ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第9話 初めての白髪を、二人で笑う
玉手箱を開けた日の夜。音姫がベッド脇の端末へ視線を向けた。そこには、箱を開ける前に残した映像メッセージが、まだ消されずに残っている。
『拓海くんへ』
音姫の顔が、みるみる赤くなった。
「消します」
「待て」
「今すぐ消します」
「昨日、一緒に見て笑うって言っただろ」
「あれは成功する前の私が言ったことです」
「同一人物だろ!」
結局、再生した。画面の中の音姫は、今より少し青い顔で椅子に座っていた。
『拓海くん。これを見ているということは、たぶん私は、もう隣にいません』
「止めましょう」
「まだ十秒だぞ」
『最初に謝ります。千年前、あなたを怖がらせました。好きだからという理由で、あなたの嫌がることをたくさんしました』
今の音姫が黙る。
『それでも待ったことだけは、後悔していません。苦しかったし、何度も嫌になったけれど、最後にあなたへ「おかえりなさい」と言えたので』
拓海は画面から目を逸らせなかった。
『だから、もし私がいなくなっても、自分のせいだと思い続けないでください』
「それは無理」
思わず、画面へ返事をした。録画の音姫は当然、答えない。
『私の千年は、拓海くんに返してもらうための借金ではありません。私が選んだ時間です』
今度は隣の音姫が、そっと拓海の手を握った。
『最後に。帰ってきてくれて、ありがとうございました』
映像が終わる。病室が静かになった。拓海は鼻をすすってから、わざと乱暴に言った。
「遺言のくせに長い」
「三分二十七秒です」
「秒数まで覚えてるな」
音姫も泣きながら笑った。
「タイトル、変えておきます」
「何に」
音姫は端末を操作した。
『心配しすぎでした』
「軽っ」
「一緒に見て笑えましたから」
死んだ時のために残した言葉が、生きている二人の思い出へ変わった。それもまた、止まっていた時間が動き出した証拠だった。人間に戻った翌朝、音姫は五時に拓海を叩き起こした。何事かと思って飛び起きると、本人は枕元で自分の額へ手を当て、ひどく真剣な顔をしていた。
「見てください。体温があります」
「人間には普通ある」
「昨日まで、ほとんど変わらなかったんです」
音姫にとっては、身体が不便になっていくこと自体が新鮮だった。熱いスープで舌を少しやけどして目を輝かせ、階段を駆け上がって息が切れれば胸へ手を当てて笑う。紙で指先を切った時には、血が止まるまでの数分を本気で観察していた。拓海は呆れながらも、そのたびに昨日の包丁傷を思い出した。数秒で何もなかったことになる身体ではなく、傷が残り、治るまで時間がかかる身体。音姫はようやく、自分も世界と同じ速さで変わっていることを、些細な不便から確かめていた。
だが、一か月後。音姫は洗面所で固まっていた。
「拓海くん」
「ん?」
「これ」
一本の白髪。拓海は笑った。
「一本じゃん」
音姫は笑わなかった。
「怖い?」
「……少し」
拓海は白髪を見た。
「抜く?」
「抜いたら増えるって本当ですか」
「迷信じゃない?」
「千年前からある迷信がまだ残ってるんですね」
少し笑った。拓海は鏡越しに音姫を見る。
「俺もそのうち白髪になるよ」
「はい」
「しわも増える」
「はい」
「腰痛いとか言い出す」
「それは嫌ですね」
「そこだけ嫌なの?」
「介護します」
「早い!」
音姫が笑う。
「でも」
「うん」
「嬉しいです」
白髪を指でつまむ。
「これ、私の時間が進んでる証拠なんですよね」
「そうだな」
「拓海くんと同じ方向に」
拓海は音姫の肩に顎を乗せた。
「じゃあ大事にしろ」
「白髪を?」
「記念すべき一本目」
音姫は本当に保存した。小さな透明ケースに入れて。
『人間に戻って最初の白髪』
とラベルまで貼った。
「怖いよ!」
「大切な記録です」
「日記だけにしろ!」
そして二人は、初めて本当のデートをした。
「友達」ではない。
恋人として。音姫は前夜から服を七十二着試したらしい。
「会社のAIに相談しました」
「会社のAIを私用で使うな」
「会長権限です」
「権力の使い方がしょうもない」
海辺。千年前、拓海が逃げた場所。今は遊歩道になっている。二人は並んで歩いた。
「なあ」
「はい」
「俺、お前に言わないといけないことがある」
