閻魔様の恋カルテ~冷徹ドクターの秘密は恋のはじまり~
16 ゼロになる距離
「日下部さん」
「は……い」
顔を上げる。
思ったより近くに永緒先生の顔があった。
「嫌なら――拒絶してくれ」
身を乗り出してきた永緒先生の手が、髪に触れる。
「っ」
髪を梳くようにして耳を掠める。耳たぶに一瞬だけ触れた指はひやりとしていた。
「せん、せ」
「……嫌か」
「あ、あの指が……冷たくて」
「……っ」
何かに焦った様子の永緒先生に肩を抱かれる。
そのまま抱き寄せられて――唇が、触れた。
かさついた感触が押し当てられる。
びっくりして見開いたままの視界には、永緒先生のアップしか――ううん、眉間のシワが、よく見えた。
息が苦しくなって深く呼吸しようとすると、それを戒めるように永緒先生が追いかけてくる。
眼鏡のリムが頬にくい込んで避けようとすると、永緒先生は少しだけ唇を離して片手で眼鏡を外した。
あ、素顔。
見ようとすると、また距離がゼロになる。
後頭部に添えられていた永緒先生の指が首筋に降りてくる頃には、先程感じた冷たさはなくなっていた。
うなじを爪の背で撫でられて肩が震える。
ゆっくりと離された唇の合間で、永緒先生の唇が動いた。
「……冷たいわけでは、なさそうだ」
「……っ」
こくりと頷いたのは、声が出せそうになかったからだ。
薄明かりの下で、永緒先生は目を細める。
とくん、と鼓動が跳ねた。
初めて見る表情だった。
閻魔様モードの時とも、かぴのすけの話で緩む時とも、私がめちゃくちゃな話で困らせてる時とも違う。
男の人の、目をしていた。
「日下部さん、きみは――」
どうしよう。
急にこんなことになるなんて。
「……な、がお先生」
ようやく絞りだせた声は、自分のものとは思えないほどにか細い。
このままドアを押せば車から出られる。だけど、そんなことはできない。
だって、永緒先生の目が。こんなにも――。
ヴーッと何かが唸る音がした。
スマホの着信だ。
「え、あ、あれ? 私?」
慌ててバッグの中を探す私を永緒先生は制する。
「俺のだ」
言葉の通り、永緒先生が胸ポケットから取り出したスマホが着信を告げていた。
「……」
眉間のシワ、復活。
親指が少し画面の上をさまよってからアイコンをタップした。
着信が止まる。
「あ、あの、大切なお電話だったのでは」
「業務時間外だからいいんだ。後でかけ直す」
「あ、病院の……?」
「院長からだ」
なおさら早く出た方がいいのでは?
時間外にわざわざかけてくるなんて、緊急事態じゃないのだろうか。
「じゃ、じゃあ私、おいとましますね。送って頂いてありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして、そそくさとドアに手をかける。さっきあんなに躊躇していたのが嘘のようにドアはあっさりと開いて外に出られた。
「日下部さん」
「は、はい」
「その……」
下げた窓ガラス越しに永緒先生の言葉を待つ。
さっきのこと、どう受け止めればいいんだろうか。
私にだって言いたいことはあるけれど、何から言葉にしていいかわからない。
言い淀んでいる間に、また永緒先生のスマホが鳴った。本当に緊急事態かもしれない。
「……明日、お話しましょう」
「……ああ」
どこかほっとしたような、名残惜しいような。
お互いにそんな表情を浮かべて、私はマンションのエントランスに入った。何度か振り向きながら、まだ先生の車があるのを確認しつつ家に入る。
靴を脱ぐのももどかしく窓を開けて下を見れば、まだ永緒先生の車はそこにあった。
2回ランプを点滅させてから車が動き出す。
テールランプが見えなくなるまで見送って、そっと唇に触れた。
あの永緒先生が。
楠閣下の閻魔様が。
何か、決定的なことを言われたわけでもない。
私も先生も、もういい大人だ。
キスひとつで騒ぐほどのものでもないと言われてしまえばそれまで。
でも、あの真面目一辺倒な永緒先生が、戯れにそんなことをするだろうか?
