呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません
第二十二 夢の中の女たち
夕刻の約束は、案の定アメリアとの婚約についての話だった。
もちろん王太子としての責任は自覚している。王太子妃を迎え、そして世継ぎを立派に育て上げるのは、王太子として、そしてエルヴァイン一族の人間としての務めだ。ゆくゆくはそうしなければならないということも、もちろん理解している。その相手がアメリアであろうとなかろうと。貴族社会は基本的に政略結婚が殆どだ。
けれどもまだその時ではない、と、国王をひとまず納得させるのには、随分と時間が要った。昏睡状態から覚めて、まだひと月。執務にすら本格的に復帰出来ていない状態で、それらよりも先に婚約の話を進めるのは早計だ、と。先ずは執務へ復帰するのが最優先でしょう、と。何度も何度もそれを――時には違う言い回しをして、諄々と――告げることで、どうにか静めることが出来た。恐らく今頃アメリアも、公爵に対して同じことをしているのだろう。そう思うと同情とともに辟易ともし、執務室の扉を締めた瞬間、執事がいるにもかかわらず、シリウスは疲労の皺を眉間に刻みながら、深々と溜息を吐き出していた。
話し合いが予定よりも長引いてしまったせいで夕食が遅れ、シリウスが厩舎に着いた時には既に陽は殆ど沈みかかっていた。すぐそこまで夜は迫っている。そう思いながら、オフホワイトの壁をした半円形の建物に足を踏み入れ、殆ど窓のない、けれどその代わり鉄柵の扉がつけられた馬房が幾つも並んでいる廊下を進む。アーチ型に曲がった天井、所々にぶら下げられた錬鉄製のランプ、馬の名前を記したプレート、一歩踏み出す度静謐な室内に響き渡る靴音。
敷き詰められた藁の上に大きな身体を横たえて眠っている黒毛の牝馬、桶いっぱいに入れられた飼葉を食む雄馬。動物特有の匂いと、息遣いと、そしてぬくもりに満ちたその廊下を最奥まで進むと、そこには一際立派な柵の取り付けられた大きな馬房があった。入口の頭上に取り付けられたプレートには、“ヴァルト”と彫り込まれている。
鉄柵に取り付けられた錠を専用の鍵で解きながら中の様子を覗うと、馬房の奥に取り付けられた小さな窓の傍に佇む一頭の馬と目が合った。分厚い筋肉が隆起した大きな身体、それに比して細いけれどしっかりとした四本の足、ふさふさとしてやわらかそうな尻尾。窓から差し込む光を浴びたその姿は実に美しく、艷やかな白い毛並みがきらきらと輝いているようにさえ見えた。
錠を開けるシリウスの姿を認め、ヴァルトは尻尾を高く上げて振りながら、嬉々とした様子で足早に歩み寄ってくる。今年で五歳を迎える雄馬の彼は、王城併設の厩舎――主に王族所有の馬や騎士団の馬を飼育している――で産まれ、半年経つか否かの頃、シリウスの専属の馬としての任を受けた。それまで仮の名で呼ばれていた白馬に、“ヴァルト”という名前をつけたのは、シリウスである。以降、ヴァルトは彼にとって良き相棒のひとりとなった。アレンと同じくらい気の置けない親しい友のひとり。
「夕空を眺めていたのか?」
目を細め、鼻を擦り寄せてくるヴァルトの凛々しい顔を、シリウスはやさしく微笑みながら撫でてやる。熟練の厩務員が「まるで人間のよう」と称えるほど彼は賢く、そしてとても感情豊かな馬だ。機嫌が悪い時には、どの厩務員も一切寄せ付けない。けれどもひとたびシリウスの姿が目に留まると、彼は途端に上機嫌になり、黒曜石のような円な瞳をきらきらと輝かせる。そんな彼が愛らしく、会いに来る度甘やかしているのだが、そのせいで「程々にしてください」と厩務員に言われてしまったことを、彼の立派なたてがみを撫でているこの瞬間に、シリウスはふと思い出す。
「なあ、ヴァルト」
引き締まった両頬に手を添え、シリウスは混じり気のない真っ黒な瞳を真っ直ぐに見つめる。その素直で清廉な瞳を、シリウスはとても美しいと思う。愛馬故の贔屓目が多分に入っているとしても。
「どうやら俺は、“誰か”を探しているらしい」
