さよならを繰り返す100回目の放課後
「……まずは、お互いがどんなやり直しをしてきたか、情報を整理しよう」
律が教卓の上にふたつの懐中時計を並べ、真剣な面持ちで口を開いた。
時計の針は午後四時四十一番を指している。
運命の午後五時まで、あと十九分。
わたしは深呼吸をして、溢れ出そうになる感情を静めた。
涙を袖で拭い、律のとなりに並んで教卓の上の時計を見つめる。
「うん。……わたしね、最初は駅前の暴走トラックだった。そのあとは歩道橋からの落下物、路地裏の倒壊事故……百回目の今日は、風車公園の工事資材の崩落。そして百一回目のさっきは、図書室の床の崩落と火災」
「やっぱりな……」
律は痛ましそうに顔を歪め、ぎゅっと拳を握りしめた。
「俺も同じだ。お前を駅前に近づけないために、遠くの街へ行く電車に乗せようとしたこともあった。……だけど、その時は脱線事故が起きた。お前を俺の家に連れて行って閉じこもろうとした時は、隣の家のガス爆発に巻き込まれそうになった。……どこへ逃げても、どんな手段を使っても、必ず『死の罠』が用意されるんだ」
「ガス爆発に脱線事故まで……!?」
わたしは絶句した。
律もまた、想像を絶するような惨劇を何度も何度も一人でくぐり抜けてきたのだ。
「ああ。そこで俺はある法則に気づいた」
律は茶色い瞳を鋭く光らせ、黒板に置かれたチョークを取ると、黒板に大きく三つの単語を書いた。
不可抗力(事故・災害)
第三者の巻き込み(囮)
強制的な自己犠牲
「これ……どういうこと?」
「運命はな、ただ闇雲に命を奪おうとしてるわけじゃないんだ」
律は黒板の文字を指差しながら解説を始めた。
「まず第一に、俺たちがどんな場所に逃げても、その場所にある『構造的な欠陥』や『突発的なトラブル』を無理やり引き起こして襲ってくる。これが『不可抗力』だ。高台なら資材崩落、図書室なら老朽化、電車なら脱線……。逃げ場を無くすために、世界そのものを歪めてくるんだ」
わたしはコクリと頷いた。まさに図書室で起きた惨劇がそれだった。
「そして第二に、一番厄介なのが『第三者の巻き込み』だ」
律の言葉に、ハッと胸が詰まった。風車公園の坂道で、鉄パイプに襲われそうになった幼い女の子の姿が頭に浮かぶ。
「俺もお前も……根がバカ正直で、誰かが目の前で死にそうになってたら、自分を捨ててでも助けに飛び込んじゃうだろ? 運命はそれを分かってて、あえて関係ない第三者を危険に晒すんだ。俺たちが絶対に逃げ出せない『罠』としてな」
(だから……あの時、風車公園に女の子が歩いていたんだ……!)
寒気が背筋を駆け抜けた。
運命は、わたし達の「誰かを助けたい」という優しい心を逆手にとり、死の引き金として利用していたのだ。
「そして最後の第三が『強制的な自己犠牲』。誰かが庇わなきゃいけない状況を作られて、お前が俺を庇うか、俺がお前を庇うか……どちらか片方が死ぬことで、その回のタイムリープが完結する仕組みになってた」
「……なんて、酷い……」
悔しさに唇を噛みしめた。
どこまで残酷なのだろう。お互いを大切に想えば想うほど、その想いが二人を絶望の底へと叩き落とす武器に変わってしまうなんて。
「でも、紬」
律がチョークを置き、わたしの両肩をしっかりと掴んだ。
「この法則が分かった今なら、抜け道がある」
「抜け道……?」
「ああ。今まで失敗してきた理由は二つだ。一つは『お互いが一人で抱え込んでいたこと』。そしてもう一つは『危険が予測できない場所にいたこと』だ」
律の瞳に、強い意思の炎が宿っていた。
「なら、逆をやればいい。二人で行動し、危険の要素を極限まで排除した『完璧な場所』で午後五時を迎えるんだ」
「完璧な場所……? そんな場所、どこにあるの? 学校の中も、街の中も、公園もダメだったのに……」
わたしが尋ねると、律はニッと口元に不敵な笑みを浮かべ、窓の外を指差した。
「校庭(グラウンド)の中央だ」
「え……? グラウンド……?」
驚いて窓の外を見下ろす。
オレンジ色の夕日に染まる広い校庭。部活動の生徒たちが片付けを始め、少しずつ人がいなくなっていく場所だ。
「そうか……!」
わたしは膝を打った。
グラウンドの中央なら、上から倒れてくる建物も本棚もない。
車が突っ込んでくることもなければ、工事資材もない。
広大で何も障害物がない平地なら、頭上から落ちてくるものも、崩れる床もないのだ。
「さらに」と律が言葉を重ねる。
