呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません

第十七話 毒

 神様なんていないのだ、と思った。神様なんていない。だからあんなに足繁く教会に通い、毎日毎日祈りを捧げても、それらは何の意味もなかったのだ。神様などいないのだから。ならばあの時、いったい誰がその祈りを聴いていたというのだろう。

 アレンからの報せを聞き、力の抜けた腕からバスケットが滑り落ちた。どさり、と大きな音を立てて。イチゴやアスパラや、にんじんや玉ねぎが、足元にごろごろと転がる。けれどもフィオナにはそれらをどうすることも出来なかった。そもそもバスケットがずり落ちたことも、新鮮な野菜やハーブたちが散らばっていることにも、彼女は気付かなかった。意識の中に、少しも入ってはこなかった。彼女が見えていたのは、苦しそうに歪んだアレンのかんばせと、悲哀に満ちたオリーブ色の瞳だけだった。否、そもそもそれらも見えていたかどうかすら、フィオナ自身にも分からない。色も音も、或いは世界の何もかもが、全て目の前から消え去ったような気がして、真っ暗闇の中にぽつんと佇むフィオナに、何かを見つめるということも、そこに映るものを理解することも、出来るはずがなかったのだから。

 神様なんて、この世には存在しないのだ。どんなに祈りを捧げても。存在しないものが、それを受け入れてくれるはずなどない。

 車窓の外を流れてゆく景色を見るともなく見つめながら、フィオナは膝の上で握り締めた両手に、ぎゅっと力をこめる。いつもと変わらない森、いつもと変わらない道、いつもと変わらない街、いつもと変わらない人々。騎士団所有の馬車のキャビンは、大人が四人乗っても十分に余裕のある大きさだったが、しかしアレンは自身の愛馬に跨がり、馬車の少し先を進んでいる。その後姿が、車窓の端に少しだけ映り込む。恐らくは気を遣ってくれたのだろう。心を落ち着かせ、思考を整える為の時間を作る為に。

 けれどもそんな彼のやさしさなど、まるで意味がなかった。そもそも心も思考も、何も狂ってはいないのだから。爆発だってしていない。ただただ静かに、身体の中にぽつんと浮かんでいるだけだ。或いはゆらりゆらりと揺蕩っている、ただそれだけ。何も考えられない、というのがきっと正しいのだろう、と、微かに震える瞼をゆっくりと閉ざしながらフィオナは思う。何も考えられないのだ。何も考えられないから、心は何も反応しない。アレンに会うまではあんなに身体中に蔓延っていた恐怖が、今は不思議なほど少しも感じられなかった。もしかしたら身体の端々に、そこにある小さな影の中に息を潜め身を隠しているのだろうとしても。それでも異様なほど、身体の中は、頭の中は、胸の中は空っぽだった。何を見ても、何を聞いても、何も感じない。空っぽだから何も感じないのだ。この世界にはきっと色も音も存在しないんだ、と、何故だかそんな気がした。

 堀に架かる跳ね橋をがたごとと音を立てながら通り過ぎ、馬車は城門塔を潜って道なりに進んでゆく。幾つもの塔を、幾つもの庭園を通り過ぎて、どんどんと。
 宮殿前の広場で馬車がとまり、開かれた扉からステップを踏んで降り立った時、フィオナは不意に、懐かしい香りを感じた。花のような、けれどももっとやさしい、陽だまりのような匂い。それが心の中を吹き抜け、膿んだ何かを疼かせる。

 先をゆくアレンの背中を追って王城へ足を踏み入れるのは、試験薬を持ってきたあの日以来のことだった。大理石製のエントランスを通り抜け、突き当りの扉から回廊へ出ると、一気に視界が明るく開け、フィオナは思わず目を細める。丁寧に手入れの施された中庭は、あの時と同じで、相も変わらずとても美しい。藤の花がたわわに咲いたパーゴラ、桃色の花がびっしりと絡みついたアーチ、均整に刈り込まれた灌木、道の両側いっぱいに植えられた純白の薔薇。

 それらを視界の外に追い遣るように目を背け、フィオナは前をゆくアレンの、広々として逞しい背中だけを見つめる。その視線に、もちろん彼は気付いているのだろうけれど。回廊を抜けても、その先に聳える建物に足を踏み入れても、彼は振り返ることも、声をかけてくることも、決してしなかった。

 重苦しい沈黙に包まれたまま絨毯の敷かれた階段を登り、燦々と降り注ぐ日差しでぼんやりと淡く光る廊下を真っ直ぐ突き進む。等間隔に配された四角い窓、金銀糸を織り込んだ分厚いカーテン、猫足をしたセピア色のゲリドン、その上に置かれた白磁の花瓶と大ぶりの白い薔薇。

「こちらです」

 白地に金装飾の施された豪華な扉の前で足をとめたアレンが、気遣わしげな目をしてフィオナを振り返る。恐らくここに――。そう思うけれど、何故だか緊張も恐怖も、何も感じなかった。心の準備が出来るように、と、アレンは少し時間を置いてくれたけれど、しかし何も感じない今のフィオナに、心の準備などまるで必要なかった。そもそもするものが心の中に存在しないのだから。ただの空洞を、果たしてどうしろというのだろう。

