閻魔様の恋カルテ~冷徹ドクターの秘密は恋のはじまり~
2 助け舟
私、日下部 唯がくすのきメディカルセンターで外来クラークとして働き出して、3年になる。
入院患者を受け入れる大病院ではないけれど、地域医療を担うにふさわしい規模があり、毎日が忙しい。
中途採用の後輩もちらほら増えてきて、いつの間にか中堅どころだ。
「……あれ、ここ順番違う。え、こっちも?」
今は、先輩の森野さんから押しつけ……任された書類の入力の真っ最中。
書類とモニタの間で忙しなく視線を動かしているうちに、目が回ってきた。
入力を終えた欄をチェックしつつ確認しているけれど、彼女が入力した箇所は列がまるごと飛んでいたり桁がズレている。
森野さんの仕事ぶりに違わず、大らかというか大雑把というか……ひと言で言うなら雑だ。
チェックを入れるたびに、ボールペンのクリップ部分についたゆるキャラのチャームがこちらを見上げて呆れているようで、つい苦笑した。
「いっそイチから入力したほうが早いよ……」
デスクに鎮座する束の厚みにげんなりしつつ手を動かしていると、ふっと画面に影が差した。
「姿勢が悪い」
そのひと言に、はっと背筋を伸ばす。
モニタから顔を上げれば、予想通りのひとがこちらにやってくるところだった。
「永緒先生、お疲れ様です」
「お疲れ様、日下部さん」
きっちりと整えられた清潔感のある髪型。シワひとつない白衣。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。
「今は患者さんがいないとはいえ、ここは病院の顔だ。忘れないように」
「はい、気をつけます」
素直に頷けば、永緒先生はそれ以上咎めることはしない。
目配りは細やかだけれど、ねちねちとあげつらうのが目的ではないのだ。
「それにしても、日下部さんがそんなに苦戦しているのも珍しいな。何かあったのか」
「えっと……まあ、はい」
言葉を濁したところで永緒先生にはお見通しだ。
案の定、受付カウンターの中に入ってきた彼は机に積まれた書類の厚みに目を留めると、身をかがめてモニタに映るものと照らし合わせ、眉間のシワを深くした。
「……これは……きみの仕事じゃないな、森野さんか」
「…………は、い、いいえ」
「庇い立てする必要はないよ。本人は?」
「検査データを、届けに」
あえて「忘れた」とは言わなかったけれど、返ってきた永緒先生の溜息からするに察しているのだろう。
重い空気に耐えられず俯いてしまうと、椅子の背をとんとんと叩かれた。
「顔を上げなさい。日下部さんを叱っている訳ではない」
「は、はい」
それでもすぐに──とはいかず、様子をうかがうように彼を見上げれば、薄いくちびるがきゅっと真一文字に引き締められた。
え、何かした!?