窓から差し込む陽を浴びて淡く輝く白い頰を撫でながら、ヴァルトに語りかけるように囁く。そうしてシリウスはそっと顔を近付けると、滑らかな鼻梁に額を擦り寄せた。肌にじんわりと広がる、やさしいぬくもり。そのあたたかさに安らぎを感じながら、シリウスはゆっくりと瞼を閉ざす。
馬に人語が通じるわけがない、と、そう嘯く者は多い。所詮相手は“馬”という動物なのだから、と。人の言葉なんて理解するわけがない、と。確かにそれはそうだろう、とシリウスも思う。けれども、だからといって馬が何も理解していないというわけでは、決してない。彼らはきちんと感じ取り、そして理解している。ただ感じ取る術が“人語”ではないだけだ。人間の表情、声音、或いは身振り。動物は、人間以上に観察眼に優れた生き物だ。ほんの些細な声音の違いから、相手が怒っているのか、或いは喜んでいるのかを敏感に察することなど容易に出来るだろう。特に賢い馬であればあるほど。
少なくとも――他の馬はどうか知らないが――ヴァルトには必ず通じている、と、シリウスは確信している。“心が繋がっている”という気がするし、そうとしか思えない出来事が今までに幾度もあった。
だから、今回もきっと――。静かに瞼を上げ、ゆっくりと顔を離しながらシリウスは思う。だから今回もきっと、彼なら分かってくれるだろう。理解してくれるだろう。そして必ず答えへ導いてくれるはずだ。
黒曜石のような瞳を見つめ、シリウスは穏やかに微笑む。気の置けない相棒を、そんな彼と繋がった心を、固く信じて。
「だから、連れていってくれないか。――俺が探している、その“誰か”のもとへ」
***
夢を見た。とても悲しい夢を。
鈍色の分厚い石を積み上げて造られた、まるで牢獄のような冷たい部屋だった。壊れかけの木箱。鉄格子の嵌められた明り取り用の小さな窓。無造作に置かれた藁の束。穴の空いた小さな桶。古びたテーブルのようなものの上に置かれた小さな燭台が、弱く頼りなげな光で、その周辺だけを――そこにいる二人の女を、ぼんやりと照らしている。何も敷かれていない冷たい床に力なく倒れている女と、そんな彼女の髪をやさしく撫ぜている女。
「貴女のせいなのでしょう?」
床に伏したまま微動だにしない女が、か細い声をこぼす。それは問いかけるような口調であったが、しかし、ほぼ断定するような声音だった。傍らにいる女は、何も答えない。ただただ何度も手を往復させ、倒れている女の、やわらかなテラコッタ色の髪を撫で続ける。
「彼は忘れてしまったわ。私のことを全部。何もかも」
絞り出された声は、悲痛に濡れていた。それでも傍らの女は手をとめることも、言葉を返すこともない。けれども僅かに睫毛の伏せられた彼女の目元には、憂いを含んだ影が静かに滲んでいる。
「貴女のせいなのでしょう? 彼が私を忘れてしまったのは」
返事がないと分かっていても、それでも冷たい床の上で、女は言葉を紡ぎ続ける。今にも消え入りそうな、微かに震えた力のない声で。何度も、何度も。貴女のせいでしょう、と。彼は私を忘れてしまったの、と。何もかも、全部。共に過ごした時間も、大切に育んだ想いも、何もかも。
「……ごめんなさい」
少しの沈黙の後、漸く傍らの女が口を開いた。ブロンズ色の丸い瞳で、精気を失くして横たわる女の横顔を切なげに見つめながら。
「こうするしかなかったのよ」
諦念の滲んだ声だった。諦念の滲んだ、それでいてとてもやさしい落ち着いた声。床に散ったテラコッタ色の髪の毛を片手で一房掬い上げ、艶のある表面を、女は愛おしげに指の腹で撫ぜた。
「でもね、だから私は、復讐することにしたの」
ほっそりとした白いかんばせに微笑を湛え、女はゆっくりと上体を倒して、床に伏したままの女の美しい顔に頰を寄せる。魂の抜けた人形のようにびくともしない華奢な体を抱き締めるように覆いながら。そうして彼女は、ブロンズ色の瞳で何かを――ここにはない、どこか遠くにあるものを――見つめるように目を細め、婉然と微笑んだ。
