閻魔様の恋カルテ~冷徹ドクターの秘密は恋のはじまり~
17 楠閣下のお出まし
委員会は、身構えていたのが嘘のようにあっさり終わった。
だって私が発言したのは、永緒先生の紹介を受けての「補佐です。宜しくお願いいたします」の挨拶だけだったから。
悩んでいた時間のほうが長かった。
手元の資料は永緒先生が用意したものらしく、理路整然としたレポートが記述されている。
出席者にはお馴染みらしく、ぱらぱらと目を通すだけの人が多いのがなんだかもどかしかった。
あんなに忙しい毎日なのにこれだけの資料を作って……それがきちんと読まれもせずにシュレッダー行きなのは本当に惜しい。
自分の仕事でもないのにそう思ってしまう。
なら、せめて私だけはきちんと読み込んでおこう。それが永緒先生への礼儀であり、また補佐役としての第一歩だ。
そうやって過ごしているうちに、初めての委員会はあっさり散開したのだった。
「どうだった。緊張するようなものではなかっただろう」
「内容より出席者に緊張しましたよ……」
楠院長を筆頭に事務方、ベテラン看護師のお歴々方。資料の名前からもオーラが伝わってくるようで、私のような下っ端クラークには刺激が強かった。
会議が終わると臨床現場のスタッフは素早く退出したので、会議室に残っているのはそれ以外の面々だ。
事務長に会釈する永緒先生の横顔を見上げる。シャープな目元はまさに閻魔様の風格だ。
昨夜、薄暗い車内で垣間見たあのまなざしはどこにもない。
……あれは、どういうことだったんだろう。
今は仕事だからこうして話せているけれど、それ以外のシチュエーションになったら、どう会話すればいいのか見当もつかない。
「……日下部さん、このあとなんだが」
「は、はい」
どきんと鼓動が跳ねる。昨夜のことを思い出していた時にタイミングが合いすぎて、声がひっくり返った。
「永緒先生、いいかい」
深みのある低い声が、私の声にかぶさった。
振り向くと、楠院長がこちらをまっすぐ見つめていた。
オールバックに撫でつけた髪に、がっしりした体格。年相応の皺が刻まれた目元はどこか柔和で、白衣を着ていなければ閻魔様を従えている病院長だとは思えない。
「すみません、私は失礼します」
メモを取るために出していたボールペンを胸ポケットに挿して資料を抱える。
ちょうど良かった――とは思いたくないけれど、素の状態で永緒先生と話をするには気まずかったので、院長が声をかけてくれたのはありがたかった。
……のだけれど。
「おや、きみのそれ」
院長が私を――正確には私の胸ポケットを指さす。ボールペンについたかぴのすけがきらりと光った。
「永緒先生とおそろいだ。彼も最近、このハムスターがお気に入りのようだよ」
ハムスターじゃなくてカピバラです……なんて院長にツッコめるはずもなく、頬を引き攣らせて永緒先生を見る。
目が合った瞬間、永緒先生は口元を手で覆った。
「朴念仁のこいつが何に目覚めたのかと思いきや、きみの影響か。納得がいったよ」
「あ、あはは……」
私に影響されたんじゃなくて、永緒先生は自分からかぴのすけを買ったのに。
だけど、そんなことはわざわざ院長に言うことでもないし、永緒先生だって上司にバレたくないだろう。
かぴのすけ好きの同士として、永緒先生を好奇の目から守ることを決めたのは私自身だ。このくらいの誤解は甘んじて受けよう。
「そうか。昨日やけにはっきりと断るから、てっきりいいひとが居ると睨んだが、わたしの勘違いではないようだな」
……なんの話?
「日下部さん、だったね」
「は、はい」
院長に名前を呼ばれてしまった。私の名前、覚えてらしたんだ……。
「これはね、たいそう不器用だけど真面目だから。何につけても理由が必要な面倒くさい男だけれど、一度受け入れたものにはとことん誠実だ。支えてやってくれると嬉しい」
「は……はい」
支えて……って、委員会のことだよね?
っていうか、院長に「これ」呼ばわりされる永緒先生って、どれだけ経営陣に近い存在なんだろう。
目を白黒させていると、院長は永緒先生に向き直る。
「お前が昨日電話で言っていたのは、彼女のことだったんだな」
「……ええ。彼女には助けられてばかりなので、俺も応えていきたいと思っています」
な、永緒先生? それって委員会関連のことですよね? 応えてくれるって、ラップの芯を切ってくれるとかそういうことですよね?
「わかった。じゃあ昨日の話はわたしの方から断っておくよ」
「よろしくお願いします」
頭を下げた永緒先生につられて私まで礼をする。
「はは、早くも似た者夫婦か。仲良くやれよ」
えっ!