「あの……?」
心配になって問いかけてみるけれど、もう永緒先生は近づいてくる足音のほうに顔を向けていた。
森野さんが戻ってきた。
ぺったぺったと踵を鳴らすその歩き方は、すぐに彼女だとわかる。
具合の悪い患者さんの耳につくからやめたほうがいいと思うのだけれど、私から言えるわけもない。
「どう、進んだー? ……って」
永緒先生に負けず劣らず、森野さんの眉間にも深いシワが寄る。それでも彼女は殊勝に挨拶をしてみせた。
「お疲れ様です、永緒先生」
「お疲れ様、森野さん。仕事はどうかな」
「適材適所に割り振ってますので順調ですよ。日下部さんはもう少しかかるみたいですね」
私に仕事を丸投げしておいたにも関わらず、あっけらかんとそう言ってのけたその度胸にはお手上げだ。抗議の言葉も吹っ飛んでしまう。
しかし、永緒先生は眉ひとつ動かさずに頷いて見せた。
「適材適所か、いい言葉だ。果たしてその天秤が水平かどうか、鑑みてくれると嬉しいね」
そう言い放った永緒先生は、書類の束を森野さんの机に戻した。それを追って院内PHSの着信音が割って入る。彼は目礼して背を向けた。
揺れるストラップのチャームに見覚えがある気がして、思わず目で追う。けれど通話はすぐに終わってしまう。PHSはポケットにしまわれて見えなくなってしまった。
「……何か?」
私の視線に気づいた彼が訝しげに見下ろしてくる。ストラップが気になっていた——なんて正直に言えるはずもない。
「あ、いえ……」
うやむやに濁す私に永緒先生は小さく溜息をつく。怒らせてしまったかも。
「日下部さん、用がないなら問診票の補充と診療予約データの共有化をしておくように」
「は、はいっ」
怒られるのが怖くて顔を伏せている間に、永緒先生は静かに受付ブースから出ていった。
そろそろと上目遣いに顔を上げ、姿が見えないのを確認してから席を立つ。
問診票の入った引き出しをチェックすると、在庫は充分足りていた。
「……あれ?」
「どうかした?」
森野さんの問いかけに要領を得ないまま首を振る。仕方なしに入力端末の前に座り直した彼女には、私の生返事など気にならないようだった。
思い返せばデータの共有化も済ませてある。
(もしかして……座りっぱなしで姿勢が悪くなっていたから、わざと動くような指示を?)
真意はわからない。ただ、もしそうだとしたら永緒先生の心遣いを無駄にしたくはなかった。
書類ケースの中身を上から順番に確認していく。膝の曲げ伸ばしがちょうどいいストレッチだ。
「もう! 何でもかんでもネチネチと……暇さえあればウロウロして嫌味ばっかり。イマドキ、姑だってもう少し優しいわ。院内事故調だか知らないけどあんなの医者の仕事じゃないし、さぁっすが“閻魔様”よねえ……」
だらだら続く森野さんの愚痴に生返事をしつつ、棚を無意味に開け閉めしてやり過ごす。
永緒先生がまだこの階にいたら、聞こえるんじゃないかとヒヤヒヤものだ。
入院患者を受け入れる大病院ではないけれど、地域医療を担うにふさわしい規模があり、毎日が忙しい。
中途採用の後輩もちらほら増えてきて、いつの間にか中堅どころだ。
「……あれ、ここ順番違う。え、こっちも?」
今は、先輩の森野さんから押しつけ……任された書類の入力の真っ最中。
書類とモニタの間で忙しなく視線を動かしているうちに、目が回ってきた。
入力を終えた欄をチェックしつつ確認しているけれど、彼女が入力した箇所は列がまるごと飛んでいたり桁がズレている。
森野さんの仕事ぶりに違わず、大らかというか大雑把というか……ひと言で言うなら雑だ。
チェックを入れるたびに、ボールペンのクリップ部分についたゆるキャラのチャームがこちらを見上げて呆れているようで、つい苦笑した。
「いっそイチから入力したほうが早いよ……」
デスクに鎮座する束の厚みにげんなりしつつ手を動かしていると、ふっと画面に影が差した。
「姿勢が悪い」
そのひと言に、はっと背筋を伸ばす。
モニタから顔を上げれば、予想通りのひとがこちらにやってくるところだった。
「永緒先生、お疲れ様です」
「お疲れ様、日下部さん」
きっちりと整えられた清潔感のある髪型。シワひとつない白衣。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。
「今は患者さんがいないとはいえ、ここは病院の顔だ。忘れないように」
「はい、気をつけます」
素直に頷けば、永緒先生はそれ以上咎めることはしない。
目配りは細やかだけれど、ねちねちとあげつらうのが目的ではないのだ。
「それにしても、日下部さんがそんなに苦戦しているのも珍しいな。何かあったのか」
「えっと……まあ、はい」
言葉を濁したところで永緒先生にはお見通しだ。
案の定、受付カウンターの中に入ってきた彼は机に積まれた書類の厚みに目を留めると、身をかがめてモニタに映るものと照らし合わせ、眉間のシワを深くした。
「……これは……きみの仕事じゃないな、森野さんか」
「…………は、い、いいえ」
「庇い立てする必要はないよ。本人は?」
「検査データを、届けに」
あえて「忘れた」とは言わなかったけれど、返ってきた永緒先生の溜息からするに察しているのだろう。
重い空気に耐えられず俯いてしまうと、椅子の背をとんとんと叩かれた。
「顔を上げなさい。日下部さんを叱っている訳ではない」
「は、はい」
それでもすぐに──とはいかず、様子をうかがうように彼を見上げれば、薄いくちびるがきゅっと真一文字に引き締められた。
え、何かした!?
