呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません
第二十三 溢れ出す想い
大きな馬体に跨がり、手綱を握ったが、厩舎を出た後の行く先は、ヴァルトの赴くままに任せた。疾うに日は沈み、頭上には満天の星空が広がっている。幾つも鏤められた星々と、それらに囲まれ、まるで大地をやさしく見守るように明るく照らす大きな丸い月。
ヴァルトは裏門から出ると、ひと気の少ない道を選んで進んだ。カーテンの隙間から細く漏れるあたたかな灯り、道端で眠る野良犬や野良猫、薄闇の中でも色鮮やかな花弁がくっきりと目立つゼラニウム、バルコネットの手摺に残されたままの洗濯物。
ヴァルトの足取りには迷いがなかった。ほんの僅かも。そのことにシリウスは驚き、そして嬉しくもあった。やはり彼は理解している。言葉は通じなくとも、心はちゃんと繋がっているのだ。
久しぶりの散歩を楽しんでいるのか、ヴァルトはとてもご機嫌だった。大きな身体に喜びを漲らせているのが、触れた箇所からひしひしと伝わってくる。月夜に照らされて淡い光を帯びた白いたてがみが、とても美しい。それを見て、本当にそっくりですね、と彼女は――。
ぱちり、と目を瞬かせ、シリウスは徐ろに顔をあげる。今脳裏を過っていった言葉を反芻しながら。そっくり。彼女。――“彼女”とは、果たして誰のことなのだろう。思い浮かぶのはアメリアくらいだが、けれども何故だか“彼女”はアメリアではない、という気がした。ならばいったい、“彼女”とは誰のことだというのだろう。頭の中に詰まった記憶をあれこれと引っ張り出して探してみるけれど、それらしい人物の顔はひとつも見つからない。見つからないのに、けれど胸の中は懐かしさでいっぱいだった。その懐かしさは、シリウスの心を甘く締め付ける。その感覚は、温室で“それ”を見た時に覚えるものと殆ど同じだった。
“彼女”が誰であるのかも、心を締め付ける感情が何であるのかも、分からない。何も分からないまま、けれどヴァルトだけは迷いのない足取りで青白く色付いた夜道を進んでゆく。いつの間にか郊外へ出ていたようで、辺りには民家どころか小屋のようなものすら見当たらず、ただただ平坦な草むらだけが広がっている。濡れたように艷やかな緑色をした草、その中に時折交じる白や薄紫や桃色の小さな花たち。小さな石の粒を含んだ砂の道が、真っ直ぐに、草むらを切り分けるようにして伸びている。その先には、静かに佇む大きな森。種々雑多な木々が入り乱れるようにして茂っているせいで、それはまるで巨大な黒い塊のように見えた。
その入口まで辿り着いた時、シリウスの目に、なんともおかしなものが映り込んだ。恐らくは“看板”のつもりで立てられているのだろうが、看板というにはあまりにも貧弱な造りのそれには、拙い筆跡で“まじょのすむもり”と書かれている。まじょのすむもり。所々インクの掠れたその文字を、視線で辿るようにして読んだシリウスは、もう一度その文字を頭の中でゆっくりと繰り返す。まじょのすむもり。魔女の棲む森。一度では足りずにもう一度読み上げ、それからシリウスはふふっと小さく笑みをこぼした。何故だかとても愉快な気分がして。
看板の奥には、夜闇に包まれた陰鬱な森が大きく口を開けていた。そこへ吸い込まれるように伸びる一本道の先は真っ暗で、まるで奈落にでも繋がっているようだ、とシリウスは思う。こんな鬱蒼とした森に、しかもとっぷりと日が暮れた時間に足を踏み入れようなどと思う者は誰もいまい。けれどもヴァルトは、その大きな闇の中へ、躊躇うことなく進んでゆく。慌てることも、恐れることもなく。それどころかとても嬉しそうに。