「だってこの呪いは、ある意味“王族”への――」
目が覚め、フィオナはぼんやりとした意識のまま、暫くの間白い壁を――そこに吊るされたポプリやドライフラワーを――ただ眺めていた。眠りから覚め、現実の世界に戻ってきたことは何となく分かるのに、何故かまだあの冷たく薄暗い部屋の中にいるような気がして、言いようのない何かが胸をざわつかせる。あの部屋の陰鬱な空気が、黴や埃の臭いが、彼女たちの声が、身体のそこここに生々しく残っている。べっとりとこびりつくようにして。
あれはいったい何だったのだろう。彼女たちはいったい誰なのだろう。
やがて意識がはっきりすると、フィオナはかぶりを振って、夢の残渣を追い出した。どうやらソファに腰掛けたまま眠ってしまっていたようで、身体のあちこちが固まり、特に腰の辺りがじんじんと鈍い痛みを訴えている。
なるべくゆっくりと立ち上がり、フィオナは両手を天井に突き出すようにしてぐっと伸びをする。窓の外へ目を向けると、既に日はとっぷりと暮れていた。青白い月明かりにやさしく照らされながら静かに眠る草花を暫し眺め、フィオナは小さく息をついて、徐ろにカーテンを閉める。朝食を摂って以来何も口にしていないけれど、お腹は少しも空いていなかった。最近はいつもそうだ。食事は、今や“食べ物を無理矢理胃に押し込む作業”と化している。
それでも以前よりかはだいぶましになった方だけれど、と、そう自嘲をこぼしながらフィオナはキッチンへ向かい、琺瑯製のケトルに水を注いで、紅茶を淹れる為のお湯を沸かす。小花の絵付けがされたティーカップ、同じ柄のソーサー、茶葉の入った黒色のキャニスター。
細い注ぎ口から湯気が登り、頃合いを見計らって火を消したフィオナは、その時にふと何かが土を踏むような音を聞いた。はたと動きを止め、フィオナは訝しげに首を傾げる。小さな石の粒が混じった土を踏む、何かの――多分それは、足音。壁に掛けた丸時計に目を向けると、時刻は疾うに宵の口を過ぎている。こんな時間にここを訪れる者はそうそういない。真昼ですら薄暗いあの鬱蒼とした森を、更に陰鬱とする夜に通ろうと考える人間も、そうするだけの勇気が振り絞れる人間もまたいないからだ。それが出来るのは、ある程度この森に慣れた者か、たとえ何かが――獣やお化けが――出たとしても対処出来る自信のある者だけである。
そういえばアレンからの手紙に、近々報酬を届けに人を向かわせる、と書かれてあったのをフィオナは思い出す。肉体も精神も鍛えられた騎士団員なら、あの森を恐れずにここまでやって来ることは十分に可能だろう。もしアレンからの指示を受けた団員であるならば、敢えて人目につかない時間を選んだということだろうか。“王族からの届け物”となると周りを気にする必要がある、と言われれば、理解出来なくもない。この辺にやって来るのは、たとえ真昼でも、純粋な好奇心と冒険心を抱いた子どもたちしかいないのだけれど。
きっと騎士団の誰かだろう、と、一度その考えが頭に浮かぶと、もうそうとしか思えなくて、フィオナは疑うことをやめた。火を消したことをちゃんと確かめ、そして一応姿見の前で身だしなみを軽く整えてから、玄関へと歩み寄る。外の足音は、確実に近づいていた。すぐそこにまで。微かだったその音は、今やもう、耳を欹てずとも明確に聞こえる。
お礼の手紙を認めるべきだろうか。手紙だけだと寂しいので、何か物も添えるべきだろうか。そんなことをあれこれと頭に過ぎらせながら、フィオナは施錠を解き、錬鉄製のノブに手をかけてゆっくりと扉を引き開く。隙間から少しずつ夜気が流れ込み、肌をやさしく撫ぜて通り過ぎていったそれは、花や草の匂いで満たされた室内の空気を攫い、微かにふるわせる。屋内からこぼれたあたたかな灯りと、満天の星空から降り注ぐ青白い月影が滲みあった玄関先は、まるでそこだけスポットライトが当てられているみたいにとても明るい。
そのまばゆい場所に、一人の男が立っていた。艷やかな髪の毛を、夜風に揺らめかせながら。ただ静かに、彼はそこに佇んでいた。