「あの……?」
心配になって問いかけてみるけれど、もう永緒先生は近づいてくる足音のほうに顔を向けていた。
森野さんが戻ってきた。
ぺったぺったと踵を鳴らすその歩き方は、すぐに彼女だとわかる。
具合の悪い患者さんの耳につくからやめたほうがいいと思うのだけれど、私から言えるわけもない。
「どう、進んだー? ……って」
永緒先生に負けず劣らず、森野さんの眉間にも深いシワが寄る。それでも彼女は殊勝に挨拶をしてみせた。
「お疲れ様です、永緒先生」
「お疲れ様、森野さん。仕事はどうかな」
「適材適所に割り振ってますので順調ですよ。日下部さんはもう少しかかるみたいですね」
私に仕事を丸投げしておいたにも関わらず、あっけらかんとそう言ってのけたその度胸にはお手上げだ。抗議の言葉も吹っ飛んでしまう。
しかし、永緒先生は眉ひとつ動かさずに頷いて見せた。
「適材適所か、いい言葉だ。果たしてその天秤が水平かどうか、鑑みてくれると嬉しいね」
そう言い放った永緒先生は、書類の束を森野さんの机に戻した。それを追って院内PHSの着信音が割って入る。彼は目礼して背を向けた。
揺れるストラップのチャームに見覚えがある気がして、思わず目で追う。けれど通話はすぐに終わってしまう。PHSはポケットにしまわれて見えなくなってしまった。
「……何か?」
私の視線に気づいた彼が訝しげに見下ろしてくる。ストラップが気になっていた——なんて正直に言えるはずもない。
「あ、いえ……」
うやむやに濁す私に永緒先生は小さく溜息をつく。怒らせてしまったかも。
「日下部さん、用がないなら問診票の補充と診療予約データの共有化をしておくように」
「は、はいっ」
怒られるのが怖くて顔を伏せている間に、永緒先生は静かに受付ブースから出ていった。
そろそろと上目遣いに顔を上げ、姿が見えないのを確認してから席を立つ。
問診票の入った引き出しをチェックすると、在庫は充分足りていた。
「……あれ?」
「どうかした?」
森野さんの問いかけに要領を得ないまま首を振る。仕方なしに入力端末の前に座り直した彼女には、私の生返事など気にならないようだった。
思い返せばデータの共有化も済ませてある。
(もしかして……座りっぱなしで姿勢が悪くなっていたから、わざと動くような指示を?)
真意はわからない。ただ、もしそうだとしたら永緒先生の心遣いを無駄にしたくはなかった。
書類ケースの中身を上から順番に確認していく。膝の曲げ伸ばしがちょうどいいストレッチだ。
「もう! 何でもかんでもネチネチと……暇さえあればウロウロして嫌味ばっかり。イマドキ、姑だってもう少し優しいわ。院内事故調だか知らないけどあんなの医者の仕事じゃないし、さぁっすが“閻魔様”よねえ……」
だらだら続く森野さんの愚痴に生返事をしつつ、棚を無意味に開け閉めしてやり過ごす。
永緒先生がまだこの階にいたら、聞こえるんじゃないかとヒヤヒヤものだ。