ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第10話 人間になったふたりの、ただの一年
人間に戻って三か月目の夏、音姫は蚊に刺された腕を拓海へ突き出した。夕食後、窓を開けたままにしていたせいで一匹入り込んだらしい。白い腕の内側に小さな赤い膨らみができている。
「見てください。腫れています」
「嬉しそうに報告することか?」
「痒いです」
「よかったな」
「はい」
人間の不便を喜ぶ癖は、まだ抜けていなかった。筋肉痛になれば階段を上るたびに太腿を押さえ、寝不足で目の下に隈ができれば洗面所の鏡で角度を変えて眺める。朝起きて髪に寝癖がつけば「寝ている間に形が変わりました」と写真まで撮った。
「髪くらい千年前から寝癖ついただろ」
「戻るのが早かったんです。今は水をつけないと直りません」
「そこに感動できるのすごいな」
拓海にはただの面倒だったものが、音姫にとっては「昨日と今日で身体が違う」という証拠だった。玉手箱を開ける前、傷は数秒で消え、熱も出ず、何百年経っても同じ顔だった。今は小さな虫刺され一つが翌日まで残る。そのことを確かめるたび、音姫は自分が世界の時間へ戻ったことを嬉しそうに確認した。
けれど、新鮮さを笑っていられない夜も来た。
その晩、拓海が部屋へ戻ろうとした時、キッチンから食器の落ちる音がした。駆け込むと、音姫が流し台へ片手をついて立っていた。頬が赤い。息も普段より浅い。
「音姫?」
「大丈夫です。ちょっと、身体が重くて」
「大丈夫な顔じゃない」
額へ手を当てる。熱かった。測ると三十八度九分。千年間、病で寝込んだことのない本人は、布団へ押し込まれても妙に興奮していた。
「拓海くん、寒いのに身体が熱いです。これが悪寒なんですね」
「感想言ってる場合か。水飲め」
「味覚も少し変です」
「実況もいらない」
拓海は医師から届いた薬の説明を端末で確認し、冷却材を替え、枕元の水を新しくした。窓の外には未来都市の灯りがいくつも浮かび、空中道路を走る車両が細い光の線を作っている。そこだけ見れば、千年前とは何もかも違う時代だった。けれど部屋の中でしていることは、熱を出した幼なじみの額を冷やし、水を飲ませ、眠るまでそばにいるだけだった。
「帰らないんですか」
「どこに」
「自分の部屋です。もう夜中ですよ」
「熱が下がるまでいる」
音姫は黙った。熱のせいだけではない赤みが目元へ広がる。
「風邪で泣くなよ」
「違います」
「じゃあ何」
「弱くなっても、隣にいてもらえるんだなと思って」
不死だった頃の音姫は、誰かに看病される必要がなかった。必要とされる側でいることには慣れていても、助けられる側になることには慣れていない。
「当たり前だろ」
拓海が額の冷却材を替えると、音姫はしばらくその手を見たあと、ようやく目を閉じた。深夜二時を回る頃には呼吸も落ち着き、拓海はベッド脇の椅子にもたれてうとうとした。
翌朝、熱は下がった。安心した拓海の前で、音姫は使用済みの冷却材を透明袋へ入れようとした。
「それは保存するな!」
「初めて看病してもらった記念です」
「ゴミはゴミ!」
「では写真だけ」
「撮るな!」
音姫は少しだけ不満そうに冷却材を捨てた。そのあとゴミ箱の蓋を三秒ほど見つめていたので、拓海は念のため袋ごと回収した。
秋になる頃、拓海は未来の学校へ通い直していた。千年前の学歴をそのまま引き継げるわけもなく、最初の一週間は教室でほとんど歴史資料のような扱いを受けた。
「古典情報時代出身って本当?」
「スマホって実物を指で触ってたの?」
「紙の教科書、重くなかった?」
「お前ら俺を発掘品みたいに見るな」
昼休み、傷だらけの古いスマートフォンを机へ置くと、同級生たちが小さな展示会のように集まった。画面に触れて操作するだけで歓声が上がる。
