愛を失う数時間前
23 すべてが終わる日
「ふう――かぁ――ッ!!」
これまでに聞いたこともない野太い声が、わざと立てているだろう足音とともに風香を探している。
風香は窓から手を放し、部屋の隅へよろよろと移動して腰を落とした。
「隠れても無駄だよー、出てきなあっ」
怒りで人間性を忘れたかのような歪んだ声に、風香は耳を塞いだ。
「どこかの部屋に隠れてるんじゃない?」
「だろうね。ひと部屋ずつ開けていこうか。のん、護身用の木刀持ってきて」
「わかったっ」
走って遠ざかる足音と、近くで聞こえるドアの開閉音に風香は縮み上がった。
「ふーかーあ、出てこいよー!」
「持ってきたよっ、お兄ちゃんっ」
息を切らしながら花音が戻ってきた。
「そうそう、これ」
風香は目を瞑った――もうダメだ、
その時、呼び鈴が鳴った。
「お兄ちゃん、だ、誰か来た……」
「無視でいい」
引きつるような花音の声と苛立った未知留の声が交差した。
「で、でも、また家の中覗かれたら……」
「チッ」
ドスドスドス、と粗暴な足音が廊下から離れていく。
「――はい」
未知留がリビングのインターホンに出た。
風香はイヤホンの耳を両手で覆い、音に集中した。
「――風香さん、いませんか」
!
聞こえた声に、風香はぐんと顔を上げた。
由真だった。
「風香ですか、仕事では」
未知留は落ち着いた声だった。
「配達に行くと言って店を出てから、戻ってきていません。なにか知りませんか?」
由真の声がひと際大きくなった。わざとそうしているのだと気づき、居ても立ってもいられなくなった。
間違いない――由真は、連絡が途絶えたことで異変を感じ家まで来てくれたのだ……!
ああ。
風香は震えながら祈るように両手を組んだ。
どうにかして、自分の存在を知らせたい――だが、なすすべがない。
「こちらでも探してみますので。わざわざお知らせくださりありがとうございます」
「あのっ」
「はい? まだなにか?」
「警察に知らせましょうか」
「そういうことは夫である僕がしますので」
「じゃあ、あのっ、すぐに電話してくださいっ」
「……あなたが帰られたらしますよ」
「本当ですかっ」
「はい?」
「風香さんと今日中に連絡をつけたいんですっ、どうしてもっ」
「伝えます。では」
「それか――」
ガチャと通話を切った音と共に由真の声も途絶えた。
……。
祈りも空しく、未知留の足音がイヤホンの中で大きくなり、次第に廊下側の足音に切り替わった。
「どこまで開けたっけ」
ドア一枚隔てた向こうで未知留の声がする。
「きゃっ」
突然、花音の短い悲鳴が聞こえた。と同時にドアの隙間から漏れていた明かりが消えた。
「お、お兄ちゃん、電気消えた……」
「停電――じゃないな、のん、ここにいて。ろうそく持ってくるから」
「一緒に行きたい、怖いっ」
ふたつの足音が遠ざかっていく。
パニックの中、微かな希望が差し込んだ。
風香はもつれる足をなんとか踏み出してドアへと急いだ。――迷ってはいられない。
素早く、だが慎重にドアを開け、暗がりの中、目を凝らしながら壁伝いに進んだ。
ギシ……ギ、ギ……
恐怖のせいか、それとも寒さで感覚が麻痺してしまったのか、思うように足が動かない。
だが前へ、前へ、とにかく足を踏み出し続けた。
「お兄ちゃんっ、誰かいるっ!」
!
炎の揺らめきで廊下が照らされた。花音の金切り声が迫ってきた。
風香はからまる足で必死に逃げた。中庭へのドアは、すぐそこだった。
「ぎゃっ」
背中に鈍い衝撃を受け、風香は膝から床に叩きつけられるように落ちた。意識が飛びそうなほどの背中の痛みに、風香は呻き声を上げることしかできなかった。