ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第12話 甲太郎の理由
人魚の肉を竜宮城へ持ち帰る手続きを終えた夜、拓海は浜辺に残っていた甲太郎を見つけた。
昼間の人通りはもう途切れ、遊歩道の照明だけが等間隔に砂浜を照らしている。海は黒く、沖に浮かぶ都市設備の灯りが細く揺れていた。
「まだいたのか」
「たまには、こうして波を見るのも悪くない」
「亀が言うとただの生活習慣に聞こえるな」
「風情というものを知らぬ若造じゃ」
拓海は甲太郎の隣へ腰を下ろした。砂がまだ昼の熱を少し残している。
しばらく二人とも海を見ていた。
「なあ」
「何じゃ」
「ずっと聞きたかったことがある」
「改まって怖いのう」
「なんで、音姫にそこまで付き合ったんだ?」
甲太郎が首を傾げる。
「千年だぞ。海岸を守るのを手伝って、八百一年目には竜宮城の門前まで来た音姫を相手にして、最後は玉手箱まで作った。亀の恩返しにしては、俺より音姫へのサービスが手厚くない?」
「それを言われると弱いのう」
「図星かよ」
甲太郎は前脚で砂を少し掻いた。
「最初に言っておくが、わしがおぬしを竜宮城へ連れて行った時、音姫様が千年待つことなど知らなんだ」
「当たり前だろ」
「あれは本当に、助けてもらった礼じゃった」
「礼で人生千年飛ばすなよ」
「だから反省しておる!」
珍しく甲太郎が声を張った。夜の海鳥が一羽、驚いたように飛び立った。
「わしは時間の違いも、途中では帰れぬことも説明した。おぬしも聞いた。それで十分だと思ってしまった」
甲太郎は甲羅の縁を砂へ沈めた。
「じゃが十七の子供が『千年なら最高』と笑った時、本当はもっと止めるべきじゃった」
「俺が選んだことだ」
「選ばせる側にも責任はある。海の外を知らぬ者に、深さだけ教えて飛び込ませたようなものじゃ」
拓海は何も言わなかった。
自分の軽率さは消えない。両親を置いてきたことも、音姫から逃げるためだけに千年を選んだことも、自分の選択だ。
それでも、甲太郎がその一日を千年引きずってきたことも分かり始めていた。
「おぬしが消れて、地上で三年目。わしは海岸へ出た」
「三年目?」
「様子を見るだけのつもりじゃった。帰還地点に大きな変化がないか確認するためにな」
甲太郎の目が、今の海ではなく遠い昔を見るように細くなる。
「夕暮れじゃった。今ほど堤防も高くなく、人の家が海の近くまで並んでおった。そこに、一人で立っている娘がおった」
拓海には誰か聞く必要がなかった。
「音姫か」
「うむ」
三年目の音姫は、まだ十七歳の姿だったという。
学校の制服ではなく、少し大人びた服を着ていた。けれど立っている場所は、拓海が消えた日の波打ち際からほとんど変わっていなかった。
「わしを見つけた瞬間、走ってきた。砂に足を取られて転びかけながらな」
「想像できる」
「開口一番、何と言ったと思う」
「俺に会わせろ?」
「『あと何年ですか』じゃ」
拓海の胸が少し詰まる。
「わしは答えた。地上では、およそあと九百九十七年とな」
「……そのまま言ったのか」
「嘘をついても仕方あるまい」
「音姫は?」
「一度、座り込んだ」
甲太郎はそこで言葉を切った。
「泣いた?」
「泣かなんだ。少なくとも、わしの前ではな。しばらく海を見て、それから『分かりました』と言った」
「それだけ?」
「そのあと、『明日も来てもいいですか』とな」
拓海は目を閉じた。
三年目。
自分にとっては竜宮城へ入ってまだ一日ほどしか経っていない時期だ。
地上では、音姫はすでに三年待っていた。
「その時、俺はまだ宮にいたんだよな」
「おった」
拓海の声が硬くなる。
「なんで教えてくれなかったんだ。音姫が待ってるって。一言でも」