森の中は案の定ひどい暗闇だった。枝木の隙間から細く差し込む月明かりが、道の所々を薄っすらと照らしてはいるけれど、ただそれだけでは先を見通すどころか足元を確かめるのにも殆ど役立たない。幸いにも馬は夜目が利くので、ヴァルトにはどこに何があるのか、はっきりと見えているだろう。
それにしても――。少しずつ闇に馴染んでゆく瞳で辺りを見回しながら、シリウスは思う。それにしても、どうしてこんなにも心穏でいられるのだろう、と。こんな陰鬱な森に、しかも夜に、従者を誰も連れず入り込んでいるというのに。普通であれば警戒し、神経を尖らせ、気が張り詰めることだろう。けれども今、シリウスの身体の中には、そういったものはまるで存在しなかった。ただあるのは妙な穏やかさだけ。それもすぐに真綿のようなあたたかい何かに包まれ、奥へ進めば進むほど心が浮き立ってゆく。ヴァルトが楽しげだからか、それとも、この先にあるものを自分が知っているからか――。
黒々とした茂みを抜け、一気に視界が明るく開けた瞬間、シリウスの中でそれは確信に変わった。
森の一部を丸く刳り貫いたような広く平らな場所を、青く冴えた月明かりが煌々と照らしている。瑞々しい緑色をした芝生、心地の良い夜風にそよぐ幾つもの白い花、緩くうねった小川、古めかしい小ぶりな井戸。それらを隅から隅まで見渡し、シリウスは思わず手綱を引いた。指示通りに足をとめたヴァルトの背中から飛び降り、そうしてシリウスはもう一度その青く長閑な景色を一望する。光の粒をいくつも浮かべた小川のせせらぎ、どこからともなく聞こえてくる虫の鳴き声。土の匂いがする。土と、水と、それからふくよかな緑の匂い。それらを肺いっぱいに吸い込むと、ふっ、と無意識に笑みがこぼれた。懐かしい――。初めて訪れた場所のはずなのに、昔からよく知っているような場所のような懐かしさと、“漸くここへ来れた”という感情が、胸の底から激しい勢いで、どっと込み上げてくる。知らない場所のはずなのに、知っているような気がする。そして、とても大切に思っていた場所のような気も。
感慨に浸っていると、ヴァルトが鼻先を擦り寄せてきた。まるで先へ促すように、彼は真っ白い鼻先で、シリウスの肩をやさしく押す。驚いて目を向けると、月影を浴びて輝く黒い瞳と視線が交わり、その健気な眼差しに、シリウスはそっと口元を綻ばせ、気の置けない相棒の白い頰をやさしく撫ぜてやった。
――“誰か”にお逢いしたいのであれば、お願いをすれば良いのですよ、殿下。
アメリアは言葉は正しかったのだ、と、そうつくづく思いながら、シリウスは再び青白い世界へと目を戻す。そんな彼の視線はたちまち、小道の先に建つ真壁造りの古い平屋へと吸い寄せられた。切妻屋根からはえた四角い煙突、小さな菱形の柵を嵌め込んだ窓、ランプが掲げられた玄関。漆喰の壁を這うようにして植わるブーゲンビリアの鮮やかなピンク色が、夜闇の中でもくっきりと浮かび上がっている。あそこに“魔女”が棲んでいるのだろうか。過去に取り残されたように古いあの平屋に。森の入口に立ててあった看板の通り、あそこには“魔女”が棲んでいるのだろうか。
それを確かめる為には、まずヴァルトの手綱をどこかの木枝に括り付けなければならない。――そう、頭では分かっているはずだというのに、足が勝手に動き出す。まるで全く別の生き物のように。芝生や花々に囲まれた小道を、ぐんぐんと進んでゆく。前へ前へ。そうすればそうするほどどんどんと気が急いてゆき、平屋へ近づけば近づくほど鼓動が早まってゆく。早く会いたくて。――会いたい? いったい誰に? 分からない。分からないけれど、その想いは一歩進むごとに膨れ上がり、それに突き動かされ、歩調はますます早まってゆく。ヴァルトを放置してきたが、振り返って彼の様子を確かめる余裕はまるでなかった。アイスブルーの瞳は、真壁造りの古い平屋に据えられたまま、そこから少しも動かない。逸らしたくなかった。逸らせるはずがなかった。
