ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第5話 人魚の肉は、願いを叶えない


 帰還して一か月ほど経った朝、拓海は音姫の指から流れた血を見た。きっかけは、本当にくだらないことだった。音姫が朝食用の野菜を刻んでいる横で、拓海が「未来の包丁って安全装置とかないの」と覗き込み、邪魔になった。音姫が少し手元をずらし、その拍子に刃先が左手の人差し指へ触れた。

「音姫!」

 赤い線が走り、遅れて血が滲んだ。拓海が反射的に手首を掴むと、音姫は驚いたように瞬きをした。

「大丈夫です。このくらいなら」

「大丈夫かどうかは俺が今から確認――」

 言い終わる前に、拓海は口を閉じた。傷口が、目の前で消えていったからだ。皮膚の裂け目が寄り合い、血が止まり、数秒後には薄い赤みさえ残っていない。音姫は濡れた布巾で指先を拭い、何事もなかったように包丁を持ち直した。

「……今の、いつもそうなのか」

「はい。怪我はすぐ治ります。病気もしませんし、昔から体温もほとんど変わりません」

「便利そうに言うなよ」

 拓海の声が思ったより低くなった。音姫は一度だけ彼の顔を見て、包丁をまな板へ置いた。

「便利ですよ。少なくとも、待つためには」

 その言い方が妙に引っかかった。

 その夜、拓海は棚の奥に置いたままの黒い箱を思い出した。竜宮城から持ち帰った玉手箱。漆黒の木肌に波と月の模様が浮かび、部屋の照明を受けてもそこだけ光を吸い込んでいるように見える。

「そういや、これ。結局なんなんだ?」

 音姫が振り返った。ほんの一瞬だけ、顔色が変わった。

「開けないでください」

「甲太郎は、地上に着くまでは開けるなって言ってた。もう着いて一か月だぞ」

「それでも、です」

「何が入ってる?」

 音姫は箱ではなく、拓海を見た。千年前なら何かを隠す時ほど笑って押し切ったはずなのに、今は笑わなかった。

「私にとって、都合の悪いものです」

 それ以上は言わなかった。

 翌日、拓海は音姫の私物から借りた竜宮城直通の巻き貝を握っていた。窓の外には未来都市の高層建築が並び、その向こうに千年前と同じ海が細く光っている。

『おお、拓海殿。どうした』

「玉手箱の正体を教えろ」

 巻き貝の向こうが静かになった。

『音姫様から聞くべきじゃ』

「聞いた。言わないって顔だった」

『顔で会話するようになったか。進歩じゃのう』

「茶化すな」

 しばらくして、甲太郎が深いため息をついた。

『ならば、答え合わせだけしよう。昨夜、おぬしは何か見たか』

 拓海は朝の傷を思い出した。

「指を切った。数秒で塞がった」

『それが人魚の肉じゃ。正確には、肉が止めた時間の働きじゃ』

「不老不死じゃないのか」

『人はそう呼ぶ。じゃが実際には、食べた者の肉体を世界の時間から切り離す。老いぬ。病で死なぬ。傷も、時間を巻き戻すように塞がる。便利に見えるじゃろう』

「……見えるだけ、か」

『うむ。世界は進む。本人だけが進めぬ』

 巻き貝の向こうで水音がして、拓海の前の空間に薄い水膜が開いた。海面を切り取ったような円の中へ、古びた巻物が映る。甲太郎が竜宮城側から広げているらしい。最初に見えたのは、門前に座る十七歳の音姫だった。雨に濡れた制服のまま、膝を抱えている。映像ではなく記録を術で再現しているだけなのに、拓海は思わず息を止めた。

『三日目』

 巻物が進む。同じ門、同じ少女。服だけが変わる。

『七日目。一月目。追い返しても、また来た。人魚の肉を譲れとな』

「こわ……」

『そこだけは昔から変わらぬ』

「本人の前では言うなよ」

『わしも命は惜しい』

 冗談のあと、巻物は八百一年目へ飛んだ。門前の音姫は、同じ顔で泣いていた。

『一分でいいんです』

 記録の声が水膜から漏れた。

『声だけでも。眠っているところを遠くから見るだけでも』

 甲太郎の声も聞こえる。

『ならぬ』

『八百年待ったんですよ』

 そこで映像が乱れた。音姫が門へ縋りつき、何かを叫んでいる。巻物そのものに水滴の染みが残っていた。拓海は視線を逸らせなかった。

『あの時、音姫様は玉手箱を作ってくれと頼んだ。おぬしと再会したあと、自分の時間をもう一度世界へ戻す道を残したいとな』

「箱を開けたら、人間に戻れる?」

『理屈の上ではな。本来なら止めた千年分が一気に肉体へ返る。そんなものを受ければ、人の身体など保たぬ。だから八百一年目から、竜宮の術者たちが調整した。蓄積した時間を肉体へ戻さず、海へ返すようにな』

