呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません
第二十四話 ちぐはぐ
どうして。何故ここに――。
浮かんでは弾けて消えてゆく疑問の残骸が、唇の合間からまろび出ることなく、フィオナの喉を滑り落ちてゆく。どうして。何故ここに――。乾いた喉に声がぺたりと貼り付いていて、うまく呼吸することが出来ない。息苦しいのは、でも、もしかしたら空気を吸い込めないからではなく、空気を受け止められるだけの余裕が身体のどこにもないからなのかもしれない、と、フィオナはまるで他人事のように頭の片隅で思う。或いは、身体と魂が繋がっていないせいで呼吸が届かず息苦しく感じるのかもしれない、とも。
ただただ呆然と立ち尽くし、目の前に佇む男の、美しいアイスブルーの瞳を見つめていることしか出来なかった。そこにある光景が、そこにあるものが、現実のものとはとても思えなかった。信じることが出来なかった。幻を見ているのだろうか? それとも、まだあの悪い夢の続きでも見ているのだろうか? 思考だけは妙に回る。回るくせに、手や足や顔や唇はちっとも動いてくれない。もちろん、宝石のような瞳にとらわれた眼も。まるで耳の中に心臓があるのではないかと思うほど、鼓動が煩くてたまらなかった。
時間がとまっていた。互いに見つめ合い、そうすること以外に何も出来ない二人の間だけ。さわさわと枝葉の擦れる音が聞こえ、虫の鳴き声が聞こえ、小川のせせらぎが聞こえ、扉から流れこんでくる夜風が頰を撫で――そこには確かに“時の流れ”を感じられるというのに、玄関に立ち尽くす二人を包む時間だけが、まるでその流れの外に追い遣られているみたいに、ぴたりととまっていた。そんなことがあるはずがない、と、分かってはいても。理解は出来ても、しかしフィオナにはそうとしか思えなかった。
「……こんな時間に、何かご用でしょうか」
だから、そう尋ねるまでに、実際にどれくらいの間があったのか、フィオナにはまるで分からない。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。或いはもっと長い時間だったかもしれず、でもその感覚はきっと、眼前に佇む男――シリウスもまた同じなのだろう、と思った。僅かに見開かれた目が、まるで我に返った瞬間のように見て取れたから。
久しぶりに会うシリウスは、討伐前に逢いに来てくれた時の彼と、全く何も変わっていなかった。月明かりに照らされて淡い光を帯びた白銀の髪の毛も、健康的で滑らかな白い肌も、くっきりと開かれた切れ長の目も、その中心で輝くアイスブルーの瞳も、形の整った唇も、何もかも。――「愛している」と告げてくれたあの時の、あの瞬間のシリウスそのままだ。
けれどもあの時の彼とは、あの瞬間の彼とは違うことを、フィオナは知っている。今目の前に立つシリウスは、確かに“シリウス・エルヴァイン”その人であるけれど、フィオナの記憶の中にある“シリウス・エルヴァイン”ではないのだ。あたたかな声音で名前を呼んでくれた彼は、やさしい眼差しで見つめてくれた彼はもう、どこにもいない。その事実が鋭い刃となって、フィオナの心に強く突き刺さる。人伝に聞く以上に、噂で耳にする以上に。心が痛くて痛くてたまらない。
「ここは殿下が来るような場所ではございません」
早くこの苦しみから解放されたかった。その為には嘗ての彼を――「愛している」と言ってくれた彼を――忘れる他になく、忘れる為には、今目の前に立っている男を遠ざけるしかない。ずっとずっと、はるか遠いところまで。そしてそれは多分、可能なはずだった。王都の中心部にある王城で生活をしているシリウスと、王都の外れの森に棲んでいるフィオナとでは、殆ど顔を合わせる機会はないのだから。さすがに王太子である彼の名前を耳にしないなんてことは出来ないので、そればかりは時間に身を委ね、心が疼かなくなるまで待つしかないと思っていたけれど。ただそれだけで済むはずだったのだ。フィオナの考えでは。それだけで済むはずだったのだ。
なのに、どうして――。震える唇を引き結び、フィオナはぎゅっと右手を握り締める。なのにどうして、こんなことになってしまったのだろう。何故、どうして。彼は今ここにいるのだろう。