玄関先に辿り着き、シリウスは質素な造りの扉をじっと見つめる。小さな覗き穴のようなものはあるが、来訪を報せる為の呼び鈴やノッカーはどこにも見当たらない。扉の傍に取り付けられた錬鉄製のランプは灯りが消えている。けれど、窓を覆うカーテンの細い隙間から室内の明かりが僅かに漏れていたので、中に誰かがいるのは間違いない。扉の向こう側には、確かに人の気配のようなものが感じられる。
ノックをして報せよう。そう思いながら右手を上げかけたシリウスは、しかし、ガチャ、と錠の開く音を聞いてはたと動きを止めた。固く閉ざされていた古い扉が、ゆっくりと、軋んだ音を立てながら引き開かれてゆく。その様子を、シリウスはただ眺めていた。眺めていることしか出来なかった。あんなにも押し寄せていた感情の波がすうっとどこかへ引いていき、思考までもが働きをとめる。背後からやわらかな夜風が吹き抜け、少しずつ広がってゆく扉の隙間へ流れこんでゆく。室内から漏れるあたたかな色の光が、頭上から降り注ぐ月光と混じり合って足元に広がる。花の匂い。草の匂い。そして――。
扉の奥から人影が露わになった瞬間、ひときわ大きく心臓が跳ね上がった。その激しい動きに突き動かされたかのように、それまでしんと鎮まっていた感情の波が一気に押し寄せ、たちまち胸の中をいっぱいにする。思わず息を呑んだシリウスの眼前で、その人影は――ほっそりと華奢な身体にやわらかなワンピースを纏った女は、長く濃い睫毛に縁取られた目を大きく見開かせ、愕然とした面持ちでシリウスの顔を見上げていた。ただただじっと。まるで空に縫い止められてしまったみたいに微動だにせずに。
そんな彼女の瞳を見つめれば見つめるほど、胸が高鳴った。その瞳に見惚れれば見惚れるほど、勢いよく湧き上がった強い衝動が、激しく身体中を駆け巡る。初めて会った女のはずなのに。彼女が誰かなんて分からないのに。けれども何故か無性に、彼女に手を伸ばしたくてたまらなかった。手を伸ばし、そしてその華奢な身体を力いっぱい抱き締めたい、と。
ヴァルトは裏門から出ると、ひと気の少ない道を選んで進んだ。カーテンの隙間から細く漏れるあたたかな灯り、道端で眠る野良犬や野良猫、薄闇の中でも色鮮やかな花弁がくっきりと目立つゼラニウム、バルコネットの手摺に残されたままの洗濯物。
ヴァルトの足取りには迷いがなかった。ほんの僅かも。そのことにシリウスは驚き、そして嬉しくもあった。やはり彼は理解している。言葉は通じなくとも、心はちゃんと繋がっているのだ。
久しぶりの散歩を楽しんでいるのか、ヴァルトはとてもご機嫌だった。大きな身体に喜びを漲らせているのが、触れた箇所からひしひしと伝わってくる。月夜に照らされて淡い光を帯びた白いたてがみが、とても美しい。それを見て、本当にそっくりですね、と彼女は――。
ぱちり、と目を瞬かせ、シリウスは徐ろに顔をあげる。今脳裏を過っていった言葉を反芻しながら。そっくり。彼女。――“彼女”とは、果たして誰のことなのだろう。思い浮かぶのはアメリアくらいだが、けれども何故だか“彼女”はアメリアではない、という気がした。ならばいったい、“彼女”とは誰のことだというのだろう。頭の中に詰まった記憶をあれこれと引っ張り出して探してみるけれど、それらしい人物の顔はひとつも見つからない。見つからないのに、けれど胸の中は懐かしさでいっぱいだった。その懐かしさは、シリウスの心を甘く締め付ける。その感覚は、温室で“それ”を見た時に覚えるものと殆ど同じだった。
