ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第6話 彼女が千年間で失ったもの


 音姫が戻らない。一日目。拓海は「まあ、そのうち帰るだろ」と思った。二日目。端末を何度も確認した。三日目。我慢できなくなった。

「どこにいるんだよ」

 会社へ問い合わせても、秘書は「会長は休暇中です」としか言わない。そこで拓海は、日記の書庫へ入った。勝手に読むのはよくない。分かっている。それでも、知りたかった。音姫が千年間、何を見てきたのか。四十二年目。

『今日は父を見送りました。母は七年前に先に亡くなりました。二人とも最後まで「もう待たなくていい」と言っていました。私は最後まで「待ちます」と答えました』

 拓海はそこで一度、ページを閉じた。自分の両親だけではない。音姫もまた、自分を育てた家族を見送っていた。百二年目。

『今日、最後の同級生が亡くなりました。これで高校時代を知っているのは私だけになりました』

 百九十年目。

『言葉が変わってきました。拓海くんが帰ってきた時に困らないよう、昔の言葉を忘れないようにします』

 二百六十年目。

『戦争が始まりました。海岸が焼けました。拓海くんが帰ってくる場所がなくなるのが嫌で、土地を買いました』

 その年の日記だけ、紙の端が黒く焦げていた。音姫は避難命令が出た夜も海岸にいたらしい。空を飛ぶ兵器が遠くで爆発し、昔の町並みは炎に呑まれた。

『危険です、会長!』

 当時の部下が何度も退避を促した記録が残っている。

『ここは売れません』

『土地の話をしている場合ではありません!』

『違います。帰ってくる場所の話です』

 その頃には、拓海の家も学校も原形を失っていた。それでも音姫は海岸線の座標だけは手放さなかった。砲撃で地形が変われば測量し直し、行政区分が変われば新しい権利を取り、国家が変われば新政府と契約を結び直した。千年後、拓海が同じ海から上がれるように。

「馬鹿だろ……」

 今度の言葉には、呆れより感謝の方が多かった。三百四十一年目。

『拓海くんの家があった場所に記念公園ができます。反対しました。負けました。夜中に土を少しだけ持ち帰りました』

「犯罪じゃねえか」

 思わずツッコんだ。その頃、音姫はすでに小さな会社を持っていた。最初は商売をしたかったわけではない。土地を守るためだった。海岸を買うには金がいる。金を維持するには仕事がいる。自分が老いないことを隠すには、一定の期間ごとに名義を変えなければならない。一つ問題を解決するたび、次の問題が出てきた。日記には愚痴も多い。

『今日は税制が変わりました。分かりません』

『会計士さんに怒られました』

『会社を作ったのに、社長業が向いていない気がします』

 さらに十年後。

『向いていないので、向いている人を雇いました』

 拓海は思わず笑った。千年後の巨大企業へつながる転機が、待ち場所を守るための不動産管理だったとは誰が想像するだろう。音姫は天才だったわけではない。失敗するたびに学び、何十年もかけてできることを増やした。千年という時間は、彼女を怪物にしただけではない。努力を積み上げるには、あまりにも長すぎる時間でもあった。けれど、次のページをめくった時、笑いは消えた。四百九十八年目。

『今日は、私を母と呼んだ子が死にました』

 別冊の薄いアルバムが挟まっていた。最初の写真には、十歳ほどの少年と音姫が並んでいる。次の写真では少年が青年になり、隣に妻がいる。その次では子供を抱いている。最後の写真では、皺だらけの老人がベッドに横たわり、十七歳の姿の音姫がその手を握っている。

『母さん、ずるいな』

 記録された最期の言葉。

『何がですか』

『俺だけ爺さんになった』

『ごめんなさい』

『謝るなよ。母さんは、そのままでいい』

 老人は笑ったという。

『待ってる人がいるんだろ』

 音姫の日記は、その一文のあと三ページ空白だった。四ページ目に、たった一行。

『家族を作ると、また見送ることになる。それでも、一人よりは幸せだったのでしょうか』

 拓海はアルバムを閉じた。音姫の千年は、自分だけで埋め尽くされていたわけではない。彼女は何度も誰かを家族として愛し、家族になり、失った。それでも心のいちばん奥には、拓海の帰る場所を残していた。その事実の方が、ただ一途と言われるよりずっと重かった。拓海の手が止まる。ページをめくる。音姫は長い人生の中で、孤児を引き取っていた。一人ではない。何十人も。時代ごとに名前を変え、母になり、姉になり、後見人になった。けれど全員、音姫より先に老いて死んだ。五百年目。

『もう家族は作りません。見送るのがつらいから』

 五百二十一年目。

『また拾ってしまいました。赤ん坊でした。仕方ありません』

「全然懲りてないじゃん」

 拓海は泣きながら笑った。七百三十年目。

『今日、私が守ってきた会社が、初めて月に支社を作りました。拓海くんが帰ってきたら自慢します』

 八百一年目。

『竜宮城へ行きました。会わせてもらえませんでした』

 八百一年目の日記には、普段使わない荒い筆圧で文字が刻まれていた。

『門の前で甲太郎さんに止められました』

 そこから先は、日記というより会話の書き起こしだった。

『一分でいいんです』

『ならぬ』

『声だけでも』

『ならぬ』

『眠っているところを遠くから見るだけでも』

『音姫様』

『八百年待ったんですよ』

 文字がそこで大きく乱れている。

『八百年です。あなたたちには一年にもならないのでしょうけど、私は春を八百回見たんです』

 拓海は唇を噛んだ。

『会わせてください』

『できぬ』

『嫌いです』

 その次の行。

『甲太郎さんも、竜宮城も、海も、拓海くんも、全部嫌いです』

 さらに次。

『嘘です。拓海くんだけは嫌いになれません』

 ページには乾いた水滴の跡がいくつも残っていた。拓海はようやく理解した。音姫の「おかえりなさい」は、千年間一度も揺らがなかった愛の言葉ではない。何百回も揺らいで、壊れて、嫌いになろうとして。そのたびに拾い直した言葉だった。文字が乱れていた。