そして、そんなことでかき乱されてしまうほどには、私の恋愛偏差値は大人仕様になっていない。
「まさか、口封じってやつ……?」
少女漫画で読んだ、ありきたりのシチュエーションに思い至った頃には、時計の針は私を置き去りにして進んでいた。
「は……い」
顔を上げる。
思ったより近くに永緒先生の顔があった。
「嫌なら――拒絶してくれ」
身を乗り出してきた永緒先生の手が、髪に触れる。
「っ」
髪を梳くようにして耳を掠める。耳たぶに一瞬だけ触れた指はひやりとしていた。
「せん、せ」
「……嫌か」
「あ、あの指が……冷たくて」
「……っ」
何かに焦った様子の永緒先生に肩を抱かれる。
そのまま抱き寄せられて――唇が、触れた。
かさついた感触が押し当てられる。
びっくりして見開いたままの視界には、永緒先生のアップしか――ううん、眉間のシワが、よく見えた。
息が苦しくなって深く呼吸しようとすると、それを戒めるように永緒先生が追いかけてくる。
眼鏡のリムが頬にくい込んで避けようとすると、永緒先生は少しだけ唇を離して片手で眼鏡を外した。
あ、素顔。
見ようとすると、また距離がゼロになる。
後頭部に添えられていた永緒先生の指が首筋に降りてくる頃には、先程感じた冷たさはなくなっていた。
うなじを爪の背で撫でられて肩が震える。
ゆっくりと離された唇の合間で、永緒先生の唇が動いた。
「……冷たいわけでは、なさそうだ」
「……っ」
こくりと頷いたのは、声が出せそうになかったからだ。
薄明かりの下で、永緒先生は目を細める。
とくん、と鼓動が跳ねた。
初めて見る表情だった。
閻魔様モードの時とも、かぴのすけの話で緩む時とも、私がめちゃくちゃな話で困らせてる時とも違う。
男の人の、目をしていた。
「日下部さん、きみは――」
どうしよう。
急にこんなことになるなんて。
「……な、がお先生」
ようやく絞りだせた声は、自分のものとは思えないほどにか細い。
このままドアを押せば車から出られる。だけど、そんなことはできない。
だって、永緒先生の目が。こんなにも――。
ヴーッと何かが唸る音がした。
スマホの着信だ。
「え、あ、あれ? 私?」
慌ててバッグの中を探す私を永緒先生は制する。
「俺のだ」
言葉の通り、永緒先生が胸ポケットから取り出したスマホが着信を告げていた。
「……」
眉間のシワ、復活。
親指が少し画面の上をさまよってからアイコンをタップした。
着信が止まる。
「あ、あの、大切なお電話だったのでは」
「業務時間外だからいいんだ。後でかけ直す」
「あ、病院の……?」
「院長からだ」
なおさら早く出た方がいいのでは?
時間外にわざわざかけてくるなんて、緊急事態じゃないのだろうか。
「じゃ、じゃあ私、おいとましますね。送って頂いてありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をして、そそくさとドアに手をかける。さっきあんなに躊躇していたのが嘘のようにドアはあっさりと開いて外に出られた。
「日下部さん」
「は、はい」
「その……」
下げた窓ガラス越しに永緒先生の言葉を待つ。
さっきのこと、どう受け止めればいいんだろうか。
私にだって言いたいことはあるけれど、何から言葉にしていいかわからない。
言い淀んでいる間に、また永緒先生のスマホが鳴った。本当に緊急事態かもしれない。
「……明日、お話しましょう」
「……ああ」
どこかほっとしたような、名残惜しいような。
お互いにそんな表情を浮かべて、私はマンションのエントランスに入った。何度か振り向きながら、まだ先生の車があるのを確認しつつ家に入る。
靴を脱ぐのももどかしく窓を開けて下を見れば、まだ永緒先生の車はそこにあった。
2回ランプを点滅させてから車が動き出す。
テールランプが見えなくなるまで見送って、そっと唇に触れた。
あの永緒先生が。
楠閣下の閻魔様が。
何か、決定的なことを言われたわけでもない。
私も先生も、もういい大人だ。
キスひとつで騒ぐほどのものでもないと言われてしまえばそれまで。
でも、あの真面目一辺倒な永緒先生が、戯れにそんなことをするだろうか?
そして、そんなことでかき乱されてしまうほどには、私の恋愛偏差値は大人仕様になっていない。
「まさか、口封じってやつ……?」
少女漫画で読んだ、ありきたりのシチュエーションに思い至った頃には、時計の針は私を置き去りにして進んでいた。