呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません
第十五話 愛の言葉
暫くの間、どちらも口を開こうとはしなかった。緑の匂いが濃く滲んだ穏やかな夜気の中に、静謐な沈黙が落ちる。けれども不思議と、それを重たいとも、はたまた苦しいと思うこともフィオナはなかった。二人並んで、ただただ静かに夜空を眺める。煌々と輝く、小粒のダイヤのような星々に囲まれた、青白くまんまるとした大きな月を。どこからともなく、梟の鳴く声が聞こえてくる。小川のせせらぎも、夜風に揺られた草花のかさかさという小さな音も。
ふと視線を感じて顔を右へ向けると、そこにはやさしく綻んだ双眸があった。深く澄んだアイスブルーの瞳が、じっと、ただただじっと、フィオナの目を、顔を、見つめている。その愛おしい眼差しを受け止めながら、フィオナは言葉も声も、全て空気とともに喉の奥へと押し戻す。今はその瞳を、静かに見つめていたかった。いつまでもいつまでも。この一瞬が永遠になればいいな、と、心の底から思う。切実に。もし一瞬を切り取れる画家がいるのなら、正にこの瞬間こそキャンバスに描いてほしかった。そうすればこの一瞬は消えることがないし、キャンバスの中で、いつまでも永遠に見つめ合っていられるのだから。明日も明後日もこなくていい。ただこの瞬間がいつまでも続けば、それで――。
考えれば考えるほど、想えば想うほど、なんだか無性に泣きたくなった。子どものように声をあげて、或いは声もなく静かに。どちらでもよかった。ただ泣きたくて泣きたくてどうしようもなくて。それが顔に出てしまっていたのか、シリウスは困ったように苦笑すると、そっと持ち上げた右手をフィオナの頰へ近づけた。流れるような自然さで、多分きっと、無意識に。その動きに、フィオナはつい見惚れてしまった。何故だかは分からない。けれども少しずつ近づいてくる指先にまるで心奪われたように、フィオナはつい見入ってしまった。
そのせいで反応が送れてしまい、指先が鼻先にまできたところで我に返ったフィオナは、弾かれたように身を仰け反らす。触れればどうなってしまうか、シリウスはもちろん知っている。知っているのなら、本気で触れようとしたわけではないのだろう。けれどあの指先は――。きゅっと唇を引き結び、フィオナは困惑しながら目を伏せる。あの指先は、もしかしたら本当に触れようとしていたのかもしれない。フィオナの頰に、或いは他のどこかに。
「……触れられないというのは、実に苦しいものだな」
いつだったかと同じ台詞を呟き、シリウスは少しだけ悲しそうに目を細めた。そんな彼に、すぐにでも何か言葉を返さなければと急き立つものの、よい言葉が何も浮かばなくて、フィオナは力なく口籠る。触れてほしくないわけではない。でも、触れてほしくはない。相反した想いが胸の中でぐちゃぐちゃにぶつかって、だからとても心が痛い。
そんな彼女から顔を背け、シリウスはティーカップを角材の上に置くと、ぐっと伸びをしてからすっくと立ち上がった。
「そろそろ帰るとするか。アレンが半べそをかいているかもしれないからな」
くすくすと笑って、のんびりと休んでいる愛馬のもとへ歩んでいくシリウスのあとを、フィオナは数歩遅れてついてゆく。指先から逃げたことを怒っているかもしれない、不快に思ったのかもしれない。そう不安に思うものの、それ以上の恐怖が、身体中を駆け巡る。魔獣。討伐。前線――。何故あの一瞬を、切り取ることが出来ないのだろう。明日がこなければ、明後日がこなければ、彼が危険な地へ赴くことはないのに。魔獣を討伐しなければ、危険に晒され不安な日々を送る人々がいるというのに。それは分かっているのに。そして彼が最も大事にしているのが、何より優先にしているのが、民の幸せと平穏だと、理解しているというのに。
