ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第11話 非常食を手放す夜


 人間に戻ってから、ちょうど一年。音姫は十八歳になった。

「正確には千十八歳――」

「女性の年齢に千を足すのは禁止です」

 拓海が言い終える前に切られた。

 去年までなら、年齢という数字そのものが止まっていた。今年はケーキの上に立つ蝋燭が一本増えている。それだけのことなのに、音姫は火をつけたあとしばらく眺めていた。

「去年より一本多い」

「そりゃ誕生日だからな」

「来年は、もう一本増えるんですね」

「普通はそういうものだよ」

「普通って、毎年増えるんですね」

「当たり前を感動的に言うな」

 音姫は笑った。窓の外では春の海が暗く沈み、遠くの都市灯が水面に細く映っている。豪華な宴会も、会社の祝賀会も断った。テーブルにあるのは近所の店で買った小さなケーキと、拓海が少し焦がした夕食だけだった。

「願い事、しないの?」

 拓海が言うと、音姫は蝋燭を前にして考え込んだ。

「千年間、願いは一つしかなかったので」

「俺が帰ってくること?」

「はい」

「もう叶ったじゃん」

「だから困っています」

 拓海は笑った。

「じゃあ増やせばいい。来年もこのケーキ食べたいとか、旅行したいとか、喧嘩したら仲直りしたいとか」

「ずいぶん小さい願いですね」

「そのくらいでいいだろ。毎年更新できるし」

 音姫はしばらく蝋燭の火を見つめた。炎が瞳の中で揺れ、やがて静かに目を閉じる。

「決めました」

「何」

「秘密です」

「そこは普通なんだな」

 息を吹く。小さな火が消え、部屋に甘い煙の匂いが残った。

 ケーキを半分ずつ食べ終え、拓海が皿を洗っている間も、音姫は何度か冷蔵庫の方を見ていた。最初は気のせいかと思った。三度目で、拓海は蛇口を止めた。

「何かあるの?」

「……あります」

「その間、絶対ろくなものじゃないだろ」

 音姫は冷蔵庫ではなく、その下の冷凍庫へ目を向けた。

「人魚の肉が、まだ少し残っています」

 拓海は数秒固まった。

「……は?」

「冷凍保存してあります」

「捨てろ!」

「非常食です」

「何の非常時だ!」

「拓海くんがまた千年くらい逃げた時」

「逃げねえよ!」

 反射でツッコミを返した。音姫も笑った。いつものやり取りなら、そこで終わっていたかもしれない。

 けれど音姫の手は、冷凍庫の取っ手から離れなかった。

 拓海は笑うのをやめた。

「本当に、非常食だから残してる?」

 音姫の表情も変わった。

「持っているだけなら、害はありません」

「それは答えじゃない」

 部屋が静かになった。冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえる。

「……怖いんです」

 音姫は取っ手から手を離した。

「今は幸せです。だからこそ、なくなった時の準備をしてしまいます」

「うん」

「あなたがまた突然いなくなったら。事故で帰ってこなかったら。私たちが喧嘩して、本当に別れることになったら。何か一つでも『そのあと』へ行ける方法を残しておきたくなるんです」

 音姫は自分の指を見る。今は小さな傷なら数日残る。熱も出る。年を取る。死ぬこともできる。

「千年間、私は何かが壊れるたびに、次の準備をしました。土地を失いそうなら買いました。会社が潰れそうなら別の事業を作りました。名前が使えなくなれば新しい戸籍を用意しました。誰かが死ねば、次に忘れない方法を考えました」