甲太郎は、しばらく答えなかった。
波が一度大きく寄せ、二人の少し手前で崩れる。
「考えなんだわけではない」
「じゃあ、なんで」
「伝えたところで、おぬしに何ができた」
拓海は眉を寄せた。
「帰還の門は、竜宮の一年が過ぎるまで開かぬ。地上で三年目なら、こちらではまだ一日ほど。知ったところで、おぬしはそこからほぼ一年、何もできずに待つしかなかった」
「でも」
「地上で誰かが苦しんでいると知らせて、何もできぬまま一年近く飼い殺しにするのが、果たして優しさなのか。わしには分からなんだ」
甲太郎の声は静かだった。
「それに、正直に言えば。知らせれば、おぬしは無茶をしようとしたじゃろう」
「……否定できない」
「帰還の門を壊してでも出ようとしたはずじゃ。だが、あの封印は力ずくで破れるものではない。おぬし自身が傷つくだけじゃった」
拓海は砂を握った。
「だから、黙ってた」
「うむ」
「正しかったと思う?」
甲太郎はすぐに答えなかった。
「今でも分からぬ」
その答えが、拓海には一番本当らしく聞こえた。
「もし教えておれば、おぬしは竜宮の一年を苦しみながら過ごしたかもしれぬ。教えなかったから、おぬしは何も知らぬまま過ごした。その代わり、帰ってきた時に千年分を一度に受け取った。どちらがましだったか、わしには決められぬ」
「そっか」
「じゃから、あの日からわしは、自分が決めてよいことと、本人が決めるべきことを間違えぬようにしてきたつもりじゃ」
拓海は玉手箱を思い出した。
最後に開けるかどうかを、自分一人で決めるなと甲太郎は言った。
「それで音姫にも付き合った?」
「最初は止めた」
「だろうな」
「人魚の伝承を調べていると知った時は、三度ほど説教した」
「三度で諦めたの?」
「十七度じゃ」
「増えた」
「数えておったわけではない。たぶんじゃ」
甲太郎は遠い目をした。
「五年目、十年目、二十年目。会うたびに『もう諦めてはどうか』と言った。音姫様は毎回、言い方だけ変えて断った」
「例えば?」
「十年目は『まだ十年しか経っていません』」
「重いな」
「五十年目は『残り九百五十年なら、もう一割終わりました』」
「計算で前向きになるなよ……」
「百年目には『百年待てたので、次の百年も待てます』」
「理屈がおかしい」
「わしもそう言った」
二人で少し笑った。
甲太郎は続けた。
「じゃが、笑えぬ時もあった。おぬしの両親が亡くなった頃、音姫様はしばらく海へ来なんだ」
拓海が顔を上げる。
「来なかった?」
「初めてじゃった。毎年、何度かは必ず海岸へ来ておったのに」
「どうしたんだ」
「心配になって、わしから探した」
音姫は拓海の実家だった場所の近くにいたという。
老いた拓海の母を見送り、その少し後に父も見送った。家の中には二人分の生活用品が残り、音姫は一人で片づけていた。
「わしが声をかけると、音姫様は言った。『今日から、拓海くんを知っている家族は私だけになりました』とな」
拓海は返事ができなかった。
「その時は、わしも諦めろとは言えなんだ」
「……うん」
「待つことが正しいとは思わぬ。今でもな。じゃが、あの者にとって待つことは、ただおぬしに執着するだけではなくなっておった。両親から預かった手紙を守り、家を守り、海岸を守る。途中からは、帰ってきたおぬしが一人にならぬように、帰る場所そのものを残そうとしておった」
「だから手伝った?」
「少しずつな」
甲太郎は、竜宮側の記録に海岸の座標を残した。地形が変われば確認し、埋め立てが進めば帰還地点がずれないよう調整した。
「地上の土地の売買まで手伝ったわけではないぞ。そこは音姫様が勝手に巨大企業まで育てた」
「そこは安心した」
「何に安心したのじゃ」