道の半ばで立ち止まり、フィオナは小刻みに震える両手を、ぎゅっ、と胸の前で握り合わせる。怖かった。ただただ恐ろしかった。不安でたまらず、顔がくしゃりと歪んでしまう。主人の戻りを喜ぶ愛馬の鼻息も、木から手綱を外す音も聞こえていながら、フィオナは足元に落とした視線を上げることが出来ない。自分に出来ることは全てやった。治療薬も調薬が進んでいるようだし、悪夢に対応する為のそれもある程度の量仕上がってもいる。あとは待つことしか出来ない。信じ、待つことしか――。けれどそうすることしか出来ないのが、歯痒くてたまらなかった。たとえば魔法で、魔獣を討伐することが出来るなら。大昔の、偉大な大魔法使いがそうしたように。そんな強い力がもしあったならば――。
「頼むから、そんな顔をしないでくれ」
呆れとも心配ともとれる声に促され、フィオナはゆるゆると顔を上げる。数歩先に、純白の愛馬を連れたシリウスが、困惑したふうに眉を下げて、苦笑をこぼしながら立っていた。そんな彼と、ぴたりと目が合う。シリウスはいつも、フィオナの目を真っ直ぐに捉える。どんな時でも。そうすることが大事なことであるみたいに。
「で、でも……」
「見たくないんだ。本当に。君の悲しそうな顔を見ると、どうしても――」
二人の間を、草花の濃密な香りを溶かした夜風が、ふわりと吹き抜けてゆく。その瞬間だけ、何故だか時がとまったような気がした。互いに互いの瞳を離さないように、離れないように、じっと見つめ合うこの瞬間だけが。月夜の青白い光で淡く――より白く――輝く白銀の髪の毛が微かに揺らめいていても。右耳からこぼれた横髪が、フィオナの頰にさらさらと触れても。それでもその瞬間だけは、時間がとまったような気がした。――と、ただそう思いたかっただけなのかもしれない。
シリウスは一拍おいて、それからふっと顔を綻ばせた。今まで見たどの笑顔よりもやさしく。
「――抱き締めたくなってしまうから」
鼓膜に触れたのは、とても寂しげな声だった。寂しげで、切実で、そして何かを必死に押し殺したような声。思わず胸が高鳴って、けれどもフィオナはすぐに、その高鳴りを冷たい水の中――しかも底なしの、真っ暗な穴の中――に突き落とす。さっさと醒めなければ、と、その一心で。どんなにときめいたって。どんなに嬉しくったって。彼と触れ合うことなど出来ないのだから。
「どうか、ご無事でお戻りくださいませ、殿下」
紡いだ言葉は、唇が震えていたせいで、微かに揺れていた。それでもシリウスの双眸を見つめる瞳には、しっかりと強い意思をこめ、彼の無事を心から願う。明日も明後日も、それから先も。シリウスに無事再会出来るまで、教会に通って神に祈ろう、とフィオナは思う。普段はそういうことなど殆どしないけれど。でも祈らずにはいられなかった。一人でするには耐えられそうにないので、誰かに縋りながら、彼の――そしてアレンや、他の騎士団員たちの――無事を祈ろう、と。
「ああ」と元気に頷いて、シリウスは愛馬に取り付けた鐙に足をかけようとして、しかしはたと動きをとめ、フィオナの方へ向き直る。そうして低く落ち着いたやわらかな声で
「フィオナ」
と、名前を呼んだ。夜風に攫われることも、溶けて消えることもなく、その声はしっかりとフィオナの耳へ届き、そのぬくもりが、鼓膜にじんわりと広がってゆく。大好きだな、と思った。そのあたたかな声音が。たまならなく愛おしい、とも。でも同時に、悲しくもあった。こんなに好きで好きでたまらなくても。こんなに心の底から愛していても。それでも決して彼の手を握ることもできなければ、彼との明るい未来を望むことも出来ない。好きになればなるほど辛いのに。愛すれば愛するほど苦しいのに。頭の中が、胸の中が彼でいっぱいになればなるほど切ないのに。
それなのに、どうして――。
「俺は君のことを、愛している」
無邪気な笑みを顔いっぱいに輝かせ、彼は何の躊躇いもなくきっぱりと、それでいてひどくやさしい声でそう告げた。とても溌剌とした笑顔だ、と思った。愛の言葉を紡いだとは思えないほど、まるで太陽のように明るく爽やかな笑顔。