「だから肉も?」

「はい。持っていれば、最悪の時にも何かできます」

「何かって、また時間止めることだろ」

「……はい」

 拓海は責めなかった。千年間、備えることで正気を保ってきた人間に、今日から全部やめろと言っても無理なのだ。

「俺、絶対にいなくならないとは約束できないよ」

 音姫の顔が曇る。

「事故も病気もある。俺たちがずっと上手くいく保証だってない」

「そんな可能性、消してください」

「消せない」

 音姫は俯いた。

「でも、黙って消えない」

 拓海は彼女の手を取った。

「嫌なら嫌って言う。怖ければ怖いって言う。逃げたくなったら、その前に話す。帰れるならちゃんと帰る。今度は時間に全部押しつけない」

「それでも、戻れない時はあります」

「ある」

「死んだら?」

「死んだら無理だな」

「簡単に言わないでください」

「簡単じゃないよ」

 拓海は握った手へ少し力を込めた。

「でも、それが人間になったってことだろ。何でもやり直せる保険なんて、たぶんない」

 音姫は目を伏せた。

「これを手放したら……私はもう、千年なんて待てません」

「待たなくていい」

「そんな約束、できますか?」

「千年待たせない約束じゃない。待たせる前に話すって約束」

 一粒だけ涙が落ちた。

「……ずるい言い方です」

「お互い様だろ」

 音姫は泣きながら少し笑った。

 その夜、答えは出さなかった。

 拓海も「今すぐ捨てろ」とは言わなかった。二人で皿を片づけ、誕生日の残りのケーキを冷蔵庫へ入れた。冷凍庫は開けなかった。

 寝る前、音姫はいつものように日記を開いた。書き始めてから、何度もペンが止まる。

『十八歳の誕生日。ケーキは二人分。願い事は――』

 そこまで書いて、願い事の内容は書かなかった。その下に別の一文を足す。

『人魚の肉について、拓海くんに話した。まだ決められない。』

 千年分の日記の中で、音姫は何度も「待つ」と書いた。決めたことを書くのは得意だった。

 決められない、と書いたのは珍しかった。

 翌朝、拓海が水を飲みに起きると、キッチンの灯りだけが点いていた。

 音姫が冷凍庫の前に立っている。髪は寝起きのままで、薄い部屋着の上にカーディガンだけ羽織っていた。

 冷凍庫を開ける。

 小さな保存容器を取り出す。

 両手で持ったまま、しばらく動かない。

 そして戻す。

 扉を閉める。

 数秒後、また開ける。

 二度目。三度目。

 同じことを繰り返す。

 拓海は廊下の影から声をかけなかった。

 人魚の肉は、ただの肉片ではない。父母を見送り、友人を見送り、家族になった人たちを何十人も見送り、それでも千年後へ辿り着くために彼女が握り続けた非常口だ。手放すという一動作で、そこまでの恐怖まで消えるはずがない。

 四度目。

 音姫は容器を冷凍庫へ戻さなかった。

 扉を閉めたあと、その場でしばらく容器を抱えていた。

「一緒に行くか」

 拓海が声をかけると、音姫は驚かなかった。気づいていたのかもしれない。

「ありがとうございます。でも、今回は一人で行きたいです」

「甲太郎のところまで?」

「はい。持っているか、手放すか。最後まで自分で決めたいので」

 玉手箱を開けた時、音姫は自分の人生を自分で選ぶと言った。今度は、未来を保証する道を捨てるかどうかを選ぼうとしている。

 拓海は頷いた。

「分かった」

「止めないんですね」

「止めてほしい?」

 音姫は少し考え、首を横に振った。

「いいえ」

 容器を保冷袋へ入れ、音姫は玄関へ向かった。靴を履く直前、一度だけ振り返る。

「拓海くん」

「ん?」

「帰ってきます」

 千年前なら、その言葉を信じられたか分からない。

 今は、拓海も同じ言葉を返した。

「うん。行ってらっしゃい」

 音姫は少しだけ目を丸くし、それから笑った。

「行ってきます」

 玄関が閉まる。

 拓海は追わなかった。

 端末で位置を確認もしなかった。

 朝食を作り、二人分の味噌汁を温め直した。待つという行為が、昔ほど怖くない。帰ると言った相手を信じて、帰ってくるまで自分の生活を続ける。ただそれだけのことを、二人はようやく覚え始めていた。

