ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第7話 ヤンデレと、普通の恋を始める方法
「友達からやり直す」
言った本人である拓海は、翌朝から後悔した。音姫が真面目すぎた。
「おはようございます、友達の拓海くん」
「その言い方やめろ」
「友達なので朝食を作りました」
「友達は毎朝家に入ってこない」
「合鍵を持っている友達です」
「返せ」
「……はい」
音姫は世界の終わりみたいな顔で、合鍵を差し出した。
「そんな世界の終わりみたいな顔する?」
音姫は本気で「普通の友達」を学ぼうとしていた。
その日の昼、拓海の端末へ妙なメッセージが届いた。
『友達同士の適切な連絡頻度について質問です。一時間に一回は多いでしょうか』
『多い』
三十秒後。
『三時間に一回』
『用事がある時だけでいい』
五分後。
『用事を作ればいいということですね』
『違う』
さらに五分後。
『では今日の夕食は何がいいですか。これは用事です』
拓海は画面を見ながら笑った。千年前なら、音姫は好みを勝手に予測して料理を用意しただろう。今は、聞いている。不器用でも、答えを自分で決めずに待っている。
『カレー』
送ると、既読は一秒でついた。
『分かりました。友達用の辛さにします』
『恋人用の辛さとかあるの?』
『あります』
『怖いから聞かない』
翌朝、音姫は一冊のノートを持ってきた。表紙には几帳面な字で『友達規約(草案)』と書かれている。
「……何これ」
「昨日のやり取りを踏まえて作りました。普通の友達になるための暫定規約です」
音姫は本気だった。第一条は『返信を催促しない』。第二条は『既読を受信直後につけない』。第三条は『相手が外出するとき、同行の許可を自動的に取得したものと解釈しない』。
「二条、なんでわざと既読遅らせるんだよ」
「一秒でつけると重いかと思って」
「普通になるために不自然になってる」
「難しいですね、普通」
ページをめくると、条文は十一まで続いていた。連絡、食事、待ち合わせ、私物、位置情報。どれも千年前の音姫なら考えもしなかった境界線ばかりだ。笑えるほど堅苦しいのに、その一行ずつを自分で書いてきたことだけは、拓海には笑えなかった。
「十二条は?」
最後の欄だけ、妙に広く空いている。音姫はノートを閉じた。
「協議中です」
「嫌な予感しかしない」
「友達にも、将来性は必要です」
「規約で将来を囲うな」
音姫は少しだけ笑った。その笑い方は、叱られて誤魔化す時のものではなかった。自分で間違えながら覚えていくことを、ほんの少し楽しみ始めた顔だった。それでも以前とは違った。音姫は拓海の端末を勝手に確認しなくなった。外出先を聞くときも、
「どこへ行くんですか」
ではなく、
「よかったら教えてください」
最初の頃、その一言を言うたび音姫の肩には力が入った。拓海が「今日は一人で出る」と答えると、笑顔のまま三秒ほど固まる。
「どこへ行くか、聞かないの?」
「よかったら教えてください、と言いました」
「いや、今の顔が全力で聞いてる」
「表情は規制対象外です」
「抜け道を探すな」
それでも音姫はついてこなかった。拓海が一人で街を歩き、夕方に帰宅すると、玄関の前で音姫が座っていた。
「何してるの」
「待っています」
「家の中で待てばいいだろ」
「帰ってくるところを見たかったので」
拓海はため息をついた。
「ただいま」
音姫の顔がほどける。
「おかえりなさい」
たった数時間。けれど彼女にとっては、「待てば今日中に帰ってくる」という経験そのものが新しかった。拓海は靴を脱ぎながら思った。千年分の恐怖は、千年分説明して消えるわけではない。こうして一日ずつ、帰ってくる実績を積むしかないのだ。もちろん、うまくいく日ばかりではなかった。一度だけ、拓海が連絡を忘れて帰宅が三時間遅れたことがある。友人と話し込んで、端末の充電も切れていた。玄関を開けると、音姫が立っていた。笑っていなかった。
「ただいま」
返事がない。
「音姫?」
「何時ですか」
「ごめん。充電切れて」
「何時に帰ると言いましたか」
「七時」
「今、十時です」
声は静かだった。だからこそ、拓海は昔の怖さを思い出した。
「だからごめんって」
「私は三時間、何を考えていたと思います?」
「でも三時間だろ」
言った瞬間、音姫の顔が凍った。拓海も自分の失言に気づいた。三時間。自分には三時間。音姫には、千年の始まりと見分けがつかない三時間。
「……ごめん」
今度は言い訳せずに言った。音姫は俯いた。
「私も、ごめんなさい」
「なんでお前が」
「怖くなったら、また監視したくなりました」
「した?」
「しませんでした」
「そっか」
「でも、したかったです」
拓海は靴を脱ぎ、音姫の前に立った。
「次から充電切れそうなら先に連絡する」
「はい」
「遅れる時も」
「はい」
「お前も、怖くなったら勝手に調べないで、怖いって言え」
