愛を失う数時間前


 
「――のん、玄関の鍵とチェーン掛けてきてくれる? これ以上他人を家にいれたくない」
 疲れきった声が言った。
「うん、わかった」
 花音のスリッパが遠のいて、室内は無音になった。

「――」
 風香は未知留の気配に集中した。肌の上に、見えない微細な何かが積もったようで煩わしい。払いのけたい。一秒、一秒が長く遠く思える。ここで僅かでも音を立てたら終わりだ。

 花音の足音が戻ってきた。
「お兄ちゃん、これ落とし物、誰か戻ってくるかな……」
「見せて」
「うん、ストラップ……」
 !
 心臓がバクン、と鳴った。
 一瞬、空気が切れた――気がした。
 
「……はっ、ははははは」
 未知留が一音ずつ切り取ったような不気味な笑い声を立てた。
 
「のん、お兄ちゃんが悪かった」
 未知留は笑い声をぴたりと止め、温度のない声で言った。 
「のんが僕に嘘をつくはずがなかったのに」
「のんは、お兄ちゃんに嘘はつかないよ」
「そうだね。風香の浮気も本当だった。“これ”を持ってるヤツは世界にひとりしかいない」
「さっきの……、あの中にいたの?」
「そうじゃないよ、のん。でも僕にはわかる。この家に来たのは“あいつ”だ」

 !
 サア―ッと血の気が引いた。
 ――ああ、なぜ想像できなかったのだろう。優斗と未知留が親しくしていた頃、ストラップの記憶についても未知留に話したであろう可能性に。
 這いあがれない穴に落ちた感覚だった。

「なるほどね」
 未知留がストラップを弄んでいる音が聞こえてくる。
「あいつらくっついたんだ。せっかく邪魔したのに。ふーん」
「お兄ちゃん?」
「調べてみようか」
 未知留がソファから立ち上がる音がした。
 風香の持ち物の多くは主寝室にある。優斗と繋がるものを探しに行くつもりなのか?
 遠ざかっていく足音に――、脳みそがフル回転する。
 キッチンから出るならチャンスは今しかない。
 
 風香は極限の緊張感をほんの一瞬、解いた。その途端、硬直し続けた関節が小さな音を立てた。
 ……ひっ、
 思わず声を上げそうになる。
 落ち着け。――落ち着け。
 ……未知留はそこにいない。

 風香は全神経を耳に集め、慎重に中腰になった。
 脱出できそうな窓のある部屋を頭の中で手繰り寄せる。
 ……本当は寝室の方向へ進みたかった。
 あの先に中庭がある。……ああ、荷物も靴も置いてきてしまった。

 風香は中腰のままキッチンから廊下へ抜けた。が、咄嗟に窺ったリビングに花音のスカートの裾が映り込んだ。
 !
 残像? 
 未知留と一緒に寝室に行ったとばかり思っていたのに、まさかリビングに花音がいた? 物音ひとつしなかった――のに?

 脈打つ音が皮膚を突き破りそうだった。
 風香は廊下へ脱出しつつ、摺り足で迷った。

 窓から外へ出られる部屋はリビングに近い。
 花音がそこにいるなら、ドアの開閉音を聞かれてしまう。
 ……どうすれば。
 
 風香は入るはずだった部屋をあきらめ、滑るように廊下を進んだ。
 もはや氷のような床の冷たさも感じなくなっていた。
 恐怖心が風香の足をふたりから遠くへ、遠くへと、押しやった。
 とにかくと、廊下の先にある部屋に入った。
 ……ああっ、この部屋はダメ、はめこみの窓は開かないのに。
 分かっているのに入るしかなかった。
 
 12平米ほどのがらんとした洋室で、風香はようやく口を開けて息をした。
 だがすぐに現実に返った。
 隠れるところがどこにもなかった。
 
 狂気じみた未知留の言葉が蘇った。
 ――殺してやる
 未知留はそう言った。

 ……だいじょうぶ、あきらめるのは早い
 震えながら自分を励まし、ドアの裏に体を滑り込ませるように腰を落とした。ここならドアを開けられても覗き込まれなければ見つからない――かもしれない。
 廊下の音を拾いながら、夜更けを待ってこの部屋を抜け出そう。

 ……ああ、それにしても
 ストラップは取り戻せず、よりにもよって未知留の手に渡ってしまったなんて。
 
「……あ、スマホ」
 助けを求めようと無意識にスマホを探し――青褪めた。
 ……中庭に置きっぱなしのバッグの中だ。
 
 中庭のドアが開いていることに、未知留に気づかないことを祈るしかできなかった。

 はあ――
 風香は震える両手で頭を抱えた。
 ……ゆっくん、駅で待ってるだろうな

 力の入らない両手でポケットの中からイヤホンを取り出し耳に付けた。
 音はなかった。
 盗聴器をリビングにしか仕込まなかったことが今は恨めしい。

 風香は膝に顔を埋めた。
 体が冷えすぎて感覚がおかしい。スカートで足を覆うも気休めにしかならない。
 どのくらいそうしていたか――、イヤホンが音を拾った。足音だ。

 !
 風香は顔を上げた。
 ――これで未知留の動向が分かる!

 風香は思わず中腰になった。未知留が確実にリビングにいると分かれば、この部屋から出ることができるからだ。
 耳にしっかりとイヤホンを押し込んだ。

『――はあ』
 未知留の溜息とソファに腰を落とした音が同時に聞こえた。
『さて、これからどうするか』
 未知留が独り言ちている。
 風香はじりじりしながら考えを巡らせる。
 ……逃げるなら、今だ。
『会社を辞めるのは簡単だけど、なんとかできなくもないし』
『でも、見られちゃった……よね、私とお兄ちゃんが……』
『シナリオを変えればいい』
『そんなことしたらあの人がまた』
『風香の物がなくなってた。この家を出たんだよ』
『どうして……』
『わからない? 僕たちのことに気づいたからだろう』
『うそ。だってそんな素振り全然……』

 風香は一ミリずつドアノブを回した。
 最小限の開閉で廊下に出て、前屈みのまま無心になって進んだ。リビングが近づく。だがこの先を曲がれば中庭へと続く廊下へ出られる。

『あのね、お兄ちゃん、気のせいかもしれないんだけど』
『うん?』
『さっき、物音がして……』
『いつ?』
『お兄ちゃんが寝室行った後、キッチンの奥、たぶん廊下……』
 !
 花音の言葉に、風香の体のすべてが心臓になった気がした。
『念のため、家の中を調べよう』
 ――今、未知留がキッチンから廊下へ出てくれば鉢合わせてしまう! 
 風香は慌ててすぐ近くの部屋のドアノブに手を掛けた。
『のんも、見てくる』
 ……っ! 
 間一髪で、開けたドアの中へ体を滑り込ませた。
 咄嗟にドアから離れた。
 窓に向かって逃げる。
 開かないと知っているのに格子窓に手を掛けた。

 ……やっぱり、あの時、音が、
 のんちゃん、リビングに、残ってた……

 
「お兄ちゃん、これ、庭にあった」
 スピーカーと廊下と、声は半分ずつ聞こえてきた。
「風香の靴とバッグだ」
「あの人、家の中にいるのかも」

 ……ああ、バレてしまった。
 風香は今度こそ、震えが止まらなくなった。

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