それがなんとも彼らしいと思い、フィオナは小さく笑う。心臓が、どくどくと忙しなく鳴っている。鼓動は慌ただしく血潮を全身に送り出し、そのせいか、頰がぽかぽかとしてあたたかい。
泣けば良いのだろうか。喜べば良いのだろうか。手綱を握り締め、愛馬の頰を片手で撫でるシリウスのかんばせを真っ直ぐに見つめながら、フィオナは戸惑う。彼の言葉は、嬉しいに決まっている。こんなにも胸がときめいて、心臓がどくんどくんと鳴っていて、頰が――もしかしたら顔中が――ぽわっと火照っているのだから。嬉しい。けれども想いが通じ合ったところで、二人のその先に未来はないことを、フィオナは誰より一番よく理解している。身を以て味わったのだから。あの身を引き裂かれるような痛みを。そして何より彼は、この国の未来を背負う勇敢な王太子だ。王都の外れに棲む一介の魔女などとはあまりにも身分が違いすぎる。
それでも――それでも、今は。今だけは。フィオナは握り合わせた両手に少しだけ力をこめ、そうしてゆっくりと瞬く。色々と思うことはある。考えなければいけないことも、山のようにたくさん。悩まなければいけないだろう。その分、胸を痛めることにもなるだろう。それでも今だけは、彼の無事を祈ることだけに集中しよう、と思った。魔獣を倒し、彼が無事帰還することを必死に祈っていよう、と。
「次逢った時に返事を聞かせてくれ」
今度こそ鐙に足をかけ、シリウスはおどけたように白い歯を見せて笑った。
「まあ、良い返事以外を聞くつもりはないがな」
そう言って愛馬に跨がり、夜の森へ続く道を進んでゆく後ろ姿を見送りながら、フィオナは唇を噛み締める。本当は今すぐ泣きたかった。泣いて泣いて、胸いっぱいの苦しさと嬉しさをどうにかしたかった。けれども今は、その時ではないと自分自身を叱咤して、茂みの奥に消えた後ろ姿をまだ網膜に映したまま、フィオナはゆっくりと瞬く。嗚呼、どうか神様――。そう切実に祈りながら。神様にも、そして夜空にぽっかりと浮かぶ青いお月さまにも。
――けれども現実とは、なんと残酷なものなのだろう。神など存在しないのだ。或いは、神は無慈悲な存在なのだ、と。
その事実を、フィオナはまだ知る由もない。
ふと視線を感じて顔を右へ向けると、そこにはやさしく綻んだ双眸があった。深く澄んだアイスブルーの瞳が、じっと、ただただじっと、フィオナの目を、顔を、見つめている。その愛おしい眼差しを受け止めながら、フィオナは言葉も声も、全て空気とともに喉の奥へと押し戻す。今はその瞳を、静かに見つめていたかった。いつまでもいつまでも。この一瞬が永遠になればいいな、と、心の底から思う。切実に。もし一瞬を切り取れる画家がいるのなら、正にこの瞬間こそキャンバスに描いてほしかった。そうすればこの一瞬は消えることがないし、キャンバスの中で、いつまでも永遠に見つめ合っていられるのだから。明日も明後日もこなくていい。ただこの瞬間がいつまでも続けば、それで――。
考えれば考えるほど、想えば想うほど、なんだか無性に泣きたくなった。子どものように声をあげて、或いは声もなく静かに。どちらでもよかった。ただ泣きたくて泣きたくてどうしようもなくて。それが顔に出てしまっていたのか、シリウスは困ったように苦笑すると、そっと持ち上げた右手をフィオナの頰へ近づけた。流れるような自然さで、多分きっと、無意識に。その動きに、フィオナはつい見惚れてしまった。何故だかは分からない。けれども少しずつ近づいてくる指先にまるで心奪われたように、フィオナはつい見入ってしまった。
そのせいで反応が送れてしまい、指先が鼻先にまできたところで我に返ったフィオナは、弾かれたように身を仰け反らす。触れればどうなってしまうか、シリウスはもちろん知っている。知っているのなら、本気で触れようとしたわけではないのだろう。けれどあの指先は――。きゅっと唇を引き結び、フィオナは困惑しながら目を伏せる。あの指先は、もしかしたら本当に触れようとしていたのかもしれない。フィオナの頰に、或いは他のどこかに。