「うわ、本当に物理画面だ」
「物理画面って何だよ。画面は画面だろ」
「端末の中に情報を全部入れて持ち歩いてたんだよな?」
「今も持ち歩いてるだろ!」
その中で一番しつこく質問してきた相沢という男子は、三日後には普通に昼飯を一緒に食う相手になった。歴史区画の授業で拓海が展示の説明にツッコミを入れたのがきっかけだった。
「浦部、今度休みにみんなで歴史区画行かない? お前に解説してもらった方が展示より面白そう」
「俺を生きた音声ガイドにするなよ」
「じゃあ飯奢る」
「行く」
帰宅してその話をすると、音姫は笑顔で頷いた。以前なら、まず誰と行くのかを聞き、そのあと相手の経歴と家族構成まで把握しようとしたはずだ。
「楽しんできてください」
「……それだけ?」
「何時頃帰りますか、と聞いてもいいですか」
「いいよ。たぶん七時くらい」
「分かりました」
それだけだった。
拓海が風呂へ入ったあと、キッチンから包丁の音が聞こえた。一定のはずのリズムが、途中から妙に速くなる。風呂から上がって覗くと、音姫が玉ねぎを必要以上に細かく刻んでいた。
「玉ねぎに罪はないぞ」
「明日の料理に使います」
「もうペーストになりかけてる」
「そういう料理です」
「絶対違うだろ」
音姫は笑った。けれど「誰と行くんですか」とは聞かなかった。
遊びに行く前夜。拓海が自室へ引き上げたあと、音姫は一人で居間の端末を開いた。検索窓へ『相沢』と打ち込む。姓だけでは候補が多い。学校名を足せば、たぶんすぐ絞れる。さらに自分の権限を使えば、公開情報だけでは終わらない。
指が止まった。
千年前なら、迷う時間さえなかった。拓海の近くにいる人間を把握しておくことは「守るために必要なこと」だった。今も胸の奥では同じ理屈が顔を出す。どんな人か分からない。もし危険な相手なら。もし拓海が何かに巻き込まれたら。知っておけば防げるかもしれない。
検索候補が画面に並ぶ。
音姫は、一文字ずつ名前を消した。
検索窓が空白に戻る。端末を伏せる。胸の奥のざわつきは消えなかった。調べなかったから安心できるわけでもない。むしろ分からないままの方が怖い。その怖さを抱えたまま、音姫は立ち上がった。
そして冷蔵庫から玉ねぎを取り出した。
「だから玉ねぎに罪はないって」
背後から声がして、音姫の肩が跳ねた。拓海がキッチンの入口へ立っている。
「いつからいました?」
「検索窓消したあたり」
「……見ていたんですか」
「水取りに来ただけ。声かけようと思ったけど、何するのか見てた」
音姫は包丁を置いた。誤魔化そうとしなかった。
「調べかけました」
「うん」
「名前を入れて、検索するところまで」
「うん」
「でも、やめました」
「そっか」
褒めてほしかったわけではない。叱ってほしかったわけでもない。ただ、自分の中にまだ残っている衝動を隠さずに言った。
「正直、今も調べたいです」
「じゃあ、今度うち来てもらう?」
「……いいんですか」
「知りたいなら本人に会えばいいだろ。調査対象としてじゃなくて」
音姫は少し考え、それから頷いた。
「では、夕食を用意します」
「普通の量でな」
「五人なら二十人分くらい」
「普通を学び直せ!」
数日後、相沢たちは本当に家へ来た。音姫は玄関で笑顔を浮かべていたが、拓海には分かる。肩が固い。視線が一人ずつを確認している。質問も最初は妙に丁寧だった。
「相沢さんは、拓海くんとはいつ頃から?」
「尋問するなよ」
「会話です」
「目が面接官なんだよ」
「え、俺、会長面接受けてる?」
相沢が笑う。緊張していた残りの三人もつられて笑った。食事が始まり、千年前のゲーム機を相沢が見つけた頃には、空気はだいぶ崩れた。
「これ動くの?」
「動く。音姫が保存しすぎて新品みたいだけど」
「保存は大事です」