音姫は少し迷ってから頷いた。普通の恋は、喧嘩しないことではない。喧嘩したあと、逃げずに戻ってくることなのかもしれない。
その夜、二人は冷めた夕食を一緒に温め直した。たったそれだけ。でも音姫にとっては大きな変化だった。拓海も変わった。以前なら一人で出かけたかった。今は時々、自分から誘った。
「今日、歴史区画行く?」
音姫が固まる。
「……今、誘いました?」
「誘った」
「私を?」
「他に誰がいる」
音姫はその場でしゃがみ込んだ。
「どうした!?」
「千年待ってよかった……」
「一回誘っただけで重い!」
二人はデートではない外出を重ねた。最初のうちは、本当に「友達らしいこと」を一つずつ試した。待ち合わせは現地集合。音姫が三時間前から待つのは禁止。食事は毎回音姫が払わず、交代制。帰宅後の行動報告も不要。
「友達って、規約が多いんですね」
「お前専用の規約だよ」
「では第十二条に、週三回以上のハグを」
「却下」
「審議を要求します」
「却下」
そんな馬鹿なやり取りをしながら、二人は千年前にはできなかった距離の測り方を覚えていった。映画。水族館。未来の遊園地。千年前の料理を再現する店。音姫は何でも知っているようで、意外なことを知らなかった。
「プリクラ?」
「知らないの?」
「千年前に流行っていたことは知っていますが、拓海くんと撮ったことはありません」
歴史施設に復刻機があった。二人で入る。画面に顔が映る。
「近い」
「狭いので」
「わざと寄ってない?」
「狭いので」
「二回言った」
撮影。音姫は笑わなかった。緊張で表情が固まっていた。出来上がった写真を見て、拓海は吹き出す。
「お前、顔硬っ」
「だって」
「千年生きてプリクラで緊張するなよ」
「拓海くんと撮るのは初めてです」
拓海は笑いかけた口を閉じた。さっきまでのからかいが、急に少しだけ恥ずかしくなる。音姫は写真を大切そうにしまった。
「これ、日記に貼ります」
「まだ日記書いてるの?」
「もちろん」
「今日何書く?」
音姫は考えた。
「『拓海くんから誘われました』」
「それだけ?」
「十ページくらい使います」
「長い!」
帰り道。音姫が急に立ち止まった。
「拓海くん」
「ん?」
「私、最近怖いんです」
「何が」
「幸せなのが」
拓海は黙る。
「千年間、帰ってくる日だけを考えていました。帰ってきたら全部終わると思ってたんです」
「終わる?」
「待つことが」
音姫は自分の手を見る。
「でも帰ってきたら、今度は失うのが怖くなりました」
「……」
「人間に戻ったら、もっと怖くなると思います」
そう言った直後、音姫の指が胸元を押さえた。
「どうした?」
「……何でもありません。一瞬だけ、身体だけ置いていかれたような感じがして」
「それ、何でもなくないだろ」
「もう治まりましたから」
音姫は笑ってごまかした。拓海は気になったが、その時はそれ以上追及しなかった。玉手箱。二人の間に残っている最大の問題。拓海は答えを急がなかった。
「怖くていいんじゃない?」
「え?」
「俺も怖いよ」
「拓海くんが?」
「親も友達も全部いない世界だぞ。俺、今お前がいなくなったら本当に一人だ」
音姫が目を見開く。拓海自身、言ってから気づいた。そうだ。今、この世界で。自分の昔を知っているのは音姫だけだ。
「俺、お前に依存し始めてるかも」
「歓迎します」
「即答すんな」
「相互依存は愛の基本です」
「違うと思う」
笑った。でも拓海は、音姫の手を取った。
「依存じゃなくてさ」
拓海は一度、言葉を探した。
「お前しか昔の俺を知らないから、頼ることはあると思う」
「はい」
「でも、それを理由に全部お前に任せたら、今度は俺がお前を縛るだろ」
音姫が少し驚いた顔をした。
「私、縛られるのは嫌いじゃありません」
「物理の話にするな」
「冗談です」
「半分本気だろ」
音姫は笑った。拓海も笑った。
それから、少し真面目な声で続ける。
「一人でも立てるけど、一緒にいたい。たぶん、そういうのがいい」
音姫は何度かその言葉を口の中で繰り返した。千年間、「一人で立つ」ことだけは誰より上手くなってしまった少女にとって。
「一緒にいたいから一緒にいる」という単純な選択は、意外なほど難しかった。
「はい」
「一緒に生きるって、そういう怖さも含むんじゃない?」
音姫は握られた手を見る。
「拓海くん」
「何」
「友達って、手をつなぎますか?」
拓海は固まった。
「……場合による」
「では今日は、そういう場合ということで」
音姫が指を絡める。恋人つなぎ。
「お前それ知ってて聞いただろ!」
「千年勉強しました」
「何を勉強してんだ!」
音姫は楽しそうに笑った。その横顔を見て。拓海はようやく認めた。自分はもう。千年前とは違う意味で、音姫から逃げられなくなっている。
その夜、別れ際に音姫の足が一瞬だけ止まった。
「音姫?」
「……大丈夫です。また、身体だけ少し置いていかれた感じがしただけです」
今度は拓海も笑えなかった。玉手箱を「いつか」の問題にしておける時間は、もう長くないのかもしれない。