「――君が、この森に棲んでいる“魔女”なのか?」
少しの沈黙を経て紡がれた問いに、フィオナの心臓がどくりと跳ね上がる。その言葉は、初めてシリウスがここを訪れた時に告げた言葉と、全く同じだった。こんな陰鬱とした森に、本当に“魔女”なんかが棲んでいるのだろうかと疑っていた頃の彼。訝しげに眉根を寄せ、でも心做しか楽しんでいるようにも見えたあの時の彼。
どっと押し寄せてきた膨大な懐かしさにフィオナはたじろぎ、そして返す為の言葉を見失う。
「森の入口に看板が立っていた。子どもは怖い物知らずだな」
途方に暮れるフィオナに追い打ちをかけるようにそう言って、シリウスはふふっとやさしく、そして楽しげに笑った。その笑顔があまりにも“嘗ての彼”そのもので、フィオナは無性に泣きたくなる。彼の頭の中にはもう、あの頃の記憶ははいのに。何故あの頃と同じ言葉を、こうも次から次へと紡ぐのだろう。恨めしかった。何も知らないくせに、と。何も憶えていないくせに、と。彼に怒りをぶつけるのは間違っていると分かっている。記憶がないのはシリウスのせいではない。全ては“忘却の呪い”のせいだと、それを受けてしまった自分のせいだと、他の誰よりフィオナ自身が一番理解している。理解しているけれど――。
「……お帰り下さい、シリウス殿下」
力なくこぼれ落ちた言葉に、シリウスが目を瞠る。声に滲んだ拒絶を感じ取ったからか、それとも別の何かを見抜いたからか。けれど彼がどんな反応をしようと、それがどんな理由によるものだったとしても、フィオナにはもうどうでもよかった。兎に角、早くこの状況をどうにかしたかった。この状況から逃げ出し、殻に閉じこもって全てを拒絶したかった。“嘗ての彼”を、“今の彼”を、そして“あの頃の彼はもういない”という現実の全てを。そうしないと、自分が自分でいられなくなるような気がした。ぐちゃぐちゃになって、このひと月頑張って取り繕ってきたものが、全て壊れてしまいそうな気が。
「お帰り下さい」
今度はきっぱりと、明確に拒絶をはらんだ声で告げ、フィオナはノブに手をかけた。帰らないのなら扉を閉めてしまえばいい。そう思った。壁を造り、それで身を、心を護って、彼がいずれ帰ってゆくのを待てばいい、と。
だから勢いよく扉を閉めようとしたのだけれど、それは彼の大きな手によって遮られてしまった。骨の張った、男らしい大きな右手によって。予想だにしていなかった反応にフィオナは唖然とし、ノブを握っていた手から思わず力が抜ける。その隙をついて、シリウスは半分閉じかけた扉を全開にし、そして至極真面目な瞳で、フィオナの双眸をとらえた。
「……もう一度、呼んでくれないか」
何と言われたのかすぐに理解が出来ず、フィオナはただ茫然としたまま、ゆっくりと瞬く。そんな彼女の様子に、シリウスは小さく苦笑をこぼしながら再び口を開いた。
「もう一度、呼んでくれないか。俺の名前を」
ひとつひとつがはっきりと聞き取れる、明瞭な声だった。明瞭で、それでいてまるで縋るような響きをもった声。彼が何を望んでいるのかを漸く呑み込んだフィオナは、慌ててかぶりを振り、真っ直ぐに向けられる瞳から逃げるように俯いた。握り締めた右手が、視界の端で、微かに震えている。
「……いや、です」
「何故だ?」
呼ぶわけにはいかなかった。彼の名前を呼ぶわけには。絶対に。無意識にこぼれるのと意識して紡ぐのとでは、全く違うのだから。呼んでしまえば、紡いでしまえば最後、心がどうなってしまうのかなんて、容易に想像が出来る。
「嫌です。出来ません」
突っぱねる声には殆ど力はなく、まるで意味をなさなかった。それでも拒まなければならず、遠ざけねばならず、もう一度、震える声を振り絞って「出来ません」と告げた瞬間、ぽたぽた、と、足先に小さな雫が落ちた。それは古い床板に沁みをつくり、どんどん数を増やしてゆく。次から次へと、絶え間なく。滲んだ視界に映るそれをじっと見つめ、フィオナは漸く、自分が泣いているのだと気が付いた。どうにか堪らえようと唇を噛み締めるけれど、その努力の甲斐もなく、唇の薄い隙間から引き攣った声がこぼれ落ちる。
「すまない。泣かせたかったわけでは――」