勢いよく頭を上げると、院長の隣には音もなく秘書が佇んでいて、メモを手渡していた。それを一瞥して頷いた院長は私たちを順に見る。
柔和な楠院長の表情はそこになく、楠閣下と謳われるにふさわしい威厳に気圧される。
「時間だ。またな」
「……は、はい…………」
白衣を翻す院長を見送る頃には、すっかり会議室はがらんとしていた。
だって私が発言したのは、永緒先生の紹介を受けての「補佐です。宜しくお願いいたします」の挨拶だけだったから。
悩んでいた時間のほうが長かった。
手元の資料は永緒先生が用意したものらしく、理路整然としたレポートが記述されている。
出席者にはお馴染みらしく、ぱらぱらと目を通すだけの人が多いのがなんだかもどかしかった。
あんなに忙しい毎日なのにこれだけの資料を作って……それがきちんと読まれもせずにシュレッダー行きなのは本当に惜しい。
自分の仕事でもないのにそう思ってしまう。
なら、せめて私だけはきちんと読み込んでおこう。それが永緒先生への礼儀であり、また補佐役としての第一歩だ。
そうやって過ごしているうちに、初めての委員会はあっさり散開したのだった。
「どうだった。緊張するようなものではなかっただろう」
「内容より出席者に緊張しましたよ……」
楠院長を筆頭に事務方、ベテラン看護師のお歴々方。資料の名前からもオーラが伝わってくるようで、私のような下っ端クラークには刺激が強かった。
会議が終わると臨床現場のスタッフは素早く退出したので、会議室に残っているのはそれ以外の面々だ。
事務長に会釈する永緒先生の横顔を見上げる。シャープな目元はまさに閻魔様の風格だ。
昨夜、薄暗い車内で垣間見たあのまなざしはどこにもない。
……あれは、どういうことだったんだろう。
今は仕事だからこうして話せているけれど、それ以外のシチュエーションになったら、どう会話すればいいのか見当もつかない。
「……日下部さん、このあとなんだが」
「は、はい」
どきんと鼓動が跳ねる。昨夜のことを思い出していた時にタイミングが合いすぎて、声がひっくり返った。
「永緒先生、いいかい」
深みのある低い声が、私の声にかぶさった。
振り向くと、楠院長がこちらをまっすぐ見つめていた。
オールバックに撫でつけた髪に、がっしりした体格。年相応の皺が刻まれた目元はどこか柔和で、白衣を着ていなければ閻魔様を従えている病院長だとは思えない。
「すみません、私は失礼します」
メモを取るために出していたボールペンを胸ポケットに挿して資料を抱える。
ちょうど良かった――とは思いたくないけれど、素の状態で永緒先生と話をするには気まずかったので、院長が声をかけてくれたのはありがたかった。
……のだけれど。
「おや、きみのそれ」
院長が私を――正確には私の胸ポケットを指さす。ボールペンについたかぴのすけがきらりと光った。
「永緒先生とおそろいだ。彼も最近、このハムスターがお気に入りのようだよ」
ハムスターじゃなくてカピバラです……なんて院長にツッコめるはずもなく、頬を引き攣らせて永緒先生を見る。
目が合った瞬間、永緒先生は口元を手で覆った。
「朴念仁のこいつが何に目覚めたのかと思いきや、きみの影響か。納得がいったよ」
「あ、あはは……」
私に影響されたんじゃなくて、永緒先生は自分からかぴのすけを買ったのに。
だけど、そんなことはわざわざ院長に言うことでもないし、永緒先生だって上司にバレたくないだろう。
かぴのすけ好きの同士として、永緒先生を好奇の目から守ることを決めたのは私自身だ。このくらいの誤解は甘んじて受けよう。
「そうか。昨日やけにはっきりと断るから、てっきりいいひとが居ると睨んだが、わたしの勘違いではないようだな」
……なんの話?
「日下部さん、だったね」
「は、はい」
院長に名前を呼ばれてしまった。私の名前、覚えてらしたんだ……。
「これはね、たいそう不器用だけど真面目だから。何につけても理由が必要な面倒くさい男だけれど、一度受け入れたものにはとことん誠実だ。支えてやってくれると嬉しい」
「は……はい」
支えて……って、委員会のことだよね?
っていうか、院長に「これ」呼ばわりされる永緒先生って、どれだけ経営陣に近い存在なんだろう。
目を白黒させていると、院長は永緒先生に向き直る。
「お前が昨日電話で言っていたのは、彼女のことだったんだな」
「……ええ。彼女には助けられてばかりなので、俺も応えていきたいと思っています」
な、永緒先生? それって委員会関連のことですよね? 応えてくれるって、ラップの芯を切ってくれるとかそういうことですよね?
「わかった。じゃあ昨日の話はわたしの方から断っておくよ」
「よろしくお願いします」
頭を下げた永緒先生につられて私まで礼をする。
「はは、早くも似た者夫婦か。仲良くやれよ」
えっ!
勢いよく頭を上げると、院長の隣には音もなく秘書が佇んでいて、メモを手渡していた。それを一瞥して頷いた院長は私たちを順に見る。
柔和な楠院長の表情はそこになく、楠閣下と謳われるにふさわしい威厳に気圧される。
「時間だ。またな」
「……は、はい…………」
白衣を翻す院長を見送る頃には、すっかり会議室はがらんとしていた。