愛を失う数時間前
――風香さんを見て、俺は戸惑った。
なぜだろうと少し考えて、……そうだ、以前雨宮から聞いていた『妻』のイメージと違うんだ、と気づいた。
あ、もしかしてふたりきりのときには性格が変わるってやつなのか?
そう思いながら会話を進めたが、どうもおかしい。まるで、雨宮にもうひとり別の奥さんがいるみたいな。
……まさか。
ばかばかしいと心の中で打ち消すも、疑惑はどんどん深まった。
――これから私がすることに目を瞑ってくれませんか。
雨宮のロッカーを開けるつもりの風香さんには、覚悟と悲壮感があった。
俺が迷った時間はたぶん、わずかだった。
俺はこの人を止めることはできないし、止めたくない、と思った。
――遠藤先輩に気に入られていたのは栗生さんじゃなかったんですか?
その言葉は俺の頭を一気に冷やした。
――そういう人なんですよ、私の夫は。
一番傍にいた人が、雨宮を信用できないと断言している……。
俺はやっぱり利用された、よな?
わかりきっているのに、俺は今まで逃げていた。先輩たちから可愛がられる雨宮を、憎み羨む毎日が苦しいから。俺自身が惨めになるから。だけど――
やられっぱなしでいいのかよ、俺。
答えが出ないまま、俺は雨宮を観察した。
そしてすぐに雨宮の狡猾さを目の当たりにする。
よりにもよって雨宮は、自分の妻をストーカー扱いしたのだ。俺の妹がそれで苦しんだことを誰よりも知っているはずの雨宮が、軽々しく『ストーカー』を道具として便利に使った。
……俺の勘は間違ってなかった。
――この瞬間、俺は風香さんの力になるだけじゃなく、俺自身のために、『やられた分、やり返す』ことを決めた。
風香さんは雨宮との会話を録音していて、会社の人間が話題に出た部分を送ってくれた。そのおかげで雨宮の人となりがよくわかった。
雨宮は家と会社ではまったくの別人だった。
【川奈さんから慰謝料もらったり、できるんじゃないですか?】
俺は、風香さんを傷つけている川奈さんにもムカついていた。
雨宮と川奈さんが浮気をしているのはほぼ間違いない。顔を合わせても平然としている雨宮とは違い、川奈さんの方は気持ちを隠しきれていなかった。今まで遠藤先輩がなぜ気づかなかったのが不思議なほどだ。……いや、川奈さんの感情には気づいたが、既婚者の雨宮に油断していたのかもしれない。
風香:遠藤先輩の彼女さんにも
何らかの利用価値があるんだと思います
それが何かはわかりませんが。
――ちょっと待ってくださいね
すぐに風香さんから、雨宮が川奈さんについて語った会話が送られてきた。
川奈さん本人が聞いたら相当なショックを受けるような内容だった。
【だとしても、浮気した事実は事実ですよ】
言ってはみたが、風香さんはもっと複雑だろうと思った。浮気相手に同情しなきゃならないんだから。
俺は思い出していた。
まだ雨宮と交流があった頃にした恋愛話――。俺は、自分が惚れっぽい質だと話したら、雨宮は予想外のことを言った。
「僕は、僕のために動いてくれるような人がいたら好きになるかな」
あの時は雨宮の本性を知らず、雨宮らしくないけど、へえ? と深く考えなかった。
【川奈さんを訴えたくなったら言ってください。俺、力になりますから】
実際のところ、風香さんは俺にすべてを語ってくれたわけではなかったから、想像で補っていた。
風香:まあ、思うところはありますが
風香さんは文字を区切った。
風香:正直、そちらまで手が回りません
別の裏切りの方が何十倍もひどいので
『その、別の方には制裁を考えているんですよね?』
聞こうとして、止めた。
雨宮の“本命”を話題にして風香さんの傷を広げたくなかった。
風香:クリスマスパーティまで
よろしくお願いします。
本当に、たよりにしています
風香さんに頼られて、俺は俄然張りきって雨宮を観察し、逐一報告した。
決行の日に向けて、風香さんは忙しくなった。
準備に加え、家を出るために少しずつ荷物を運び始めた。
一方、会社での雨宮は少し神経質になっていた。
風香さんをストーカー扱いして、彼女が落とした爆弾のすべてを『妄想』で回収した――つもりでいただろう。
雨宮には、遠藤先輩の態度だけが誤算だったはずだ。
遠藤先輩が追求しない理由はおそらく、確信したからだ。
なぜ遠藤先輩の態度が戻らないか、雨宮はその理由に気付いていない。
自分が風香さんをストーカーに仕立てたせいで、川奈さんとの浮気を決定づけたことに。
――策に溺れたんだ。
風香さんが『妻』だったなら、あれはただの嫉妬で済まされた。だが常に“雨宮を見ている”『ストーカー』が言ったから、遠藤先輩に確信を与えた。
俺は、風香さんが発した言葉を後押しすべく、遠藤先輩の視界でわざと窺うようにして、何度も雨宮と遠藤先輩を交互に見ている。
――あの日、俺が風香さんと最後にふたりになったことを遠藤先輩は知っている。
“何か聞いている”と思わせることができれば成功だ。
正義感を含んだ俺の視線に、遠藤先輩のアンテナが立った。
……俺だって一時期は遠藤先輩に気に入られていた。俺が遠藤先輩の表情から様々な感情を感じ取って先回りして行動していたように、遠藤先輩も俺が“使える人間かどうか”を常に観察してたんだから。
遠藤先輩が俺に仕事を振り始めた。
俺はもちろん、精一杯、誠実に応えようと動いた。
雨宮がそれをおもしろくないと思うのは当然だった。
せっかく俺をハメたのに。
おかげで雨宮は、遠藤先輩の歓心を買おうと残業を断れなくなった。
俺たちの計画は着々と進んでいった。
そうしてクリスマスイブを迎えた。