そう言いながら伸ばされた手が頰に近づき、フィオナは弾かれたように、びくり、と肩を跳ね上げた。刹那、シリウスの手がはたととまる。頰に触れる寸前で。気配を、そこに滲むぬくもりを感じ取れてしまいそうなほど近いところで。
今更彼に触れられても、失うものはもう何もない。強いて言うならば、“今”の記憶だけだ。それを失くしたとて、何が変わるというのだろう。今のシリウスにとって、フィオナは“初めて会う女”であり、“陰鬱な森に棲む謎の魔女”だ。その認識が残るか失くなるかの違いでしかない。――失うことを恐れる記憶も想いも、もう彼の中にはないのだから。
それでも、逃げなければ、と思った。すぐ傍にある指先から逃げなければ、と。彼のぬくもりを感じてしまったら、必死に押し殺そうとしていた想いが堰を切ったように溢れ出してしまう。それが、フィオナは恐ろしくてたまらなかった。このひと月、一生懸命堪え、目を逸らし、そうして“なかったこと”にしようとしていたのに。そうする為に涙を流したこともあれば、掌に爪が喰い込むほど強く拳を握ったこともある。過去に置き去りにされた心を抱え、ただひたすらもがいていた。もがき苦しんでいた。
ひと月――それだけの時間をかけて漸く、なんとか“日常生活”を取り繕うことが出来るようになったというのに。唇に歯を立て、嗚咽しながらフィオナは思う。漸くそこまで出来るようになったというのに。彼のぬくもりに触れてしまったら、このひと月の努力は全て水の泡となってしまう。
だから、逃げなければならない。彼の指先から。彼のぬくもりから。――そう頭では分かっているのに。警鐘が鳴り響いてもいるのに。意に反し、フィオナの身体はびくとも動かなかった。まるでその場に縫い止められてしまったみたいに、少しも。逃げなければ、と、気持ちばかりが急き、その矛盾にフィオナは戸惑う。ちぐはぐだ、と思った。頭と身体が全く別の生き物のようだ、と。泣きたくないのに涙がこぼれ続けることも、逃げたいのに足が全く動かないことも。ちぐはぐだから、どうにも出来ない。
「……そんな顔をさせたかったわけじゃない」
独り言のように呟かれた言葉を最後に、シリウスは口を閉ざした。大きな手がゆっくりと離れてゆき、そうして二人の間に沈黙が落ちる。重く息苦しい沈黙が、まるで分厚い隔たりのように。
浮かんでは弾けて消えてゆく疑問の残骸が、唇の合間からまろび出ることなく、フィオナの喉を滑り落ちてゆく。どうして。何故ここに――。乾いた喉に声がぺたりと貼り付いていて、うまく呼吸することが出来ない。息苦しいのは、でも、もしかしたら空気を吸い込めないからではなく、空気を受け止められるだけの余裕が身体のどこにもないからなのかもしれない、と、フィオナはまるで他人事のように頭の片隅で思う。或いは、身体と魂が繋がっていないせいで呼吸が届かず息苦しく感じるのかもしれない、とも。
ただただ呆然と立ち尽くし、目の前に佇む男の、美しいアイスブルーの瞳を見つめていることしか出来なかった。そこにある光景が、そこにあるものが、現実のものとはとても思えなかった。信じることが出来なかった。幻を見ているのだろうか? それとも、まだあの悪い夢の続きでも見ているのだろうか? 思考だけは妙に回る。回るくせに、手や足や顔や唇はちっとも動いてくれない。もちろん、宝石のような瞳にとらわれた眼も。まるで耳の中に心臓があるのではないかと思うほど、鼓動が煩くてたまらなかった。
時間がとまっていた。互いに見つめ合い、そうすること以外に何も出来ない二人の間だけ。さわさわと枝葉の擦れる音が聞こえ、虫の鳴き声が聞こえ、小川のせせらぎが聞こえ、扉から流れこんでくる夜風が頰を撫で――そこには確かに“時の流れ”を感じられるというのに、玄関に立ち尽くす二人を包む時間だけが、まるでその流れの外に追い遣られているみたいに、ぴたりととまっていた。そんなことがあるはずがない、と、分かってはいても。理解は出来ても、しかしフィオナにはそうとしか思えなかった。
「……こんな時間に、何かご用でしょうか」
だから、そう尋ねるまでに、実際にどれくらいの間があったのか、フィオナにはまるで分からない。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。或いはもっと長い時間だったかもしれず、でもその感覚はきっと、眼前に佇む男――シリウスもまた同じなのだろう、と思った。僅かに見開かれた目が、まるで我に返った瞬間のように見て取れたから。