「コントローラー二個あるじゃん。やろうぜ」
拓海と相沢が対戦を始める。最初は少し離れて見ていた音姫も、いつの間にか後ろから画面を覗き込んでいた。
「拓海くん、今のところで右です」
「見て分かるの?」
「千年前の攻略記事を読みました」
「なんで!?」
「保存してありましたので」
「俺より詳しいじゃねえか!」
笑いが起きた。帰り際、相沢が玄関で靴を履きながら小声で拓海に言った。
「普通にいい人じゃん」
「普通……かなあ」
「そこ迷う?」
音姫は少し離れたところで、聞こえていないふりをしていた。頬がわずかに緩んでいる。
知らない相手を「危険かどうか調べる対象」ではなく、「拓海が今の世界で作った友人」として知る。たったそれだけのことに、彼女は千年遠回りした。
冬を越える頃、今度は音姫の方に大きな変化があった。会社の第一線から少しずつ退き始めたのだ。
「千年やった仕事を、一年で辞められるのか」
「辞めるのではありません。渡すんです」
会議の日、拓海は建物のロビーで待っていた。透明な壁の向こうを空中輸送路が走り、何十人もの社員が忙しそうに行き来している。音姫が作り、守り、何代もの人へ引き継いできた巨大な組織だ。
会議室から出てきた音姫は、珍しく疲れた顔をしていた。
「終わった?」
「主要な決裁権を三つ、後継者へ移しました」
「それ、でかいやつ?」
「かなり」
言いながら、音姫は廊下の壁へ背を預けた。
「前なら三日続けても平気だったんですけど。今日は、座りたいです」
「人間だな」
「人間ですね」
音姫は嬉しそうに笑い、ロビーのベンチへ座った。数分後、後継者の女性が資料を抱えて出てきた。音姫よりずっと年上に見える。
「会長――いえ、音姫さん。次の案件は私たちで進めます。確認が必要な時だけ連絡します」
「お願いします」
それだけだった。音姫は追いかけて細かく指示を出さなかった。扉が閉まったあと、膝の上で手を組む。
「怖い?」
「少し。私が見ていないところで、会社が進んでいくので」
「でも任せたんだろ」
「はい」
「じゃあ、帰る?」
音姫は一瞬だけ驚いて、それから立ち上がった。
「帰ります」
手放すのは、人魚の肉だけではなかった。土地も、会社も、記録も、自分が握っていなければ壊れてしまうと思っていたものを、音姫は少しずつ他人へ渡すようになった。それは消えることではない。自分の手を離れても続くと信じることだった。
春が近づく頃には、二人の生活にも「いつもの」が増えていた。朝に弁当を巡って言い合い、拓海の帰宅が遅れるなら連絡を入れ、休日にはどちらからともなく出かける予定を決める。音姫は毎晩日記を書き続けていたが、何も起きなかった日は以前ほど長く書かなくなった。
ある夜、拓海が後ろから覗くと、今日の記録は五行しかなかった。
『朝、拓海くんが寝坊した。昼、会社へ行った。夕食はカレー。少し辛かった。拓海くんが二杯食べた。』
「短くない?」
「今日は特別なことがなかったので」
「前なら十ページ書いてただろ」
「書けますけど」
「書かなくていい」
音姫はペンを止め、五行のページを見た。
「……こういう日も、残るんですね」
「残るだろ。明日も似たような日かもしれないけど」
「それが、いいです」
人間に戻ってから一年になる前日、拓海は近所の店で小さなケーキを買った。音姫なら会社の技術で空中に浮く巨大なケーキでも用意できるだろうが、選んだのは二人で食べ切れる大きさだった。
「これだけですか?」
「二人分」
「……いいですね」
音姫は箱を抱えるように持った。千年を記録すれば歴史になる。一年なら、ただの日常だ。けれど音姫にとっては、その「ただの一年」こそ、ずっと手に入らなかった時間だった。
翌日、蝋燭が一本増える。
それを二人で笑えることが、今は何より嬉しかった。