“彼女”が誰であるのかも、心を締め付ける感情が何であるのかも、分からない。何も分からないまま、けれどヴァルトだけは迷いのない足取りで青白く色付いた夜道を進んでゆく。いつの間にか郊外へ出ていたようで、辺りには民家どころか小屋のようなものすら見当たらず、ただただ平坦な草むらだけが広がっている。濡れたように艷やかな緑色をした草、その中に時折交じる白や薄紫や桃色の小さな花たち。小さな石の粒を含んだ砂の道が、真っ直ぐに、草むらを切り分けるようにして伸びている。その先には、静かに佇む大きな森。種々雑多な木々が入り乱れるようにして茂っているせいで、それはまるで巨大な黒い塊のように見えた。
その入口まで辿り着いた時、シリウスの目に、なんともおかしなものが映り込んだ。恐らくは“看板”のつもりで立てられているのだろうが、看板というにはあまりにも貧弱な造りのそれには、拙い筆跡で“まじょのすむもり”と書かれている。まじょのすむもり。所々インクの掠れたその文字を、視線で辿るようにして読んだシリウスは、もう一度その文字を頭の中でゆっくりと繰り返す。まじょのすむもり。魔女の棲む森。一度では足りずにもう一度読み上げ、それからシリウスはふふっと小さく笑みをこぼした。何故だかとても愉快な気分がして。
看板の奥には、夜闇に包まれた陰鬱な森が大きく口を開けていた。そこへ吸い込まれるように伸びる一本道の先は真っ暗で、まるで奈落にでも繋がっているようだ、とシリウスは思う。こんな鬱蒼とした森に、しかもとっぷりと日が暮れた時間に足を踏み入れようなどと思う者は誰もいまい。けれどもヴァルトは、その大きな闇の中へ、躊躇うことなく進んでゆく。慌てることも、恐れることもなく。それどころかとても嬉しそうに。
森の中は案の定ひどい暗闇だった。枝木の隙間から細く差し込む月明かりが、道の所々を薄っすらと照らしてはいるけれど、ただそれだけでは先を見通すどころか足元を確かめるのにも殆ど役立たない。幸いにも馬は夜目が利くので、ヴァルトにはどこに何があるのか、はっきりと見えているだろう。
それにしても――。少しずつ闇に馴染んでゆく瞳で辺りを見回しながら、シリウスは思う。それにしても、どうしてこんなにも心穏でいられるのだろう、と。こんな陰鬱な森に、しかも夜に、従者を誰も連れず入り込んでいるというのに。普通であれば警戒し、神経を尖らせ、気が張り詰めることだろう。けれども今、シリウスの身体の中には、そういったものはまるで存在しなかった。ただあるのは妙な穏やかさだけ。それもすぐに真綿のようなあたたかい何かに包まれ、奥へ進めば進むほど心が浮き立ってゆく。ヴァルトが楽しげだからか、それとも、この先にあるものを自分が知っているからか――。
黒々とした茂みを抜け、一気に視界が明るく開けた瞬間、シリウスの中でそれは確信に変わった。
森の一部を丸く刳り貫いたような広く平らな場所を、青く冴えた月明かりが煌々と照らしている。瑞々しい緑色をした芝生、心地の良い夜風にそよぐ幾つもの白い花、緩くうねった小川、古めかしい小ぶりな井戸。それらを隅から隅まで見渡し、シリウスは思わず手綱を引いた。指示通りに足をとめたヴァルトの背中から飛び降り、そうしてシリウスはもう一度その青く長閑な景色を一望する。光の粒をいくつも浮かべた小川のせせらぎ、どこからともなく聞こえてくる虫の鳴き声。土の匂いがする。土と、水と、それからふくよかな緑の匂い。それらを肺いっぱいに吸い込むと、ふっ、と無意識に笑みがこぼれた。懐かしい――。初めて訪れた場所のはずなのに、昔からよく知っているような場所のような懐かしさと、“漸くここへ来れた”という感情が、胸の底から激しい勢いで、どっと込み上げてくる。知らない場所のはずなのに、知っているような気がする。そして、とても大切に思っていた場所のような気も。
