ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第4話 千年後のデートと、変わらない嫉妬
拓海は未来の世界を知らなかった。音姫は千年分知っていた。その差は、想像以上だった。
「これ、電車?」
「浮上式都市間輸送です」
「切符は?」
「もう三百年前に消えました」
「コンビニは?」
「あります」
「あるんだ!」
「人類は何度文明が変わっても、夜中に甘いものを買いたくなるので」
妙に納得した。音姫は拓海を街へ連れ出した。千年後の海岸。空中庭園。過去の都市を再現した歴史区画。拓海がいた二十一世紀は、今では「古典情報時代」と呼ばれていた。博物館にはスマートフォンが展示されている。
「うわ、俺の時代が縄文土器みたいな扱い」
「私にとっては昨日みたいなものですけどね」
「その感覚怖いな」
歴史区画の一角に、古い学校の教室が再現されていた。木製の机。黒板。ロッカー。拓海は笑った。
「似てるな」
「私たちの学校を参考にした展示です」
「え?」
「校舎が解体される前に、図面と備品を買い取りました」
「お前、学校まで保存してたの!?」
「全部は無理でした」
「無理じゃなかったらやってたのか」
拓海は教室の一番後ろの席へ座った。机の天板には、再現用の細かな傷まで刻まれている。
「俺の席、どこだったっけ」
音姫は迷わず窓際から二列目を指した。
「前から四番目。私がその斜め後ろです」
「即答か」
「授業中、よく見ていたので」
「先生を見ろよ」
音姫も自分の席だった場所へ座った。二人の間に、千年前と同じくらいの距離ができる。
「こうしてると、変な感じだな」
「私は、たまに一人で来ていました」
「ここに?」
「はい」
音姫は黒板を見た。
「拓海くんが戻ってきたら、どの席に座らせようとか。最初に何を話そうとか」
「千年かけてシミュレーションした結果が『おかえりなさい』?」
「最後は、それしか残りませんでした」
拓海は笑えなかった。千年の間に言いたいことは増え続け、増えすぎて。結局、一番短い言葉だけが残ったのだ。
「はい」
即答だった。それでも、その日は楽しかった。未来の街には、拓海にとって「初めて」が多すぎた。中でも拓海が一番戸惑ったのは、人ではなく「記憶」の扱いだった。未来の街では、亡くなった人の声や話し方を学習した記念人格が、家族の希望で保存されることがあるらしい。歴史区画の広場では、三百年前の有名な料理人が映像体として客にレシピを教えていた。
「これ、本人なの?」
「本人ではありません。記録から再現したものです」
「そっか」
拓海は少しだけ足を止めた。
「親父とか母さんも、こういうの残ってないの?」
音姫の表情が曇る。
「作ろうと思えば、作れました」
「作らなかった?」
「はい」
「なんで」
音姫はしばらく考えてから答えた。
「お父さまとお母さまが、嫌がったので」
二人は音姫に言ったらしい。
『拓海が帰ってきた時、偽物の私たちに縛られたら可哀想だから』
拓海は胸の奥が痛んだ。会いたい。声を聞きたい。たとえ記録でも、話したい。でも同時に、それが本人ではないことも分かる。
「音姫は、作りたかった?」
「何度も」
「俺のも?」
「拓海くんの記念人格は、七回試作して全部消しました」
「作ってたの!?」
「声が違いました。笑い方も、返事の間も」
音姫は少し寂しそうに笑った。
「似ているほど、本人じゃないことが分かってしまったので」
拓海は広場の映像体から音姫の横顔へ視線を戻した。何か返したかったが、軽い言葉にしてしまうのが嫌で、口を閉じた。千年間、彼女は偽物で埋めることもできた。それでも本物の帰還を待った。その頑固さだけは、少し嬉しかった。その時、拓海は前日に見た肖像画を思い出した。
「昨日の肖像画も、同じ理由か」
音姫は小さく頷いた。
「写真を見るだけだと、だんだん『知っている人』ではなく『昔の記録』になっていくんです」
「……」
「だから描きました。声も書きました。言い方も、癖も。あなたが笑うと左の口角が少し先に上がることも」
拓海は初めて気づいた。千年間待つというのは、ただ長く生きることではない。忘れないために、毎日戦うことでもあったのだ。
「音姫」
「はい」
「寂しかった?」
音姫は、いつものように即答しなかった。長い沈黙のあと、ようやく頷く。
「……はい」
拓海はその返事を聞いて、初めて音姫を「千年生きた怪物」ではなく、「千年寂しかった一人の人間」として見た気がした。彼女は不老だった。財産も権力も手に入れた。歴史の転換点をいくつも見て、普通の人間なら一生かけても届かない場所まで来た。それでも、欲しかったものは一つだけだった。帰ってくると約束すらしていない少年の声。千年という途方もない数字よりも、目の前の音姫が「寂しかった」と認めた事実の方が、今の拓海にはずっと具体的だった。胸の奥に残った痛みを、拓海はしばらく持て余した。