 海辺には朝の潮風が吹いていた。通勤路を急ぐ人々が防波堤の向こうを歩き、遠くでは清掃機が砂浜をゆっくり移動している。

 甲太郎は呼び出されるなり、音姫の持つ保冷袋を見て目を丸くした。

「まさか」

「残っていた人魚の肉です」

「音姫様が自分から?」

「その反応、失礼ですね」

「いや、千年越しの執念を知っておるので」

 音姫は袋を開けた。小さな容器を両手で持ち上げる。指先が震えていた。

「これで、全部です」

 甲太郎の顔から冗談が消えた。

「本当によいのじゃな」

「よくはありません」

 音姫は正直に言った。

「怖いです。今でも、持っていた方が安心します。拓海くんがいなくなった時のために、何か残しておきたいと思っています」

「ならば、無理に今日でなくとも」

「それを言わないでください」

 声が少しだけ強くなった。

「今日じゃなくていいと思ったら、私は百年でも先延ばしにできます」

 甲太郎が黙る。

「でも、それを持ったままだと。何かが起きるたびに、私は永遠へ逃げる道を見ます。拓海くんと喧嘩するたび、事故のニュースを見るたび、帰りが遅れるたび。いつか使うかもしれないって思う」

 容器を差し出す。

「二度と誰も使えないように、竜宮城で封印してください」

「承知した」

 甲太郎は両前脚で受け取った。

 音姫の指が、すぐには離れなかった。

 容器の縁に爪がかかる。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 それから、ゆっくり指を開いた。

 たったそれだけのことだった。

 空が変わるわけでも、海が光るわけでもない。通勤途中の人は足を止めず、清掃機は一定の速度で砂をならしている。

 音姫はその場にしゃがみ込んだ。

「……なくなった」

 甲太郎は何も言わなかった。

 音姫も泣かなかった。ただ、自分の空になった両手を見ていた。

 甲太郎はしばらく隣にいてから、容器を抱えて海へ戻った。

 昼近くになって、拓海の端末へ短いメッセージが届いた。

『終わりました』

 拓海は海辺へ向かった。

 音姫はまだ防波堤の近くに座っていた。朝より人が増え、親子連れや散歩中の老人が行き交っている。その中で、音姫だけが同じ場所に座っていた。

 拓海は何も聞かず、隣へ座った。

 十分ほど、二人とも海を見ていた。

「後悔してる?」

 ようやく聞くと、音姫は膝へ顔を埋めたまま答えた。

「少し」

「正直だな」

「かなり、かもしれません」

「増えたな」

「今なら追いかければ、まだ甲太郎さんから取り返せるかも、と考えています」

「行く?」

 音姫が顔を上げる。

 拓海は止めなかった。

「本当に取り返したいなら、俺が決めることじゃない」

 音姫はしばらく拓海を見た。

 やがて首を横に振った。

「行きません」

「そっか」

「行きませんけど、怖いです」

「うん」

「今夜、冷凍庫を開けて確認すると思います」

「空なのを?」

「はい」

「俺も一緒に見るよ」

 音姫は小さく笑った。

「変ですね」

「何が」

「何もない冷凍庫を見る約束なんて」

「俺たちらしいだろ」

 その夜、本当に二人で冷凍庫を開けた。

 保存容器が置かれていた場所は空いていた。

 音姫はしばらくそこを見てから、代わりに誕生日ケーキの残りを入れた。

「そこに置くの?」

「空いているので」

「非常食がケーキになったな」

「賞味期限は明日です」

「急に短い!」

 音姫が笑う。

 千年先のための保険があった場所に、明日までに食べるケーキが入った。

 その違いが、拓海には妙に嬉しかった。

 未来を保証してくれるものは、もう二人の手元にはない。

 だから今日帰ることも、明日話すことも、来年また歳を取ることも、一つずつ選ぶしかない。

 音姫はその夜初めて、「待つための永遠」を自分の意思で手放した。
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