愛を失う数時間前【通常版】
――シングルファザーだった優斗の父が風香の母と出会ったのは、風香と優斗が通っていた保育園だった。
「俺とフッカちゃんはいつも一緒だった。親が迎えに来ても離れたくなくて、泣いてた」
「……」
風香は相槌を打てなかった。
風香には覚えがないことだった。
「そんな状況のまま卒園式が終わって――会えなくなって、俺は暴れて、フッカちゃんも泣いて」
優斗の父親は困って保育園に相談した。風香の母親も同じ行動を取っていた。
――しばらくの間、子供たちを会わせることはできませんか
――そうする以外ないでしょうね。ですが私も仕事が……
専業主婦だった風香の母が、自分が預かることを提案した。
ちょうどその頃、運命の悪戯のように風香の父が不倫を始めた。夫婦としての信頼関係が崩れ、母は家にいることが苦痛になった。それで夜まで誰もいない優斗の家で風香と三人、過ごすようになった。
「ちょっと待って、その頃はまだ不倫はしてなかったってこと?」
「あ、うん……」
「……」
風香は動揺していた。
親たちが不倫をするきっかけが、幼かった自分たち?
「……ここまでで、なにか思い出せた?」
優斗の問い掛けに風香は首を横に振った。
「ごめん」
なにも蘇らない。
自分が幼い頃の一時、離れたくないと思っていた特別な友達がいたことも、母と三人で優斗の家で過ごしたことも。
あ……、
風香は部屋を見回した。
――ここに、なにか記憶に繋がるものがあるのではないか?
優斗が風香の視線から先回りして答えをくれた。
「フッカちゃんと過ごした家はここじゃないんだ」
「そうなんだ……」
感情を読み取られたことが気まずくて、風香は視線をぎこちなくテーブルの上に戻した。
「昔の家はフッカちゃんちに近かったんだよ。再婚で引っ越したんだ。うちの親、他人の目を気にするタイプで」
なるほど。
事情は呑み込めた。不倫の末の再婚――、世間からの好奇の目に耐えられない方が出ていく。
「フッカちゃん……、俺たちが“大人になったら結婚しよう”って約束してたこと、覚えてない、よね?」
「……ごめん」
優斗の上目遣いに再び謝った。実際、“ごめん”としか言いようがなかった。
「大丈夫! 謝んないで。けどその約束が、フッカちゃんと引き離される理由になったんだ、皮肉なことに」
「……」
……そういうことね。
風香は静かに納得した。
世間体が気になる優斗の父親は、家族になった子供たちが恋愛感情を持ち続けたら困る――と考えたのだろう。
――兄妹
込み上げてくる吐き気を必死に我慢した。
未知留と花音の兄妹のあの声が、再び風香の心を踏み荒らし始める。無遠慮にガサガサと。まるで大量の細かい虫が這うように。
優斗に気付かれないよう、風香は眉間を寄せてそれに耐えた。
「俺が親の再婚を許したのは、フッカちゃんと一緒に暮らすためだった。なのに……」
優斗は当時を思い出したのか苦々しい顔つきになった。
「俺、今度こそ本当にグレたよ。それまで毎日会えていたのにいきなり一切会えなくなったんだからさ」
「どうやって折り合いをつけたの?」
他人事のように聞いた。
「うーん、言いくるめられたって感じかな」
優斗はこう提案されたという。
――家族になったらあとで結婚はできない。だから優斗が選んでいいと。
「家族として今フッカちゃんと一緒に暮らすか、今は離れて、大きくなって結婚して暮らすか、って」
「……」
風香は、脱力した。
優斗が選んだ答えが、風香が置かれた状況――ということだ。
「でもさ、法律上は養子縁組さえしてなきゃ再婚同士の子供は結婚できるらしい。まんまと騙された」
「は……」
風香は笑い出しそうになった。
黒い靄のようなものが、自分の内側でゆらゆらと動き出す。
……誰も守れなかった約束のために、あの家に――、あの父親の元に、私だけ残されたんだ……
事情を知っても過去の自分は癒されなかった。
それどころか、心の奥で妬ましさが蠢いている。
……ゆっくんは、両方の親に大事に育てられた人生だった?
だって子供は君ひとりだけだもんね
「……」
両親が揃った完璧なふたつの家族。その中で居場所がなかったのは――、自分だけ。
「フッカちゃん……?」
!
優斗が見ていた。
「わ、私なにか言った?」
風香は引き攣った声をあげた。
他人を羨む言葉を、まさか、自分が吐いてしまった……?
「いや、黙ったから……なにか気に障ること言っちゃったかと思って」
「あ……」
よかった。……言葉にしたわけじゃなかった。
「なんでもないよ」
風香は安堵して言った。
羨望は、自分の不幸を認めることと同義だ。他人からの同情は、我慢ならない。
ぐんと、顔を上げた。
「私ね、今日はゆっくんに聞きたいことがあって訪ねたの」
反射的に頷いた優斗に、“仮面”を付けた笑顔を向けた。
「ゆっくんと未知留の関係を聞いてもいいかな」