「……触れられないというのは、実に苦しいものだな」
いつだったかと同じ台詞を呟き、シリウスは少しだけ悲しそうに目を細めた。そんな彼に、すぐにでも何か言葉を返さなければと急き立つものの、よい言葉が何も浮かばなくて、フィオナは力なく口籠る。触れてほしくないわけではない。でも、触れてほしくはない。相反した想いが胸の中でぐちゃぐちゃにぶつかって、だからとても心が痛い。
そんな彼女から顔を背け、シリウスはティーカップを角材の上に置くと、ぐっと伸びをしてからすっくと立ち上がった。
「そろそろ帰るとするか。アレンが半べそをかいているかもしれないからな」
くすくすと笑って、のんびりと休んでいる愛馬のもとへ歩んでいくシリウスのあとを、フィオナは数歩遅れてついてゆく。指先から逃げたことを怒っているかもしれない、不快に思ったのかもしれない。そう不安に思うものの、それ以上の恐怖が、身体中を駆け巡る。魔獣。討伐。前線――。何故あの一瞬を、切り取ることが出来ないのだろう。明日がこなければ、明後日がこなければ、彼が危険な地へ赴くことはないのに。魔獣を討伐しなければ、危険に晒され不安な日々を送る人々がいるというのに。それは分かっているのに。そして彼が最も大事にしているのが、何より優先にしているのが、民の幸せと平穏だと、理解しているというのに。
道の半ばで立ち止まり、フィオナは小刻みに震える両手を、ぎゅっ、と胸の前で握り合わせる。怖かった。ただただ恐ろしかった。不安でたまらず、顔がくしゃりと歪んでしまう。主人の戻りを喜ぶ愛馬の鼻息も、木から手綱を外す音も聞こえていながら、フィオナは足元に落とした視線を上げることが出来ない。自分に出来ることは全てやった。治療薬も調薬が進んでいるようだし、悪夢に対応する為のそれもある程度の量仕上がってもいる。あとは待つことしか出来ない。信じ、待つことしか――。けれどそうすることしか出来ないのが、歯痒くてたまらなかった。たとえば魔法で、魔獣を討伐することが出来るなら。大昔の、偉大な大魔法使いがそうしたように。そんな強い力がもしあったならば――。
「頼むから、そんな顔をしないでくれ」
呆れとも心配ともとれる声に促され、フィオナはゆるゆると顔を上げる。数歩先に、純白の愛馬を連れたシリウスが、困惑したふうに眉を下げて、苦笑をこぼしながら立っていた。そんな彼と、ぴたりと目が合う。シリウスはいつも、フィオナの目を真っ直ぐに捉える。どんな時でも。そうすることが大事なことであるみたいに。
「で、でも……」
「見たくないんだ。本当に。君の悲しそうな顔を見ると、どうしても――」
二人の間を、草花の濃密な香りを溶かした夜風が、ふわりと吹き抜けてゆく。その瞬間だけ、何故だか時がとまったような気がした。互いに互いの瞳を離さないように、離れないように、じっと見つめ合うこの瞬間だけが。月夜の青白い光で淡く――より白く――輝く白銀の髪の毛が微かに揺らめいていても。右耳からこぼれた横髪が、フィオナの頰にさらさらと触れても。それでもその瞬間だけは、時間がとまったような気がした。――と、ただそう思いたかっただけなのかもしれない。
シリウスは一拍おいて、それからふっと顔を綻ばせた。今まで見たどの笑顔よりもやさしく。
「――抱き締めたくなってしまうから」
鼓膜に触れたのは、とても寂しげな声だった。寂しげで、切実で、そして何かを必死に押し殺したような声。思わず胸が高鳴って、けれどもフィオナはすぐに、その高鳴りを冷たい水の中――しかも底なしの、真っ暗な穴の中――に突き落とす。さっさと醒めなければ、と、その一心で。どんなにときめいたって。どんなに嬉しくったって。彼と触れ合うことなど出来ないのだから。
