愛を失う数時間前

 
「未知留は、俺のことが憎かったんだ」
 優斗は眉間を寄せ、歯を食いしばった。
「フッカちゃんがあいつに狙われたのは俺のせいなんだ――ごめん。謝って済むことじゃないけど……、ごめん」
「ゆっくん、謝らなくて大丈夫だから」
 涙が溢れる寸前の優斗を、風香はそっと励ました。
 病室は個室ではなかったが風香の他に入院患者はいなかった。窓際のベッドに寝ている風香から廊下も遠い。少しぐらい泣いても優斗が恥ずかしい思いをすることはないだろう。
 
「俺がフッカちゃんのこと、未知留に相談してたっていうのは前に話したよね」
「うん」
「そのときにたぶん、未知留の地雷を踏んだんだ」
「地雷?」
「俺とフッカちゃんは一緒に暮らしても他人だから結婚できる――『ホントの姉弟だったら恋愛感情持つわけねえじゃん』って。他にももっと、いろいろ、言った。たぶんその頃から未知留は妹とそういうことしてたんだと思う」
「……そっか」
 数か月前まで、未知留と過ごした“青春の記憶”は草原のように広がり色づいていた。だが今はこの世の終わりのように枯れて荒れ果てている。今更、何を聞いても動揺することはなかった。
「……まあ、そうだろうね」
 風香は独り言ちた。

 未知留と初めて会ったのは音楽室だった。その後の何もかもが唐突だった。
 何度か話しただけで待ち伏せされたことも、いきなり家庭の問題を告白してきたことも、友達の延長線上で彼女になったことも。
 ……未知留は私に運命を感じたわけでも、心惹かれたわけでもなかった。それにいつも不思議に思っていたはずだ。――“なぜ私なの?”
 直感は、嘘を付いていなかった。

「ゆっくんのせいじゃないよ」
 負の感情をすべて持ったまま、風香は言い切った。
「全部自己責任だよ」
 未知留を好きになったのは自分だ。信じたのも、自分だ。
「復讐は終わったんだ。だからもう振り返らなくていいよ、ゆっくん」
 風香は自分自身にも言った。
 そんなことをしても、意味がない。
「前を向いて生きていこう。そのためにやった復讐だよ」
「……フッカちゃん」
 案の定、優斗はぽろぽろと泣きだした。
「っていうか、ゆっくんはほんと、泣き虫だね」
「ご、ごめん」
 シャツの袖で目元をごしごしと拭う優斗に、幼い頃の優斗が重なって見える。
 
「私の荷物、どこかな」
 起き上がろうとした風香に優斗が慌てて手を差し伸べてくる。
 患者用の棚に、あの日風香が着ていた服が畳まれていた。手を伸ばしポケットの中をまさぐる。引き抜いて、優斗に差し出した。
「このストラップ、やっぱりゆっくんが持ってて」
「……いいの?」
 ……うん、私にはもう君がいるでしょう?
 
 ストラップは優斗の想いが詰まった――復讐を遂げる風香のお守りだった。
 何度も指先で触れて勇気を貰った。
 優斗を感じることができるただ一つのものだから、復讐を終えた先もずっと持っていたかった。
 それが何を意味していたのか――、ストラップを失くして取りに戻ったときでさえ気づかなかった。

 ……私も、ゆっくんと離れたくないよ、……失った時間を埋めたいよ。
 自分の気持ちに気づいたのは、もしかしたら、“今”、――この瞬間かもしれなかった。
 
 
「あのさ、ゆっくん。私、全部思い出してた」
「えっ!」
「いつから……?」
「んー、わりと前、かな」
 優斗は嬉しいような切ないような複雑な表情をしてから、わかりやすく落ち込んだ。
「……それでも、俺のこと捨てようとしたんだね」
 ……捨てるって、
 風香は言い訳をしようとして、優斗の恨みがましい視線の前に降参した。
「ごめん、ごめん。もうしないから」
「ほんとに?」
「うん。しない。指切りする?」
 ――昔みたいに。
 その言葉は心の中だけで言った。

 目の前にいる優斗は“過去の優斗”ではない。
 まだ知らない未来を、共に歩きたいと思える存在――。離れる理由がない。

「する。しよう!」
 優斗が小指を出してずいっと迫ってきた。
「約束」
 風香はその小指を迎えに行った。
 
 


 【終わり】
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