――その姿を瞳に映した瞬間、フィオナはひどく後悔した。覗き穴を確認もせず、無防備に扉を開けてしまったことを。
もちろん王太子としての責任は自覚している。王太子妃を迎え、そして世継ぎを立派に育て上げるのは、王太子として、そしてエルヴァイン一族の人間としての務めだ。ゆくゆくはそうしなければならないということも、もちろん理解している。その相手がアメリアであろうとなかろうと。貴族社会は基本的に政略結婚が殆どだ。
けれどもまだその時ではない、と、国王をひとまず納得させるのには、随分と時間が要った。昏睡状態から覚めて、まだひと月。執務にすら本格的に復帰出来ていない状態で、それらよりも先に婚約の話を進めるのは早計だ、と。先ずは執務へ復帰するのが最優先でしょう、と。何度も何度もそれを――時には違う言い回しをして、諄々と――告げることで、どうにか静めることが出来た。恐らく今頃アメリアも、公爵に対して同じことをしているのだろう。そう思うと同情とともに辟易ともし、執務室の扉を締めた瞬間、執事がいるにもかかわらず、シリウスは疲労の皺を眉間に刻みながら、深々と溜息を吐き出していた。
話し合いが予定よりも長引いてしまったせいで夕食が遅れ、シリウスが厩舎に着いた時には既に陽は殆ど沈みかかっていた。すぐそこまで夜は迫っている。そう思いながら、オフホワイトの壁をした半円形の建物に足を踏み入れ、殆ど窓のない、けれどその代わり鉄柵の扉がつけられた馬房が幾つも並んでいる廊下を進む。アーチ型に曲がった天井、所々にぶら下げられた錬鉄製のランプ、馬の名前を記したプレート、一歩踏み出す度静謐な室内に響き渡る靴音。
敷き詰められた藁の上に大きな身体を横たえて眠っている黒毛の牝馬、桶いっぱいに入れられた飼葉を食む雄馬。動物特有の匂いと、息遣いと、そしてぬくもりに満ちたその廊下を最奥まで進むと、そこには一際立派な柵の取り付けられた大きな馬房があった。入口の頭上に取り付けられたプレートには、“ヴァルト”と彫り込まれている。
鉄柵に取り付けられた錠を専用の鍵で解きながら中の様子を覗うと、馬房の奥に取り付けられた小さな窓の傍に佇む一頭の馬と目が合った。分厚い筋肉が隆起した大きな身体、それに比して細いけれどしっかりとした四本の足、ふさふさとしてやわらかそうな尻尾。窓から差し込む光を浴びたその姿は実に美しく、艷やかな白い毛並みがきらきらと輝いているようにさえ見えた。
錠を開けるシリウスの姿を認め、ヴァルトは尻尾を高く上げて振りながら、嬉々とした様子で足早に歩み寄ってくる。今年で五歳を迎える雄馬の彼は、王城併設の厩舎――主に王族所有の馬や騎士団の馬を飼育している――で産まれ、半年経つか否かの頃、シリウスの専属の馬としての任を受けた。それまで仮の名で呼ばれていた白馬に、“ヴァルト”という名前をつけたのは、シリウスである。以降、ヴァルトは彼にとって良き相棒のひとりとなった。アレンと同じくらい気の置けない親しい友のひとり。
「夕空を眺めていたのか?」
目を細め、鼻を擦り寄せてくるヴァルトの凛々しい顔を、シリウスはやさしく微笑みながら撫でてやる。熟練の厩務員が「まるで人間のよう」と称えるほど彼は賢く、そしてとても感情豊かな馬だ。機嫌が悪い時には、どの厩務員も一切寄せ付けない。けれどもひとたびシリウスの姿が目に留まると、彼は途端に上機嫌になり、黒曜石のような円な瞳をきらきらと輝かせる。そんな彼が愛らしく、会いに来る度甘やかしているのだが、そのせいで「程々にしてください」と厩務員に言われてしまったことを、彼の立派なたてがみを撫でているこの瞬間に、シリウスはふと思い出す。
「なあ、ヴァルト」
引き締まった両頬に手を添え、シリウスは混じり気のない真っ黒な瞳を真っ直ぐに見つめる。その素直で清廉な瞳を、シリウスはとても美しいと思う。愛馬故の贔屓目が多分に入っているとしても。
「どうやら俺は、“誰か”を探しているらしい」