音姫が身構える。
「別れ話ですか」
「なんで初デートでそこに飛ぶ」
「最悪の可能性を先に」
「やめろ」
拓海は海を見る。
「千年前、俺はお前が怖かった」
「知っています」
「でも、ちゃんと言えばよかった」
音姫は黙る。
「勝手に逃げないで。重いって。嫌なことは嫌だって」
「はい」
「だから今度は言う」
拓海は音姫を見る。
「身辺調査は嫌」
「はい」
「位置情報を勝手に追うのも嫌」
「……はい」
「今ちょっと間があった」
「気のせいです」
「あと」
「はい」
「好きなのは嫌じゃない」
音姫が止まった。
「もう一回」
「言わない」
「拓海くん」
「顔近い」
「もう一回」
「嫌だ」
「録音しますから」
「やめろ!」
追いかける音姫。逃げる拓海。千年前と同じ。でも。少し走ったところで、拓海は自分から止まった。音姫が背中にぶつかる。
「どうしたんですか」
「もう逃げないって言ったから」
振り返る。音姫の頬に触れる。
「捕まえた」
音姫は、頬に触れた拓海の手を両手で包んだ。
「逃げないんですね」
「何回確認するんだよ」
「まだ千回くらい」
「一日一回でも三年かかるぞ」
「短いですね」
拓海は笑った。笑ってから、音姫の顔が思ったより近いことに気づいた。音姫も気づいたらしい。さっきまで追いかけ回していたくせに、急に動かなくなる。
「音姫」
「はい」
「目、閉じるの早くない?」
「千年勉強しました」
「その知識の使い方やめろ」
けれど、拓海は離れなかった。ほんの短く、唇を重ねた。一秒にも満たない。離れたあと、音姫は完全に固まっていた。
「……千年勉強した割に弱いな」
「実技は初めてなので」
声が小さかった。拓海の方まで恥ずかしくなる。
「今の、記録する?」
「記録しません」
「珍しい」
音姫は赤くなった顔を隠しながら言った。
「これは、覚えていたいので」
その言葉だけは、拓海も茶化せなかった。
「……それ、私の台詞です」
「たまにはいいだろ」
音姫は泣きそうな顔で笑った。
「はい」
その日。千年間追い続けた少女は。初めて、追いかけなくても隣にいてもらえた。初デートの帰り、二人は花屋の前を通りかかった。
「拓海くん」
「ん」
「花、興味あります?」
「別に」
「そうですか」
音姫は少し残念そうな顔をした。拓海はそれに気づいて、店に入った。
「何選んでるんですか」
「別に」
一輪の花を買う。小さな、白い花だった。
「これ」
「私にですか」
「他に誰がいる」
音姫はしばらく固まっていた。
「……記録していいですか」
「もう聞くな、それ」
「拓海くんから花をもらうのは、初めてです」
「俺、お前に花あげたことなかったんだな」
「はい。だから、嬉しいです」
拓海は照れ隠しに海の方へ視線を逃がした。何でもない一輪を、そんなに大事そうに持たれると困る。家に帰ると、音姫はすぐに花を押し花にしようとした。
「今からか」
「新鮮なうちに」
慣れた手つきだった。
「手際いいな」
「昔、拓海くんのお母さまに教わりました」
「そうか」
「四つ葉のクローバーの押し方も、教わりました」
「四つ葉?」
「拓海くんが子供の頃見つけたものを、標本にしてあります」
「そんな昔のものまで残ってるのか」
「はい」
「見せてくれよ」
音姫はためらった。
「見たら、思い出しますか」
「何を」
「拓海くんが、まだ子供だった頃を」
「覚えてないけど」
「私は覚えています」
しばらくして、音姫は古い標本帳を持ってきた。四つ葉のクローバーが、色褪せながらも、そこに残っていた。日付が書かれている。千年以上前の日付だった。
「これ、俺が見つけたやつなのか」
「はい。拓海くんが、私にくれました」
「くれたのか、俺が」
「はい。『お前にもいいことあるように』って」
拓海の記憶には、まったく残っていない出来事だった。だが音姫にとっては、千年間、大切に保管し続けるほどの記憶だった。
「悪い、覚えてない」
「いいんです」
「よくないだろ」
「私が、二人分覚えていますから」
その言葉に、拓海は何も返せなかった。新しい花を、標本帳の隣にそっと挟む。
「これも残すのか」
「もちろんです」
「もう一つ増えるな」
「増やしましょう」
音姫は嬉しそうに笑った。千年前の四つ葉と、今日の白い花。同じ帳面の中で、二つの時間が、静かに寄り添っていた。