『八百年待ったのに』

 その一行だけ、何度も書かれていた。

『八百年待ったのに』

『八百年待ったのに』

『八百年待ったのに』

 次のページ。

『ごめんなさい。昨日は取り乱しました。あと二百年です』

 拓海は本を閉じた。息が苦しかった。自分にとっては一年。彼女にとっては千年。その差を、今まで数字としてしか理解していなかった。書庫の最奥。一冊だけ、背表紙に年号のない本があった。開く。最初のページに書かれていた。

『拓海くんが帰ってきたら、言わないこと』

 一、寂しかったと言わない。二、何度も諦めたくなったと言わない。三、死にたかった時期があったと言わない。四、拓海くんを恨んだことがあると言わない。五、帰ってきたら、笑って「おかえり」と言う。拓海は、その場に座り込んだ。

「馬鹿だろ……」

 どっちが。音姫か。自分か。分からなかった。最後のページ。

『それでも、帰ってきてほしい』

 文字の最後だけ、インクが滲んでいた。拓海は指で触れそうになって、やめた。これは千年前の自分には向けられていない。百年待った音姫にも、八百年待って壊れかけた音姫にも、九百九十九年目の音姫にも向けられた言葉なのだろう。諦めたい自分へ、明日も待つために書いた一文。拓海は本を閉じた。千年前は、音姫が追い、拓海が逃げた。今度は、自分が探しに行く番だった。拓海は立ち上がった。音姫がどこにいるのか、ようやく分かった気がした。千年前。自分が消えた海岸。

 未来では形が変わっても、音姫が土地を買い続け、保存した場所。そこへ向かった。夕暮れ。海辺に一人の少女が座っていた。千年前と同じ姿で。

「音姫」

 肩が揺れた。

「……どうしてここが」

「日記読んだ」

「最低です」

「ごめん」

「本当に最低です」

「うん」

「見られたくなかったのに」

「うん」

 音姫は海を見たまま言った。

「私、拓海くんを恨んだことがあります」

「知った」

「百年目くらいに」

「うん」

「二百年目にも」

「うん」

「八百年目は、本当に嫌いになろうと思いました」

「……うん」

「でも無理でした」

 声が震えた。

「帰ってきてほしかった」

 拓海は隣に座った。

「ごめん」

「謝らないでください」

「謝るよ」

「私は勝手に待ったんです」

「俺は勝手に逃げた」

 初めて。二人は、千年前のことを真正面から話した。音姫の愛情が、いつから「好き」ではなく「怖い」に変わったのか。拓海が、なぜ嫌だと言う代わりに逃げることを選んだのか。そして二人とも、自分に都合のいい部分だけを「相手のため」と呼んでいたこと。拓海は一度、言葉を選んでから口を開いた。

「最初に言っておく」

「はい」

「お前が俺の予定を勝手に調べたり、誰と話したか把握したり、逃げ道を塞いだりしたのは、普通に嫌だった」

 音姫の肩が小さく縮こまる。

「怖かった。だから、あの頃の俺が逃げたくなったことまで間違いだったとは思わない」

「……はい」

「そこは、お前が悪かった」

 音姫はしばらく黙っていた。

 やがて、逃げずに拓海を見る。

「ごめんなさい」

 千年前には聞けなかった言葉だった。言えば終わってしまうと思っていたのかもしれない。自分の愛情を否定されるのが怖くて、音姫は正しさよりも「離さないこと」を選んだ。

「好きなら、何をしてもいいと思っていました」

「うん」

「拓海くんが嫌がっているのも分かっていたのに、私が一番あなたを分かっているから大丈夫だって……勝手に決めていました」

「うん」

「本当に、ごめんなさい」

 拓海は頷いた。その謝罪で千年前の恐怖が消えるわけではない。けれど、消えなくてもいいのだと思った。無かったことにせず、これから同じことをしないために覚えておけばいい。今度は拓海の番だった。

「俺も、ごめん」

「拓海くんは……」

「お前が悪かったからって、俺が何も言わず消えていい理由にはならない」

 海を見たまま続ける。

「嫌なら嫌だって言えばよかった。距離を置きたいって言えばよかった。それでも駄目なら、大人に相談するとか、他にもやり方はあった」

「でも俺は、一番楽そうな方法を選んだ。お前のいない千年後に逃げれば全部終わるって」

 音姫は首を振らなかった。

「だから、そこは俺が悪かった」

「……はい」

 二人は、ようやく同じ過去を同じ形で見ることができた。どちらの傷も相手の傷で帳消しにはならない。謝ることと、許すことと、もう一度好きになることも、全部別の話だ。だからこそ、続きではなく、最初から選び直す必要があった。

「やり直せるかな」

 拓海が言った。音姫が顔を上げる。

「何を?」

「俺たち」

「……」

「千年前の続きじゃなくて」

 拓海は海を見る。

「今から」

 音姫の目から、涙が落ちた。

「それ、告白ですか?」

「まだ」

「まだなんですか」

「まず普通に友達から」

「千年待って友達から!?」

「普通の手順踏みたいって言ってただろ!」

 音姫は泣きながら笑った。

「……分かりました」

「うん」

「ただし」

「何」

「友達でも、毎日会います」

「そこは譲らないんだな」

「千年分ありますので」

「借金みたいに言うな」

 夕日が沈む。千年前と同じ海。でも二人は初めて、過去ではなく明日の話をした。次の約束は千年後ではない。たった一日先でよかった。
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