窓から差し込む陽を浴びて淡く輝く白い頰を撫でながら、ヴァルトに語りかけるように囁く。そうしてシリウスはそっと顔を近付けると、滑らかな鼻梁に額を擦り寄せた。肌にじんわりと広がる、やさしいぬくもり。そのあたたかさに安らぎを感じながら、シリウスはゆっくりと瞼を閉ざす。
馬に人語が通じるわけがない、と、そう嘯く者は多い。所詮相手は“馬”という動物なのだから、と。人の言葉なんて理解するわけがない、と。確かにそれはそうだろう、とシリウスも思う。けれども、だからといって馬が何も理解していないというわけでは、決してない。彼らはきちんと感じ取り、そして理解している。ただ感じ取る術が“人語”ではないだけだ。人間の表情、声音、或いは身振り。動物は、人間以上に観察眼に優れた生き物だ。ほんの些細な声音の違いから、相手が怒っているのか、或いは喜んでいるのかを敏感に察することなど容易に出来るだろう。特に賢い馬であればあるほど。
少なくとも――他の馬はどうか知らないが――ヴァルトには必ず通じている、と、シリウスは確信している。“心が繋がっている”という気がするし、そうとしか思えない出来事が今までに幾度もあった。
だから、今回もきっと――。静かに瞼を上げ、ゆっくりと顔を離しながらシリウスは思う。だから今回もきっと、彼なら分かってくれるだろう。理解してくれるだろう。そして必ず答えへ導いてくれるはずだ。
黒曜石のような瞳を見つめ、シリウスは穏やかに微笑む。気の置けない相棒を、そんな彼と繋がった心を、固く信じて。
「だから、連れていってくれないか。――俺が探している、その“誰か”のもとへ」
***
夢を見た。とても悲しい夢を。
鈍色の分厚い石を積み上げて造られた、まるで牢獄のような冷たい部屋だった。壊れかけの木箱。鉄格子の嵌められた明り取り用の小さな窓。無造作に置かれた藁の束。穴の空いた小さな桶。古びたテーブルのようなものの上に置かれた小さな燭台が、弱く頼りなげな光で、その周辺だけを――そこにいる二人の女を、ぼんやりと照らしている。何も敷かれていない冷たい床に力なく倒れている女と、そんな彼女の髪をやさしく撫ぜている女。
「貴女のせいなのでしょう?」
床に伏したまま微動だにしない女が、か細い声をこぼす。それは問いかけるような口調であったが、しかし、ほぼ断定するような声音だった。傍らにいる女は、何も答えない。ただただ何度も手を往復させ、倒れている女の、やわらかなテラコッタ色の髪を撫で続ける。
「彼は忘れてしまったわ。私のことを全部。何もかも」
絞り出された声は、悲痛に濡れていた。それでも傍らの女は手をとめることも、言葉を返すこともない。けれども僅かに睫毛の伏せられた彼女の目元には、憂いを含んだ影が静かに滲んでいる。
「貴女のせいなのでしょう? 彼が私を忘れてしまったのは」
返事がないと分かっていても、それでも冷たい床の上で、女は言葉を紡ぎ続ける。今にも消え入りそうな、微かに震えた力のない声で。何度も、何度も。貴女のせいでしょう、と。彼は私を忘れてしまったの、と。何もかも、全部。共に過ごした時間も、大切に育んだ想いも、何もかも。
「……ごめんなさい」
少しの沈黙の後、漸く傍らの女が口を開いた。ブロンズ色の丸い瞳で、精気を失くして横たわる女の横顔を切なげに見つめながら。
「こうするしかなかったのよ」
諦念の滲んだ声だった。諦念の滲んだ、それでいてとてもやさしい落ち着いた声。床に散ったテラコッタ色の髪の毛を片手で一房掬い上げ、艶のある表面を、女は愛おしげに指の腹で撫ぜた。
「でもね、だから私は、復讐することにしたの」
ほっそりとした白いかんばせに微笑を湛え、女はゆっくりと上体を倒して、床に伏したままの女の美しい顔に頰を寄せる。魂の抜けた人形のようにびくともしない華奢な体を抱き締めるように覆いながら。そうして彼女は、ブロンズ色の瞳で何かを――ここにはない、どこか遠くにあるものを――見つめるように目を細め、婉然と微笑んだ。
「だってこの呪いは、ある意味“王族”への――」
