ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第8話 玉手箱を開ける日


 先送りにしていた決断の日は、ついに来た。音姫が倒れた。不老不死なのに。拓海が駆け寄ると、音姫は苦しそうに胸を押さえていた。病院へ運ばれる。診断結果は「時間乖離症」。人魚の肉によって千年間止められた肉体と、世界との間にずれが生じ始めている。医師は言った。

「これ以上は予測できません」

「死ぬんですか」

「不死ですから、死なない可能性が高い」

「じゃあ」

「壊れ続けても死ねない可能性があります」

「治療は?」

「通常の医療では難しいです。原因は病気ではなく、彼女の時間そのものです」

 医師は計測器の波形を見つめた。

「次の発作がいつ起きるかは分かりません。繰り返すほど、元の時間へ戻すのは難しくなる可能性があります」

 先延ばしにしてきた選択が、とうとう期限を持った。拓海の背筋が冷えた。音姫はベッドの上で笑った。

「大げさですね」

「大げさじゃない!」

「拓海くん」

「何」

「箱、開けましょう」

 その夜、音姫は一通の映像メッセージを残した。拓海には見せないつもりだったらしい。だが保存端末の確認画面に『拓海くんへ』と表示され、本人に見つかった。

「何これ」

「見ないでください」

「俺宛てなのに?」

「成功しなかった時だけ見るものです」

 拓海の手が止まる。音姫は目を逸らした。

「もし箱を開けて、私がいなくなったら。最後に言えなかったことが残るのが嫌だったので」

「消せ」

「嫌です」

「じゃあ俺の前では再生するな」

「はい」

「成功したら?」

 音姫は少し考えた。

「一緒に見て笑いましょう」

「縁起でもない内容を?」

「『心配しすぎでしたね』って」

 拓海は端末を裏返した。未来を保証することはできない。だから二人は、怖いまま明日を選ぶしかない。永遠を選んだ時の音姫にはできなかった選択だった。拓海は黙った。今まで音姫は怖がっていた。人間に戻ることを。

「いいのか」

「怖いです」

「……」

「すごく怖い」

 音姫は笑う。

「でも、拓海くんと同じ時間を生きたい」

 音姫は自分の手の甲を見た。千年間、一度も増えなかった皺。傷ついても戻り、熱を出すことも、老いることもなかった身体。

「昔は、変わらないことが強さだと思っていました」

「うん」

「でも今は、拓海くんと一緒に変わりたいです」

 髪が白くなること。足が遅くなること。昨日できたことが、いつかできなくなること。それらを音姫は千年間、他人の身にだけ見続けてきた。

「怖いけど……今度は見送る側じゃなくて、隣にいたい」

 拓海は返事の代わりに、箱へ置かれた彼女の手を握った。拓海は玉手箱を持ってきた。甲太郎も竜宮城から来た。珍しく、冗談を言わない。

「一つ、伝えておく」

「何だ」

「成功する保証はない」

 音姫が頷く。

「分かっています」

「人間に戻った瞬間、千年分の時間が肉体へ戻る可能性も、完全には消せぬ」

 甲太郎はさらに、拓海だけを見た。

「そしてもう一つ」

「何」

「箱を開けるかどうかを、おぬし一人で決めるな」

 拓海は眉を寄せた。

「でもこの箱、俺に選ばせるために」

「あの時はな」

 甲太郎が音姫を見る。

「今の音姫様は、あの時の音姫様ではない」

 音姫は静かに頷いた。

「私が決めます」

「音姫」

「拓海くんが嫌だと言っても、最後は私が決めたいです」

 その言葉は、千年前の彼女からは想像できないほど穏やかだった。誰かを愛することと、相手に人生を決めてもらうことは違う。拓海もようやく理解した。守りたいからといって、音姫の選択を奪えば、それは千年前に音姫が自分へしたことと同じになる。