 けれどもそんなことはおくびにも出さずに、フィオナはアレンに目配せし、両開きの扉の片方をゆっくりと押し開いてもらう。途端に鼻先を掠めたのは、嗅ぎ慣れた薬品の臭いだった。医療所や、或いは調薬場でよく嗅ぐ、つんとした臭い。

 アレンに促され、フィオナはゆっくりとした足取りで室内へ足を踏み入れる。木目の美しい艷やかな床、白一色で統一された清らかな壁、金縁で囲われた大きな姿見、白い支柱に白鳥が象られた洗面台。臙脂のソファ、細かな彫り込みの施されたキャビネット、蓋が開かれ書類が積み置かれたままの重厚なライティングビューロー。

 部屋の中央の壁沿いに、大きなベッドが一つ置かれていた。しっかりとした四本の支柱に支えられた、天蓋付きのベッド。その傍らには騎士団員と思われる男と、白衣を着た老齢の男が、それぞれ重々しい表情で立っていた。医者と思しき男の眉間には、深い皺がくっきりと刻まれている。手には分厚い本を抱えているが、何かしら治療をしている様子はまるでない。

「連れて参りました」

 アレンの一声で、二人は弾かれたように顔を上げる。まず最初に目が合ったのは老齢の医者で、次いで隣に立つ年若い団員の男が、縋るような眼差しでフィオナを見た。

「……彼女で、最後かな」
「ええ」

 医者の問いに、アレンは小さな声で短く答える。“最後”とは何のことを指しているのか、無論フィオナにはまるで分からない。けれどフィオナは、それを確かめることはしなかった。そうするだけの気力が、今の彼女には微塵もなかった。

 足を踏み出したアレンの一歩後ろを、フィオナは力のない足取りでよろよろとついてゆく。歩いているという感覚は、殆どなかった。ただ身体が勝手に動き、アレンの背中を追うという、ただそれだけ。医者と団員が何かを話しているが、フィオナの耳には届かない。聞こえないのではなく、全てがすり抜けてゆくのだ。言葉を理解するよりも先に。それは殆ど聞こえていない、聞いていないのと同じだった。

 ベッドの傍でアレンが足をとめ、そうして一歩だけ横に身体をずらす。そのせいで、今まで彼の大きな背中によって遮られていた景色が、否が応にもフィオナの視界に飛び込んできた。幾つもの大きな枕、清潔そうな真っ白いシーツ、ふかふかとしたあたたかそうなデュベ、そして――。

 眠っていた。静かに。まるで人形のように。彼は仰向けに横になったまま、静かに瞼を閉ざしていた。

 その姿を認めた瞬間、フィオナは力なくその場に崩折れそうになり、慌ててベッドに手をついた。足元から世界が瓦解してゆく音が聞こえるような気がする。轟々とした、激しい、まるで悪魔の嘲笑のような音が。

 アレンが気を利かせ、目配せ一つで医者と団員を部屋の外へと引き下がらせる。ぱたん、と控えめな音を立てて扉が閉じられた後はもう、ただただ静寂だった。薬品の臭いと沈黙だけが満ちる、広い部屋。それを重苦しいとは思わなかった。思うだけの余裕などフィオナにあるはずがなかった。

「……部下を庇って、その時に、腕に傷を負ってしまったのです」

 ベッドの上に横たわるシリウスの顔は、青白かった。もとから色白ではあるけれど、それ以上に青く、そして生気がない。苦しいのか、眉間には僅かに皺が寄り、血色のない頰に薄っすらと汗が浮かんでいる。

 デュベの上にのせられた左腕には、肩口から手首まで包帯が綺麗に巻かれていた。取り替えたばかりなのか、血の滲みは見当たらない。深いのか、それとも浅いのか。けれどもそのどちらであろうと関係がなかった。魔獣から受けた傷は、人間からつけられたそれとは何もかもがまるで違うのだから。

「最初は意識があったんです。出血をしていたので応急処置をして、フィオナ嬢からいただいた治療薬を飲んで……馬に乗って自力で王城へ戻ることは、出来ていたんです」

 けれども今、シリウスは臥せっている。生気のまるでない、青白い顔をして。両の瞼を閉ざして。意識がない状態で、横になっている。

 どこで倒れたのかなんて、そんなものはもうどうでもよかった。目の前にある現実が全てなのだから。止血をしたのに。治療薬を飲んだのに。それでもシリウスは目覚める気配がなく、傷の影響で苦しんでいる。

 いや、多分そうじゃない――。包帯に包まれた腕を凝視しながら、フィオナは苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら思う。多分そうではないのだ。彼が苦しんでいるのは、“傷”そのものではない。それを、あの医者は分かっていたはずだ。彼が苦しんでいるのは“傷”そのものなんかよりももっと厄介な、対魔獣において最も恐ろしく最も警戒しなければならない――

「……医者は、恐らく魔獣の“毒”の影響だろう、と言っていました」
< 17 / 27 >

この作品をシェア

pagetop