「部活動の奴らが全員下校して、グラウンドに誰もいなくなれば『第三者』も存在しなくなる。囮に使える人間がいなければ、俺たちが誰かを庇って飛び出す危険もなくなるんだ」
「すごい……完璧だよ、律!」
わたしは思わず声を弾ませた。
102回目にして、初めて見えた確かな希望の光。
これなら、運命がどんな手を使ってこようとも、物理的に手出しができない。
「だろ? でも、一番大事なルールがひとつだけある」
律は表情を引き締め、わたしの目を見つめた。
「何があっても、絶対に互いの手を離さないこと。どんな怪奇現象が起きようが、どんな音が響こうが、二人の手を繋いだまま、グラウンドの中央から一歩も動かない。……約束できるか、紬?」
「うん! 約束する! 絶対に、絶対に離さない!」
わたしは強く頷き、律の手をギュッと握り返した。
彼の温かい体温が、掌を通して心臓まで届いてくる。一人で怯えていた時とは違う。今のわたしには、世界で一番頼もしいパートナーがいるのだ。
「よし。じゃあ行こう。まずはグラウンドにいる部活の奴らを全員退出させるぞ」
「了解!」
時計の針は、午後四時四十八分。
運命の事故まで、あと十二分。
わたし達は誰もいない教室を飛び出し、階段を駆け下りた。
昇降口で上履きからスニーカーに履き替え、夕暮れの風が吹くグラウンドへと足を踏み出す。
グラウンドでは、野球部と陸上部の生徒たちがちょうど用具の片付けを終えるところだった。
「おーい! 陸上部、野球部! 先生が職員会議で『今日は下校時間を早めるから5分以内に全員校門を出ろ』って言ってたぞー!」
律が大声を張り上げて、ウソの指示を出した。普段はクールで目立たない律が必死に叫んでいる姿に、部員たちは驚いたように顔を見合わせる。
「え、マジで?」「ラッキー、早く帰ろうぜ!」「お疲れー!」
素直な部員たちは急いで荷物をまとめ、次々と校門に向かって走っていった。
わたしも駆け回り、グラウンドの隅で残ってストレッチをしていた生徒たちに「校門閉まっちゃうよ!」と声をかけて外へ促した。
四時五十三分。
広大なグラウンドから、人影が完全に消え去った。
夕暮れの静寂が、広い校庭を包み込む。
黒土のグラウンドの中央に立ち、わたしと律はぽつんと風に吹かれていた。
周りを見回す。
北側には校舎、南側にはバックネット、東側には高いフェンス、西側には体育館。
どれもグラウンド中央にいるわたし達までは届かないほど、十分に離れている。
「よし……誰もいなくなった。障害物もない」
律が時計を確認する。
四時五十五分。
あと、五分。
「紬、手」
「うん」
わたし達は、グラウンドの真ん中で正面から向き合い、両手を固く繋ぎ合わせた。
右手と左手、両方の指を交差させる「恋人繋ぎ」で、互いの体温を確かめ合う。
ポケットの中に入れたふたつの真鍮の懐中時計が、微かにジジジ……と共鳴するように温かい振動を始めていた。
「怖くないか、紬?」
「律と一緒なら、全然怖くないよ」
わたしが微笑むと、律は愛おしそうに目を細め、繋いだ手にキュッと力を込めた。
「102回目の今日で……絶対に終わらせよう。明日になったらさ、放課後に二人で、駅前の新しいカフェに行こうな。甘いもん嫌いだけど、お前が食べるの見ててやるから」
「ふふ、約束だよ? 私、一番大きいパフェ頼んじゃうんだから」
「おう、いくらでも奢ってやるよ」
軽口を叩き合いながら、わたし達は息を潜めて「その時」を待った。
四時五十七分。
あと、三分。
その時——ふいに、周囲の風がピタリと止んだ。
「……っ!?」
空気が、異様なほど重くなる。
夕空の橙色が、毒々しい赤紫色のグラデーションへと変貌していった。
鳥の羽ばたきも、遠くの電車の音も、一切の環境音が世界から掻き消される。
息が詰まるほどの完全な静寂。
まるで、世界という舞台からすべての役者が退場し、わたし達二人だけが隔離されたかのような不気味な空間。
「来るぞ……!」
律が低く呟いた。
四時五十八分。
あと、二分。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如として、地響きのような不快な低音が、足元の黒土から響き渡った。
地震ではない。地面が揺れているわけではないのだ。
けれど、わたし達が立っているグラウンドの周囲——校舎、体育館、照明塔、バックネットが、まるで歪んだレンズを通して見ているかのように、ぐにゃりと奇妙に歪み始めた。
(なになに……!? 何が起きているの!?)