空中庭園では足元の透明床に本気で腰を抜かし、無重力体験施設では壁に頭から突っ込み、音姫に腹を抱えて笑われた。
「お前、笑いすぎ!」
「だって拓海くん、千年前と同じ顔で失敗するんですもの」
「失敗顔まで覚えてるのかよ」
「もちろんです」
その「もちろん」が、以前ほど怖く聞こえなかった。音姫は千年を知っている。拓海は何も知らない。だから彼女が案内し、彼が驚く。そのたびに音姫は嬉しそうに笑った。拓海はふと思った。もしかすると彼女は、この景色を見せる相手が来る日を、ずっと待っていたのかもしれない。音姫が昔より少しだけ笑うようになった気がした。千年前の彼女は、拓海を逃がさないことばかり考えていた。今の彼女は、拓海が何を見て驚くかを楽しんでいる。
夕方。二人は未来の喫茶店に入った。店員の女性が拓海を見て目を丸くした。
「もしかして、復古ファッションですか? すごく似合ってますね」
「え、あ、どうも」
音姫の笑顔が止まった。店内の気温が二度下がった気がした。
「音姫?」
「何でしょう」
「顔」
「普通です」
「普通の人は笑顔でテーブルの材質を軋ませない」
帰宅すると、机の上に一冊のファイルが置かれていた。
『喫茶店勤務 篠原美波 身辺調査』
「早い早い早い!」
「念のためです」
「何の念だよ!」
「拓海くんに危害を加える人物でないか」
「コーヒー運んだだけだろ!」
「好意を持っている可能性は十二・七パーセント」
「分析すんな!」
音姫は唇を尖らせた。
「だって」
「だって?」
「またいなくなるかもしれないじゃないですか」
その声には嫉妬より先に、怯えがあった。拓海はそこでようやく気づいた。音姫にとって「見失う」は、数時間連絡が取れないという意味ではない。次に会えるまで千年かかるかもしれないという恐怖なのだ。もちろん、それで監視が許されるわけではない。けれど、理由を知ることと許すことは別だ。そして理由を知らずに拒絶することと、知った上で境界線を引くことも違う。拓海は初めて、逃げる以外の方法で彼女と向き合おうと思った。拓海の言葉が止まる。
「今回は逃げないよ」
「千年前も、前の日まではそう思っていたはずです」
「……」
正論だった。音姫はファイルを抱きしめる。
「私、分かってるんです。こういうことをするから、拓海くんが逃げたって」
「音姫」
「でも、怖いんです」
笑っていなかった。
「千年待って、やっと帰ってきた人が、次の日いなくなるかもしれないって思うと」
拓海は息を吐いた。昔なら「重い」で終わらせていた。今は、その重さの理由を知っている。
「じゃあルール作ろう」
「ルール?」
「俺は黙って逃げない」
音姫が目を見開く。
「その代わり、お前も勝手に身辺調査しない」
「……」
「そこ悩む?」
「努力します」
「禁止な」
「善処します」
「政治家みたいに逃げるな」
「では、事前申請制で」
「調査する前提を捨てろ!」
久しぶりに、音姫が声を上げて笑った。拓海も笑った。ふと、拓海は昔から引っかかっていたことを思い出した。
「そういえば、中二の時。俺に告白した子、翌日に転校したよな」
「しましたね」
「あれ、お前が何かしたんじゃないの?」
音姫は目を丸くした。
「違いますよ。本当にお父さまの転勤です」
「……マジで?」
「はい。当時、念のため調べましたので」
「結局調べてるじゃねえか!」
「でも転校させてはいません」
「じゃあ俺、あれまでお前のせいだと思って逃げてたんだけど」
「ひどいです」
「普段の行いだろ!」
笑いながらも、拓海は一つだけ肩の荷が下りた気がした。そしてその夜。拓海は、音姫の日記をもう一冊だけ読んだ。二百十三年目。
『今日、拓海くんに似た人を見ました。追いかけました。別人でした。帰ってから三日泣きました』
五百八十二年目。
『拓海くんの声を思い出せなくなりました。録音を聞きました。怖かった』
八百九十九年目。
『もうすぐです。あと百年くらいです。百年なら、すぐです』
拓海は本を閉じた。
「百年なら、すぐ……か」
自分には理解できない時間感覚だった。でも。理解できないからといって、無かったことにはできない。拓海は眠っている音姫の部屋の前まで行った。ノックしようとしてやめた。代わりに端末へ短いメッセージを送る。
『明日も出かけよう』
三秒後。扉が開いた。音姫が立っていた。
「起きてたのかよ」
「通知が来たので」
「三秒だぞ」
「待つのは得意ですが、返信は早いんです」
音姫は笑った。その笑顔を見たとき。拓海の胸の奥で、何かが少しだけ変わった。