「成功するんだよな」

 甲太郎はすぐに答えなかった。

『千年生きた者を戻した前例がない』

「おい」

『だからこそ、箱は必要な時まで開けるなと伝えた。地上へ戻ったことで、止まった肉体と世界の時間にずれが表へ出る可能性もある。兆候が出たら、すぐ知らせよ』

 黒い箱が、急に時限装置のように見えた。

「そんなもんを、なんで俺に持たせた」

『音姫様が望んだ。帰ってくる前の話じゃ。自分では選べぬから、おぬしに選んでほしいとな。不死のままおぬしを看取るか、人へ戻って同じように老いるか』

「そんなの……」

『それから、わしの口からは言えぬことが一つある。人魚の肉そのものについてじゃ』

「何だよ」

『本人に聞け』

 拓海は舌打ちしかけたが、甲太郎の声が低くなったので止めた。

『もう一つだけ。音姫様には、終わらせたいと願った夜が何度もあった』

「何度」

『数にしてどうする』

「知りたい」

『数字にすれば理解した気になれる。じゃが、一夜が長かった事実は何回数えても変わらぬ。ただ一つ言えるのは、そのたびに翌朝を選び直したということじゃ。おぬしが帰る日を見るためにな』

 拓海は巻き貝を握ったまま、長く黙った。待つという言葉を、自分はずっと何もしないことのように考えていた。けれど音姫は、今日を終えて明日へ行くことを千年分繰り返した。その身体だけが止まり、周囲のすべてが変わっていく中で。

『拓海殿』

「何」

『責任を感じるなとは言わぬ。じゃが、責任だけで音姫様の人生を選ぶな。あの者が千年かけて選んだことを、今度は本人に選ばせよ』

 通話が切れた。拓海はすぐに音姫のいるキッチンへ向かった。問い詰めるつもりだった。どうして玉手箱を自分に託したのか。どうして最後の選択だけを自分へ背負わせたのか。扉の前まで来ると、一定の間隔で包丁の音が聞こえた。朝と同じ音だった。千年を生きた女が、今夜の味噌汁のために大根を切っている。

「音姫」

「はい。もうすぐできます」

「箱のこと、聞いた」

 包丁が止まった。

「甲太郎さんですね」

「ごめん」

「謝るのはそこじゃありません」

 拓海は入口から動かなかった。

「人魚の肉についても、お前に聞けって言われた」

 音姫の指先がわずかに強張った。朝なら傷ができてもすぐ戻るその指が、今は包丁の柄を握ったまま動かない。

「……それは、今は言えません」

「なんで」

「今は、まだ」

 拓海は追及しかけて、やめた。代わりに、もう一つだけ聞いた。

「俺に決めてほしかったのか。箱を開けるかどうか」

 音姫は包丁を置いた。

「帰ってくる前は、そうでした。不死のままなら、拓海くんの最期まで一緒にいられる。人間に戻れば、同じように歳を取れる。でも失敗したら、再会した日に終わるかもしれない。どれも怖くて、自分では選べませんでした」

「千年待ったのに、最後だけ俺に?」

「はい。ずるいですよね」

「じゃあ今は?」

 音姫は答えなかった。

 しばらくして、包丁ではなく布巾を手に取った。まな板を拭き、切りかけの大根を保存容器へ移す。夕食を続けるための動きではなかった。

「少し、一人で考えたいです」

 その夜、音姫は帰ってこなかった。端末には一通だけ届いた。

『少し、一人で考えさせてください』

 拓海は何度も画面を点けては消した。千年前は、音姫が追い、自分が逃げた。今度は音姫の方から距離を取り、拓海が置いていかれる側になった。初めて、そのことが怖かった。
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