感慨に浸っていると、ヴァルトが鼻先を擦り寄せてきた。まるで先へ促すように、彼は真っ白い鼻先で、シリウスの肩をやさしく押す。驚いて目を向けると、月影を浴びて輝く黒い瞳と視線が交わり、その健気な眼差しに、シリウスはそっと口元を綻ばせ、気の置けない相棒の白い頰をやさしく撫ぜてやった。
――“誰か”にお逢いしたいのであれば、お願いをすれば良いのですよ、殿下。
アメリアは言葉は正しかったのだ、と、そうつくづく思いながら、シリウスは再び青白い世界へと目を戻す。そんな彼の視線はたちまち、小道の先に建つ真壁造りの古い平屋へと吸い寄せられた。切妻屋根からはえた四角い煙突、小さな菱形の柵を嵌め込んだ窓、ランプが掲げられた玄関。漆喰の壁を這うようにして植わるブーゲンビリアの鮮やかなピンク色が、夜闇の中でもくっきりと浮かび上がっている。あそこに“魔女”が棲んでいるのだろうか。過去に取り残されたように古いあの平屋に。森の入口に立ててあった看板の通り、あそこには“魔女”が棲んでいるのだろうか。
それを確かめる為には、まずヴァルトの手綱をどこかの木枝に括り付けなければならない。――そう、頭では分かっているはずだというのに、足が勝手に動き出す。まるで全く別の生き物のように。芝生や花々に囲まれた小道を、ぐんぐんと進んでゆく。前へ前へ。そうすればそうするほどどんどんと気が急いてゆき、平屋へ近づけば近づくほど鼓動が早まってゆく。早く会いたくて。――会いたい? いったい誰に? 分からない。分からないけれど、その想いは一歩進むごとに膨れ上がり、それに突き動かされ、歩調はますます早まってゆく。ヴァルトを放置してきたが、振り返って彼の様子を確かめる余裕はまるでなかった。アイスブルーの瞳は、真壁造りの古い平屋に据えられたまま、そこから少しも動かない。逸らしたくなかった。逸らせるはずがなかった。
玄関先に辿り着き、シリウスは質素な造りの扉をじっと見つめる。小さな覗き穴のようなものはあるが、来訪を報せる為の呼び鈴やノッカーはどこにも見当たらない。扉の傍に取り付けられた錬鉄製のランプは灯りが消えている。けれど、窓を覆うカーテンの細い隙間から室内の明かりが僅かに漏れていたので、中に誰かがいるのは間違いない。扉の向こう側には、確かに人の気配のようなものが感じられる。
ノックをして報せよう。そう思いながら右手を上げかけたシリウスは、しかし、ガチャ、と錠の開く音を聞いてはたと動きを止めた。固く閉ざされていた古い扉が、ゆっくりと、軋んだ音を立てながら引き開かれてゆく。その様子を、シリウスはただ眺めていた。眺めていることしか出来なかった。あんなにも押し寄せていた感情の波がすうっとどこかへ引いていき、思考までもが働きをとめる。背後からやわらかな夜風が吹き抜け、少しずつ広がってゆく扉の隙間へ流れこんでゆく。室内から漏れるあたたかな色の光が、頭上から降り注ぐ月光と混じり合って足元に広がる。花の匂い。草の匂い。そして――。
扉の奥から人影が露わになった瞬間、ひときわ大きく心臓が跳ね上がった。その激しい動きに突き動かされたかのように、それまでしんと鎮まっていた感情の波が一気に押し寄せ、たちまち胸の中をいっぱいにする。思わず息を呑んだシリウスの眼前で、その人影は――ほっそりと華奢な身体にやわらかなワンピースを纏った女は、長く濃い睫毛に縁取られた目を大きく見開かせ、愕然とした面持ちでシリウスの顔を見上げていた。ただただじっと。まるで空に縫い止められてしまったみたいに微動だにせずに。
そんな彼女の瞳を見つめれば見つめるほど、胸が高鳴った。その瞳に見惚れれば見惚れるほど、勢いよく湧き上がった強い衝動が、激しく身体中を駆け巡る。初めて会った女のはずなのに。彼女が誰かなんて分からないのに。けれども何故か無性に、彼女に手を伸ばしたくてたまらなかった。手を伸ばし、そしてその華奢な身体を力いっぱい抱き締めたい、と。