「……分かった」

「ありがとうございます」

「でも怖い」

「私もです」

「一緒だな」

「はい」

 怖さが消えてから進むのではない。怖い二人で、同じ扉を開ける。それがこの箱の本当の意味なのかもしれなかった。拓海は箱を握る。

「だったらやめる」

 音姫が手を重ねた。

「拓海くん」

「無理だ。開けて、お前がその場で」

「それでも」

「嫌だ!」

 病室に声が響いた。音姫が驚いた顔をした。拓海は自分でも驚いていた。

「嫌なんだよ」

「……」

「お前がいなくなるの」

 音姫の瞳が揺れる。

「俺、千年前はお前から逃げた」

「はい」

「怖かった」

「はい」

「今も怖い」

「……はい」

「でも今は、お前がいる方がいい」

 言葉が勝手に出た。

「音姫」

「はい」

「好きだ」

 千年間待った少女は。その言葉を聞いても、すぐには笑わなかった。ただ、涙が溢れた。

「遅いです」

「ごめん」

「千年遅いです」

 拓海は、反射的に出かかった言い訳を飲み込んだ。

「……うん」

 音姫は、ようやく泣きながら笑った。

「私も好きです」

「知ってる」

「千年前から」

「知ってる」

「世界で一番」

「それも知ってる」

「なあ、音姫」

「はい」

「さっき好きって言っただろ」

「はい」

「お前も好きって言ったよな」

「千年前から」

「じゃあ……付き合う、でいいか?」

 音姫が、泣きそうな顔になる。

「やっと、普通の順番ですね」

「千年かかったけどな」

「なら逃げないでください」

「もう逃げない」

 二人で箱に手をかけた。甲太郎が術式を起動する。病室が海のような青い光に包まれる。

「開けるぞ」

「はい」

「一緒に」

「はい」

 蓋が開いた。白い煙ではなかった。無数の光の粒が舞った。一粒一粒が、音姫の過ごした時間のように見えた。光の中に、拓海の知らない音姫がいた。雪の夜、年老いた拓海の母へ毛布を掛ける音姫。焼けた海岸で、灰まみれになりながら測量標を打ち直す音姫。初めて引き取った子供に髪を引っ張られ、本気で困った顔をする音姫。老人になったその子の枕元で、笑いながら泣く音姫。誰もいない部屋で拓海の古い録音を再生し、声が流れた瞬間に膝から崩れる音姫。

 竜宮城の門前で甲太郎に掴みかかり、泣き叫ぶ音姫。九百九十九年目の夜、海岸に椅子を一脚置き、朝まで座っている音姫。そのすべてが一瞬で流れていく。拓海は手を伸ばした。触れられない。過去だから。千年のどこにも、自分はいなかった。

「ごめん」

 光へ向かって言った。謝って消えるものではない。それでも、今の自分に言えるのはそれだけだった。そして最後に。千年前の音姫が映った。拓海の消えた海を見つめ、震えながら笑っている。

『待ちます』

 その声に、もっと古い記憶が重なった。夏祭りの人混みで、はぐれかけた幼い拓海の手首を、小さな音姫が必死に掴んでいる。

『離したら駄目ですよ、拓海くん』

 あの頃は、音姫が自分を離さなかった。千年後の今は。拓海は、隣にいる音姫の手を強く握り直した。

「……今度は、俺が離さない」

 光景が消える直前、現在の音姫の手が強く拓海の手を握り返した。過去には届かない。でも今には、触れられる。拓海は二度と離さなかった。戦争も、祭りも、雪も、海も、葬式も、誕生日も――千年分の景色が、最後の波のように病室を満たした。

「音姫!」

 光が彼女を包む。髪が揺れる。肌に亀裂のような光が走る。拓海は手を離さなかった。

「拓海くん」

「いる!」

「もし、私が」

「言うな!」

「もし」

「今ここにいる。手、離さない。だから戻ってこい!」

 音姫は目を閉じた。光が弾けた。静寂。拓海は恐る恐る目を開ける。ベッドの上。音姫がいる。変わらない姿。呼吸している。

「……音姫?」

 目が開く。

「拓海くん」

「……」

「そんな顔しないでください」

「生きてる?」

「たぶん」

 拓海は抱きしめた。音姫が固まる。

「た、拓海くん」

「よかった」

「今、抱きしめてます?」

「うるさい」

「記録していいですか」

「好きにしろ」

 甲太郎が咳払いした。

「成功じゃ」

 医師が恐る恐る計測器を確認した。

「時間流が……同期しています」

「日本語で」

「普通の人間と同じ速度で、細胞が時間を刻み始めています」

 音姫は自分の胸へ手を当てた。心臓の音を確かめるように。

「減ってる」

「何が?」

「残り時間です」

 拓海は一瞬、返事ができなかった。音姫は泣き腫らした目で笑った。

「嬉しいです」

 残り時間は、これから確実に減っていく。けれど同じ速さで生きられる時間は、今日から一日ずつ増えていく。音姫が欲しかったのは、永遠ではなく、その「増えていく方」だったのだ。永遠を失って笑う人間を、拓海は初めて見た。

「変なやつ」

「今さらですか」

「今さらだな」

 二人は手を握ったまま笑った。

 その夜から、音姫の人生には初めて「残り」が生まれた。そして同時に。初めて、拓海と同じ未来が生まれた。音姫の時間が。千年ぶりに、動き始めた。――今度は、拓海と同じ速さで。
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