愛を失う数時間前


「みつけた」
 すぐ近くにあった未知留の声に、風香は悲鳴を上げた。
「五月蠅いよ、風香」
 髪の毛を鷲掴みにされ、未知留を斜めに見上げた。
「僕をハメたんだよね。償ってよ」
「……あんたがっ先――っつ、う」
 髪を引っ張られ、反った背中に激痛が走った。
「いつから計画してた? 優斗も共犯?」
「なんの、こと……?」
「もうバレてるんだよ。ほらこれ」
 目の前でストラップが揺れた。
 風香は痛みを堪えて四つん這いで未知留から距離を取った。手が転がっている何かに当たった。西洋彫刻のブロンズ像だった。
 ……なっ、
 自分の背中を直撃した物の正体がこれだと気づき、怒りが膨れ上がる。
 ……こんなものをおもいっきり投げつけるなんて、頭に当たってたら死んでた。

「僕を裏切らなければずっと一緒にいられたのに」
 大袈裟に嘆いてみせる未知留を、睨みつけた。
「……なに、それ、利用価値がなくなったら追い出すつもりだったくせにっ」
 未知留がおや、という顔をした。
「そんなことまで気づいてたの? でもね、円満に解決するつもりだったんだよ」
「……っ」
「残念だよ。いままで風香の愛を受け止めてあげてたのに」
「愛っ、あんたの愛は妹にあるのにっ?」
「それはしょうがないよ。僕と風香は他人だからね」
「他人だからっ、てっ? 意味わかんないわっ!」
 ……どうやったって、こいつと理解し合えるわけがない。
 無意味な会話を止め、風香は四つん這いのまま未知留に背中を向けた。中庭まであと少しだ。
「優斗のところへいくつもり?」
 ――ガッ。
 ……っゔぅ
 後ろから蹴られ、腹ばいになった。
 体勢を立て直すその隙にブロンズ像を握った。そして腹の中に抱え両手でしっかりと持った。
「今まであいつを忘れてたくせに?」
「……余計なお世話よ、あんたに関係ないでしょ」
 また髪の毛をぐいっと掴まれた。風香は呻いた。
「関係? あるでしょ。僕は風香の夫なんだから。風香を自由にするしないは、僕が決めるんだよ」
 !
 今だ。
 挑発に乗って耳のそばに声を落とした未知留に、風香は両手をおもいっきり斜めに振り上げた。腹か心臓か――、内臓に撃ち込んだ手応えがあった。勢いのついたままブロンズ像は未知留の顎にも当たった。
 ゴリン、という音と一緒に未知留が蹲った。よほど苦しいのかよじれた体が痙攣している。風香はよろけながらも立ち上がり、悶える未知留の背中にブロンズ像を振り下ろした。
「お返しよっ」
 未知留の片手が反射的に背中を庇っている。もう一度、そこへ振り下ろそうとしたとき、花音が癇声と共に手に持っていたロウソクを投げつけてきた。それは風香の横をかすめて床に転がった。
「あぎゃ、なにゃ……がの――」
 花音が何か言っている。けれど聞き取ることはできなかった。
「ストラップは返してもらうからっ」
 手からブロンズ像を離し、未知留の服のポケットを素早くまさぐった。
 引き抜いた腕を未知留に掴まれた。風香はその手を振り払い足でおもいっきり踏みつけた。
「へっ――ひゃへ――っ、」
 文句を言っているようだが、未知留が吐き出す言葉も意味をなしていない。顎は外れたか、それとも砕けたのか。
「……」
 風香を怨敵のように見上げていた未知留の目が、ふいに風香を素通りして驚愕に変化した。
 ――あ、
 風香も背後にある炎の気配に気づいた。中庭への経路が閉ざされていた。
「……」
 仕方なく未知留の上を跨ぎ、肩を怒らせている花音の横を過ぎた。
「ゆるさ、なっ、ぜった――ゆる、さなっ」
 義妹から初めて面と向かって掛けられた言葉だった。『絶対許さない』と言いたいようだ。
「そんなこと言ってる場合? 大好きなお兄ちゃんを連れて早く逃げないと、お兄ちゃんは死んじゃうんじゃない?」
 行こうとする風香の腕を花音が掴んだ。思いの外強い力に風香の身体が傾いた。
「ころ、す、あんた、なんか……――……とおなじ、にしてや――っ」
「!」
 ……え?
 頭の中で花音が途切れ途切れに発した単語を組み立てていた。
 ――殺す、って言った? 同じにしてやるって……?
 ……どういう意味?
 風香の頭の中を瞬時に恐ろしい想像が駆け抜けた。
 怯んだ瞬間だった、足に未知留が両手が蔦のように絡まった。
「っちょ、っと、放してっ、――放せっ」
 上半身は花音に、下半身は未知留に、完全に封じ込められていた。
「(もう助からない、道連れにしてやる)」
 言葉になっていないはずなのに、未知留の目だけで何を言っているのかはっきりと分かった。
「やっ、勝手に自滅しなさいよっ、私は出ていくんだからっ」
「(のんの秘密を知った人間を見逃すと思うか)」
 生死に直結する状況下、未知留もまた、目を見ただけで風香が今、花音の言葉から何を導き出したのか分かったようだ。
「……まさか、お母さんを殺したの?」
 炎がすぐそこまで来ていたが、咄嗟に花音を見た。
「のんちゃん、お母さん、どこにいるの……」
 聞いたのは風香の意志ではなかった。勝手に唇が動いた。
「殺しちゃったの……? 自分のお母さんを……?」
「あ…た…も、おなじと……ころ、う――めっ」
 花音の声が、別の、聞いたことのない濁声で聞こえてきた。首を絞められ、風香は必死に抵抗した。
「っぐぅ……っ」
 どこからこんな力が……
 花音の指からもがけばもがくほど、その力は強くなっていった。
「ちょっ、やめっ……」
 炎の熱や焦げた臭いが迫ってくる。

 パリンーーー、ガッシャーーッ
 どこかでガラスが割れるような音がした。

「――――フッカちゃんっ! フッカちゃんっ!」
 優斗の声が聞こえた。
 空耳かと思ったが、その声はどんどん大きくなった。いくつもの足音も聞こえる。 
 ……ああ、たすかっ……た。

 安堵で気が抜けたのか、それとも首を絞められたからか、風香の意識がふわっと浮いた。
「(のん、逃げ、ろ)」
 未知留の声が、朦朧とした意識の内側で聞こえた。
 ……まったく、最後まで妹の心配ばかり
 どこまで妹が大事なのよ
 ほんと、ばかばかし……
 でも最後にひと言、言わせて。

 気力を振り絞り、風香はすっと息を吸った。
 
「おまえらの変態プレイに他人の私を巻き込むなっ!」

 言うだけ言ったら、すっきりし――
 風香の意識は暗転した。


 
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