久しぶりに会うシリウスは、討伐前に逢いに来てくれた時の彼と、全く何も変わっていなかった。月明かりに照らされて淡い光を帯びた白銀の髪の毛も、健康的で滑らかな白い肌も、くっきりと開かれた切れ長の目も、その中心で輝くアイスブルーの瞳も、形の整った唇も、何もかも。――「愛している」と告げてくれたあの時の、あの瞬間のシリウスそのままだ。
けれどもあの時の彼とは、あの瞬間の彼とは違うことを、フィオナは知っている。今目の前に立つシリウスは、確かに“シリウス・エルヴァイン”その人であるけれど、フィオナの記憶の中にある“シリウス・エルヴァイン”ではないのだ。あたたかな声音で名前を呼んでくれた彼は、やさしい眼差しで見つめてくれた彼はもう、どこにもいない。その事実が鋭い刃となって、フィオナの心に強く突き刺さる。人伝に聞く以上に、噂で耳にする以上に。心が痛くて痛くてたまらない。
「ここは殿下が来るような場所ではございません」
早くこの苦しみから解放されたかった。その為には嘗ての彼を――「愛している」と言ってくれた彼を――忘れる他になく、忘れる為には、今目の前に立っている男を遠ざけるしかない。ずっとずっと、はるか遠いところまで。そしてそれは多分、可能なはずだった。王都の中心部にある王城で生活をしているシリウスと、王都の外れの森に棲んでいるフィオナとでは、殆ど顔を合わせる機会はないのだから。さすがに王太子である彼の名前を耳にしないなんてことは出来ないので、そればかりは時間に身を委ね、心が疼かなくなるまで待つしかないと思っていたけれど。ただそれだけで済むはずだったのだ。フィオナの考えでは。それだけで済むはずだったのだ。
なのに、どうして――。震える唇を引き結び、フィオナはぎゅっと右手を握り締める。なのにどうして、こんなことになってしまったのだろう。何故、どうして。彼は今ここにいるのだろう。
「――君が、この森に棲んでいる“魔女”なのか?」
少しの沈黙を経て紡がれた問いに、フィオナの心臓がどくりと跳ね上がる。その言葉は、初めてシリウスがここを訪れた時に告げた言葉と、全く同じだった。こんな陰鬱とした森に、本当に“魔女”なんかが棲んでいるのだろうかと疑っていた頃の彼。訝しげに眉根を寄せ、でも心做しか楽しんでいるようにも見えたあの時の彼。
どっと押し寄せてきた膨大な懐かしさにフィオナはたじろぎ、そして返す為の言葉を見失う。
「森の入口に看板が立っていた。子どもは怖い物知らずだな」
途方に暮れるフィオナに追い打ちをかけるようにそう言って、シリウスはふふっとやさしく、そして楽しげに笑った。その笑顔があまりにも“嘗ての彼”そのもので、フィオナは無性に泣きたくなる。彼の頭の中にはもう、あの頃の記憶ははいのに。何故あの頃と同じ言葉を、こうも次から次へと紡ぐのだろう。恨めしかった。何も知らないくせに、と。何も憶えていないくせに、と。彼に怒りをぶつけるのは間違っていると分かっている。記憶がないのはシリウスのせいではない。全ては“忘却の呪い”のせいだと、それを受けてしまった自分のせいだと、他の誰よりフィオナ自身が一番理解している。理解しているけれど――。
「……お帰り下さい、シリウス殿下」
力なくこぼれ落ちた言葉に、シリウスが目を瞠る。声に滲んだ拒絶を感じ取ったからか、それとも別の何かを見抜いたからか。けれど彼がどんな反応をしようと、それがどんな理由によるものだったとしても、フィオナにはもうどうでもよかった。兎に角、早くこの状況をどうにかしたかった。この状況から逃げ出し、殻に閉じこもって全てを拒絶したかった。“嘗ての彼”を、“今の彼”を、そして“あの頃の彼はもういない”という現実の全てを。そうしないと、自分が自分でいられなくなるような気がした。ぐちゃぐちゃになって、このひと月頑張って取り繕ってきたものが、全て壊れてしまいそうな気が。
「お帰り下さい」
今度はきっぱりと、明確に拒絶をはらんだ声で告げ、フィオナはノブに手をかけた。帰らないのなら扉を閉めてしまえばいい。そう思った。壁を造り、それで身を、心を護って、彼がいずれ帰ってゆくのを待てばいい、と。