目が覚め、フィオナはぼんやりとした意識のまま、暫くの間白い壁を――そこに吊るされたポプリやドライフラワーを――ただ眺めていた。眠りから覚め、現実の世界に戻ってきたことは何となく分かるのに、何故かまだあの冷たく薄暗い部屋の中にいるような気がして、言いようのない何かが胸をざわつかせる。あの部屋の陰鬱な空気が、黴や埃の臭いが、彼女たちの声が、身体のそこここに生々しく残っている。べっとりとこびりつくようにして。
あれはいったい何だったのだろう。彼女たちはいったい誰なのだろう。
やがて意識がはっきりすると、フィオナはかぶりを振って、夢の残渣を追い出した。どうやらソファに腰掛けたまま眠ってしまっていたようで、身体のあちこちが固まり、特に腰の辺りがじんじんと鈍い痛みを訴えている。
なるべくゆっくりと立ち上がり、フィオナは両手を天井に突き出すようにしてぐっと伸びをする。窓の外へ目を向けると、既に日はとっぷりと暮れていた。青白い月明かりにやさしく照らされながら静かに眠る草花を暫し眺め、フィオナは小さく息をついて、徐ろにカーテンを閉める。朝食を摂って以来何も口にしていないけれど、お腹は少しも空いていなかった。最近はいつもそうだ。食事は、今や“食べ物を無理矢理胃に押し込む作業”と化している。
それでも以前よりかはだいぶましになった方だけれど、と、そう自嘲をこぼしながらフィオナはキッチンへ向かい、琺瑯製のケトルに水を注いで、紅茶を淹れる為のお湯を沸かす。小花の絵付けがされたティーカップ、同じ柄のソーサー、茶葉の入った黒色のキャニスター。
細い注ぎ口から湯気が登り、頃合いを見計らって火を消したフィオナは、その時にふと何かが土を踏むような音を聞いた。はたと動きを止め、フィオナは訝しげに首を傾げる。小さな石の粒が混じった土を踏む、何かの――多分それは、足音。壁に掛けた丸時計に目を向けると、時刻は疾うに宵の口を過ぎている。こんな時間にここを訪れる者はそうそういない。真昼ですら薄暗いあの鬱蒼とした森を、更に陰鬱とする夜に通ろうと考える人間も、そうするだけの勇気が振り絞れる人間もまたいないからだ。それが出来るのは、ある程度この森に慣れた者か、たとえ何かが――獣やお化けが――出たとしても対処出来る自信のある者だけである。
そういえばアレンからの手紙に、近々報酬を届けに人を向かわせる、と書かれてあったのをフィオナは思い出す。肉体も精神も鍛えられた騎士団員なら、あの森を恐れずにここまでやって来ることは十分に可能だろう。もしアレンからの指示を受けた団員であるならば、敢えて人目につかない時間を選んだということだろうか。“王族からの届け物”となると周りを気にする必要がある、と言われれば、理解出来なくもない。この辺にやって来るのは、たとえ真昼でも、純粋な好奇心と冒険心を抱いた子どもたちしかいないのだけれど。
きっと騎士団の誰かだろう、と、一度その考えが頭に浮かぶと、もうそうとしか思えなくて、フィオナは疑うことをやめた。火を消したことをちゃんと確かめ、そして一応姿見の前で身だしなみを軽く整えてから、玄関へと歩み寄る。外の足音は、確実に近づいていた。すぐそこにまで。微かだったその音は、今やもう、耳を欹てずとも明確に聞こえる。
お礼の手紙を認めるべきだろうか。手紙だけだと寂しいので、何か物も添えるべきだろうか。そんなことをあれこれと頭に過ぎらせながら、フィオナは施錠を解き、錬鉄製のノブに手をかけてゆっくりと扉を引き開く。隙間から少しずつ夜気が流れ込み、肌をやさしく撫ぜて通り過ぎていったそれは、花や草の匂いで満たされた室内の空気を攫い、微かにふるわせる。屋内からこぼれたあたたかな灯りと、満天の星空から降り注ぐ青白い月影が滲みあった玄関先は、まるでそこだけスポットライトが当てられているみたいにとても明るい。
そのまばゆい場所に、一人の男が立っていた。艷やかな髪の毛を、夜風に揺らめかせながら。ただ静かに、彼はそこに佇んでいた。
――その姿を瞳に映した瞬間、フィオナはひどく後悔した。覗き穴を確認もせず、無防備に扉を開けてしまったことを。