また少し笑う。
けれど、八百一年目の話になると甲太郎の声は低くなった。
「門前へ来た時は、わしも困った」
「日記で読んだ」
「なら知っておるな」
「一分でいい。声だけでも。眠ってるところを見るだけでも、って」
「うむ」
あの日、音姫は初めて甲太郎へ掴みかかった。
普段ならどれだけ怒っても丁寧語を崩さない彼女が、泣きながら「八百年待った」と叫んだ。
「わしは、会わせられなんだ」
「時間の均衡が崩れるから」
「そうじゃ」
「分かってる」
「分かっていても、断る側は楽にはならぬ」
甲太郎は砂へ目を落とした。
「音姫様は帰り際、わしに言った。『では、帰ってきたあとに人間へ戻る方法を作ってください』とな」
「それが玉手箱」
「うむ」
「お前、断らなかったんだ」
「断れると思うか?」
「無理だな」
「無理じゃ」
甲太郎が大きく息を吐いた。
「それに、わしにも詫びがあった。おぬしを海へ連れていったこと。音姫様が待っていると知りながら、宮のおぬしへ伝えなかったこと。八百一年目に二人を会わせられなかったこと。どれも、それぞれ理由はあった。じゃが理由があれば、誰も傷つかぬわけではない」
拓海は海を見る。
「だから、せめて戻る道を作った」
「左様」
「音姫だけの願いじゃなかったんだな」
「わしの詫びでもあった」
甲太郎は拓海を見る。
「すまなんだ」
千年越しの謝罪だった。
拓海はすぐには答えなかった。
波の音を何度か聞いたあと、甲太郎の甲羅を軽く叩く。
「じゃあ、これで終わり」
「よいのか」
「よくはない」
甲太郎が目を丸くする。
「俺が両親に会えなかったことも、音姫が千年待ったことも、全部なかったことにはならない。お前が黙ってたのも、たぶん俺はずっと『教えてほしかった』って思う」
「……うむ」
「でも、それでお前に千年ともう一年反省させても仕方ないだろ」
甲太郎が小さく笑った。
「俺も散々逃げたし、音姫も散々暴走した。お前だけ千年反省会続けるの、ずるいし」
「その理屈で許されるのも妙じゃな」
「許すっていうより、終わらせるんだよ」
拓海は砂から立ち上がった。
「過去の答え合わせをずっと続けても、今日がなくなるだけだろ」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
千年前の自分なら、過去から逃げるために未来へ飛んだ。
今は、過去を見たうえで、そこに居続けないことを選ぼうとしている。
「拓海殿」
「何」
「少しは大人になったのう」
「一年しか経ってないけどな」
「地上換算なら千年じゃ」
「俺まで千歳扱いすんな!」
甲太郎が笑った。
やがて海へ向かって歩き出す。
「では、わしは帰る」
「おう」
「今後、亀を助けても旅行先の希望は聞かぬことにする」
「そうしてくれ」
「昆布くらいにしておく」
「礼が急に安い!」
笑い声が夜の海へ溶けていった。
拓海は一人になってからもしばらく砂浜に立っていた。
甲太郎が最後に言った「本人が決めるべきこと」という言葉が残っている。
音姫は人魚の肉を自分で手放した。
なら、自分も「いつか」に逃げず、自分で選ばなければならないことがある。
帰宅すると、居間の灯りが点いていた。音姫はテーブルへ突っ伏して眠っている。横には開いた日記と、来月の予定を書いた端末。
明日の買い物。
来週の映画。
次の季節に行きたい場所。
千年先ではない予定がいくつも並んでいた。
拓海は音姫の肩へ毛布を掛ける。
彼女が千年待ったからではない。
自分が逃げたからでもない。
今、ここにいる音姫と、この続きを選びたい。
その夜、拓海は一つだけ決めた。
次に大事なことを伝える時は、「いつか」に預けない。
時間ではなく、自分の口で選ぶ。