「どうか、ご無事でお戻りくださいませ、殿下」
紡いだ言葉は、唇が震えていたせいで、微かに揺れていた。それでもシリウスの双眸を見つめる瞳には、しっかりと強い意思をこめ、彼の無事を心から願う。明日も明後日も、それから先も。シリウスに無事再会出来るまで、教会に通って神に祈ろう、とフィオナは思う。普段はそういうことなど殆どしないけれど。でも祈らずにはいられなかった。一人でするには耐えられそうにないので、誰かに縋りながら、彼の――そしてアレンや、他の騎士団員たちの――無事を祈ろう、と。
「ああ」と元気に頷いて、シリウスは愛馬に取り付けた鐙に足をかけようとして、しかしはたと動きをとめ、フィオナの方へ向き直る。そうして低く落ち着いたやわらかな声で
「フィオナ」
と、名前を呼んだ。夜風に攫われることも、溶けて消えることもなく、その声はしっかりとフィオナの耳へ届き、そのぬくもりが、鼓膜にじんわりと広がってゆく。大好きだな、と思った。そのあたたかな声音が。たまならなく愛おしい、とも。でも同時に、悲しくもあった。こんなに好きで好きでたまらなくても。こんなに心の底から愛していても。それでも決して彼の手を握ることもできなければ、彼との明るい未来を望むことも出来ない。好きになればなるほど辛いのに。愛すれば愛するほど苦しいのに。頭の中が、胸の中が彼でいっぱいになればなるほど切ないのに。
それなのに、どうして――。
「俺は君のことを、愛している」
無邪気な笑みを顔いっぱいに輝かせ、彼は何の躊躇いもなくきっぱりと、それでいてひどくやさしい声でそう告げた。とても溌剌とした笑顔だ、と思った。愛の言葉を紡いだとは思えないほど、まるで太陽のように明るく爽やかな笑顔。
それがなんとも彼らしいと思い、フィオナは小さく笑う。心臓が、どくどくと忙しなく鳴っている。鼓動は慌ただしく血潮を全身に送り出し、そのせいか、頰がぽかぽかとしてあたたかい。
泣けば良いのだろうか。喜べば良いのだろうか。手綱を握り締め、愛馬の頰を片手で撫でるシリウスのかんばせを真っ直ぐに見つめながら、フィオナは戸惑う。彼の言葉は、嬉しいに決まっている。こんなにも胸がときめいて、心臓がどくんどくんと鳴っていて、頰が――もしかしたら顔中が――ぽわっと火照っているのだから。嬉しい。けれども想いが通じ合ったところで、二人のその先に未来はないことを、フィオナは誰より一番よく理解している。身を以て味わったのだから。あの身を引き裂かれるような痛みを。そして何より彼は、この国の未来を背負う勇敢な王太子だ。王都の外れに棲む一介の魔女などとはあまりにも身分が違いすぎる。
それでも――それでも、今は。今だけは。フィオナは握り合わせた両手に少しだけ力をこめ、そうしてゆっくりと瞬く。色々と思うことはある。考えなければいけないことも、山のようにたくさん。悩まなければいけないだろう。その分、胸を痛めることにもなるだろう。それでも今だけは、彼の無事を祈ることだけに集中しよう、と思った。魔獣を倒し、彼が無事帰還することを必死に祈っていよう、と。
「次逢った時に返事を聞かせてくれ」
今度こそ鐙に足をかけ、シリウスはおどけたように白い歯を見せて笑った。
「まあ、良い返事以外を聞くつもりはないがな」
そう言って愛馬に跨がり、夜の森へ続く道を進んでゆく後ろ姿を見送りながら、フィオナは唇を噛み締める。本当は今すぐ泣きたかった。泣いて泣いて、胸いっぱいの苦しさと嬉しさをどうにかしたかった。けれども今は、その時ではないと自分自身を叱咤して、茂みの奥に消えた後ろ姿をまだ網膜に映したまま、フィオナはゆっくりと瞬く。嗚呼、どうか神様――。そう切実に祈りながら。神様にも、そして夜空にぽっかりと浮かぶ青いお月さまにも。
――けれども現実とは、なんと残酷なものなのだろう。神など存在しないのだ。或いは、神は無慈悲な存在なのだ、と。
その事実を、フィオナはまだ知る由もない。