愛を失う数時間前【通常版】
04 記憶にない友達
自分で呼びかけたくせに、――これは自分の中にある記憶なのかと、半信半疑だった。
けれど初めて会ったはずの男を見つめれば見つめるほど、三日月の目元や、下唇が平らになる笑い方や、目の下にある小さなホクロに懐かしさを感じた。自分は確かに『フッカちゃん』と呼ばれていたし、この男を『ゆっくん』と呼んでいた。
「また会えるなんて……夢じゃないよね」
男――、優斗の声は震えていた。
「遅くなって、ごめんね」
思ってもみない言葉が自分の口から聞こえて、また風香は思い出す。
……そうだ、私、ゆっくんと何かを約束してた。
「は、入って! 外寒いから」
「でも……」
「風邪ひいちゃうよ、早く早く!」
「う、うん」
じゃあ、ちょっとだけ……と小さな声で言いながら、風香は玄関の中へと身を滑らせた。
「……えっと」
深読みしたのか、優斗が申し訳なさそうに言った。
「フッカちゃんのお母さんは入院してるんだ。あとで病院、連れていくからね」
「あ、それは――」
心の準備がまだ足らないと自覚してしまい、咄嗟に本題に移った。
「今日はゆっくんに会いに来たから」
「お、俺にっ?」
優斗の声が裏返った。
「と、とりあえず上がって! すぐっ、すぐ部屋もあったかくなるから」
「……おじゃまします」
優斗に続いて靴を脱いだ。家の中に優斗以外いないと知り、ほんの少しだけ心に余裕が生まれた。
「散らかっててごめん、リビングにいることなくて」
「……」
確かに、あまり片付いていなかった。
ボアのついたジャンバーや厚手のコートがソファの背に数着重なっていたし、宅配済みの段ボールもダイニングテーブルの横に置かれたままになっている。埃も溜まっていた。
風香の視線に気づいた優斗が両手を使ってそれらを見えない場所へと追いやっている。
「えっと、座るところあるかな……」
へへへ、と笑いながら、新聞の下に隠れていたエアコンのリモコンを手繰り寄せ電源を入れる。ソファの上に散乱している物を両手で抱えてどかした後、「ここ、座ってて」と言い残しキッチンへと向かっていった。
風香はソファに浅く座った。
やかんをコンロにセットしている優斗を目で追ってから、見るともなしに部屋の中に視線を向ける。閉まったままのカーテンが開けられたのはいつだろうかと、どことなく薄汚れた室内に観察する。ここに主婦の気配は感じられなかった。母は随分前からこの家に帰れていないのかもしれない。
「――えっと、コーヒーカップはどこだったかな」
優斗の呟きが聞こえてきた。
「あのっ!」
風香は思わず声を掛けた。
「お構いなく。何もいらないよ」
「そういうわけにいかないよっ、大丈夫だから……」
心細い顔が向かってきた。
「……じゃあ、……手伝おうか?」
風香は腰を浮かした。
良いとも悪いとも言われないまま、風香はキッチンへと足を踏み入れた。想像通りシンクには洗い物が溜まっていて、ゴミ袋には総菜や弁当のプラスチック容器と割り箸、おにぎりやサンドイッチを包んでいたフィルムで溢れていた。
「……」
「……」
妙な沈黙が流れる中、風香はコートを脱いで腕をまくった。
「こ、これはその、今日こそは洗おうと思ってて」
子供のような言い訳をする優斗に指示を与える。
「ゆっくんはコーヒーを淹れて」
「う、うん、ごめん」
初めて来た家のキッチンで大量の洗い物をしている自分に心の中で盛大に突っ込みつつ、風香はてきぱきと片付けていった。
「――どうしたの……」
視界の中、動きの止まった優斗を何気なく見上げたら、泣いていた。
その濡れた頬にたじろいだ。
「え……?」
優斗はびっくりしたように自分の目元に指を置いた。
「泣くつもりなんて……、ごめん」
ごしごしと乱暴に両目をこする優斗は、肩の力を声と共に抜いた。
「なんか夢のようだと思って」
「……なに、が?」
「うん。こうなる未来を信じてた頃があったから」
「……」
風香はその言葉の意味と、未知留宛に優斗が書いた手紙の内容をリンクさせた。
「――はあ」
優斗は大きな吐息を天井に向けた。
「吹っ切ったつもりだったのに、ほんと、ごめん」
「……」
……覚えていないと言ったら傷つくだろうな……、
風香は少し躊躇う。
けれどこのままでは話が進まない。
「あのね、ゆっくん。気を悪くしないでほしいんだけど」
「うん?」
「私、覚えていない過去が多いみたいで、君のことも、ここへ来るまで忘れてしまってた」
「……そう、なんだ」
数秒の間があった。
優斗は明らかに落胆した様子だった。
「ゆっくんのことだけじゃなく、昔の記憶があんまりなくて」
「それって、封印したってこと?」
封印、とその言葉を心の中でなぞった。よく分からなかった。
「親の離婚、ショックだったよね……それで、幸せだった過去を消しちゃったんだろうか……」
同情がたっぷり含まれた言葉は居心地が悪かった。なぜなら風香は、自分の性格を繊細だと思ったことがなかったからだ。
「でね、教えてほしいの」
湿った会話の流れを止めた。
「ゆっくんと私のこと。君の記憶の中で、私はどういう存在だったの?」
「……」
優斗は目を泳がせた。
ぎこちない手つきでカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注ぐ。「あっち、行こう」
優斗の誘導でソファに移動し、並んで座った。
「全部、話すね」
そうして優斗は、風香が覚えていない過去の記憶を、まるで数年前のことのように話し始めた。