だから勢いよく扉を閉めようとしたのだけれど、それは彼の大きな手によって遮られてしまった。骨の張った、男らしい大きな右手によって。予想だにしていなかった反応にフィオナは唖然とし、ノブを握っていた手から思わず力が抜ける。その隙をついて、シリウスは半分閉じかけた扉を全開にし、そして至極真面目な瞳で、フィオナの双眸をとらえた。
「……もう一度、呼んでくれないか」
何と言われたのかすぐに理解が出来ず、フィオナはただ茫然としたまま、ゆっくりと瞬く。そんな彼女の様子に、シリウスは小さく苦笑をこぼしながら再び口を開いた。
「もう一度、呼んでくれないか。俺の名前を」
ひとつひとつがはっきりと聞き取れる、明瞭な声だった。明瞭で、それでいてまるで縋るような響きをもった声。彼が何を望んでいるのかを漸く呑み込んだフィオナは、慌ててかぶりを振り、真っ直ぐに向けられる瞳から逃げるように俯いた。握り締めた右手が、視界の端で、微かに震えている。
「……いや、です」
「何故だ?」
呼ぶわけにはいかなかった。彼の名前を呼ぶわけには。絶対に。無意識にこぼれるのと意識して紡ぐのとでは、全く違うのだから。呼んでしまえば、紡いでしまえば最後、心がどうなってしまうのかなんて、容易に想像が出来る。
「嫌です。出来ません」
突っぱねる声には殆ど力はなく、まるで意味をなさなかった。それでも拒まなければならず、遠ざけねばならず、もう一度、震える声を振り絞って「出来ません」と告げた瞬間、ぽたぽた、と、足先に小さな雫が落ちた。それは古い床板に沁みをつくり、どんどん数を増やしてゆく。次から次へと、絶え間なく。滲んだ視界に映るそれをじっと見つめ、フィオナは漸く、自分が泣いているのだと気が付いた。どうにか堪らえようと唇を噛み締めるけれど、その努力の甲斐もなく、唇の薄い隙間から引き攣った声がこぼれ落ちる。
「すまない。泣かせたかったわけでは――」
そう言いながら伸ばされた手が頰に近づき、フィオナは弾かれたように、びくり、と肩を跳ね上げた。刹那、シリウスの手がはたととまる。頰に触れる寸前で。気配を、そこに滲むぬくもりを感じ取れてしまいそうなほど近いところで。
今更彼に触れられても、失うものはもう何もない。強いて言うならば、“今”の記憶だけだ。それを失くしたとて、何が変わるというのだろう。今のシリウスにとって、フィオナは“初めて会う女”であり、“陰鬱な森に棲む謎の魔女”だ。その認識が残るか失くなるかの違いでしかない。――失うことを恐れる記憶も想いも、もう彼の中にはないのだから。
それでも、逃げなければ、と思った。すぐ傍にある指先から逃げなければ、と。彼のぬくもりを感じてしまったら、必死に押し殺そうとしていた想いが堰を切ったように溢れ出してしまう。それが、フィオナは恐ろしくてたまらなかった。このひと月、一生懸命堪え、目を逸らし、そうして“なかったこと”にしようとしていたのに。そうする為に涙を流したこともあれば、掌に爪が喰い込むほど強く拳を握ったこともある。過去に置き去りにされた心を抱え、ただひたすらもがいていた。もがき苦しんでいた。
ひと月――それだけの時間をかけて漸く、なんとか“日常生活”を取り繕うことが出来るようになったというのに。唇に歯を立て、嗚咽しながらフィオナは思う。漸くそこまで出来るようになったというのに。彼のぬくもりに触れてしまったら、このひと月の努力は全て水の泡となってしまう。
だから、逃げなければならない。彼の指先から。彼のぬくもりから。――そう頭では分かっているのに。警鐘が鳴り響いてもいるのに。意に反し、フィオナの身体はびくとも動かなかった。まるでその場に縫い止められてしまったみたいに、少しも。逃げなければ、と、気持ちばかりが急き、その矛盾にフィオナは戸惑う。ちぐはぐだ、と思った。頭と身体が全く別の生き物のようだ、と。泣きたくないのに涙がこぼれ続けることも、逃げたいのに足が全く動かないことも。ちぐはぐだから、どうにも出来ない。
「……そんな顔をさせたかったわけじゃない」
独り言のように呟かれた言葉を最後に、シリウスは口を閉ざした。大きな手がゆっくりと離れてゆき、そうして二人の間に沈黙が落ちる。重く息苦しい沈黙が、まるで分厚い隔たりのように。