから家の中へ入った。悲鳴を上げたくなるほど冷えた廊下を滑るように進み、神経を研ぎ澄ましリビングへと近づいた。
中には誰もいなかった。
テーブルの上の料理も食器もグラスも、風香が用意した状態のままだった。
開け放ったリビングのドアから玄関先の声が小さく聞こえる。
風香は身を屈め、急いで床を這った。――ない。――ない。――ない。
「――はあ」
!
未知留の、溜息にしては大きな吐息が向かってきた。風香は急いでキッチンへ逃げた。心臓が跳ね上がる。
「っちくしょうっ、クソッ」
未知留の口から初めて聞く汚い言葉だった。
「お、お兄ちゃん……、どうしよう……、どうしよ……」
「っ、……なんで、こんなことにっ」
「あの人が、来なきゃよかったのに……」
「――のん、僕たちは嵌められたんだよ」
「どういうこと?」
「ぜったい許さない、あのクソ女、殺してやる」
!
風香は吐息すら漏らさないよう両手で口元を覆った。