恐怖で身体が固まりそうになる。
だが、わたしは繋いだ手を絶対に緩めなかった。律もまた、骨が折れそうなほどの強い力でわたしの手を握りしめている。
「騙されるな、紬! 視覚の錯覚だ! 俺たちはグラウンドの真ん中にいる、どこからも何も届かない!」
律が叫ぶ。自分自身にも言い聞かせるような、必死の声だった。
四時五十九分。
あと、一分。
その瞬間——運命は、わたし達の予測を遙かに超える「最悪の悪意」を暴露した。
バチバチバチッーーーーー!!
グラウンドの四隅に立っていた、高さ二十メートルを超える巨大な【鋼鉄製の夜間照明塔】。
その四本の巨塔の根本から、同時に激しい火花が散った。
「な……ッ!?」
律の顔から、完全に血の気が引いた。
老朽化でもない、風でもない。
まるで目に見えない巨大な手が四本の鉄塔を同時にへし折ったかのように、ボルトが弾け飛ぶ甲高い音がグラウンドに響き渡る。
ギシィィィィィィンッ!!
四本の巨大な鋼鉄の塔が、倒壊を始めた。
東から、西から、南から、北から。
四方八方から、巨大な鉄の柱が——すべてグラウンドの中央に立っているわたし達目掛けて、十字に交差するように倒れてくる!!
(そんな……!! 逃げ場がない……!!)
中央にいるから安全なのではない。
中央にいるからこそ、四方から同時に倒れてくる鉄塔の「交差点」になってしまったのだ!
上空を覆い尽くす、巨大な四本の黒い影。
重力に従い、猛スピードで迫り来る死の鉄塊。
逃げる場所なんて、どこにもない。
右へ避けても、左へ避けても、前へ逃げても、後ろへ逃げても、必ずどれかの鉄塔の下敷きになる。
午後四時五十九分五十秒。
運命は、二人まとめて叩き潰すために、完璧な処刑台を作り上げていたのだ。
律が教卓の上にふたつの懐中時計を並べ、真剣な面持ちで口を開いた。
時計の針は午後四時四十一番を指している。
運命の午後五時まで、あと十九分。
わたしは深呼吸をして、溢れ出そうになる感情を静めた。
涙を袖で拭い、律のとなりに並んで教卓の上の時計を見つめる。
「うん。……わたしね、最初は駅前の暴走トラックだった。そのあとは歩道橋からの落下物、路地裏の倒壊事故……百回目の今日は、風車公園の工事資材の崩落。そして百一回目のさっきは、図書室の床の崩落と火災」
「やっぱりな……」
律は痛ましそうに顔を歪め、ぎゅっと拳を握りしめた。
「俺も同じだ。お前を駅前に近づけないために、遠くの街へ行く電車に乗せようとしたこともあった。……だけど、その時は脱線事故が起きた。お前を俺の家に連れて行って閉じこもろうとした時は、隣の家のガス爆発に巻き込まれそうになった。……どこへ逃げても、どんな手段を使っても、必ず『死の罠』が用意されるんだ」
「ガス爆発に脱線事故まで……!?」
わたしは絶句した。
律もまた、想像を絶するような惨劇を何度も何度も一人でくぐり抜けてきたのだ。
「ああ。そこで俺はある法則に気づいた」
律は茶色い瞳を鋭く光らせ、黒板に置かれたチョークを取ると、黒板に大きく三つの単語を書いた。
不可抗力(事故・災害)
第三者の巻き込み(囮)
強制的な自己犠牲
「これ……どういうこと?」
「運命はな、ただ闇雲に命を奪おうとしてるわけじゃないんだ」
律は黒板の文字を指差しながら解説を始めた。
「まず第一に、俺たちがどんな場所に逃げても、その場所にある『構造的な欠陥』や『突発的なトラブル』を無理やり引き起こして襲ってくる。これが『不可抗力』だ。高台なら資材崩落、図書室なら老朽化、電車なら脱線……。逃げ場を無くすために、世界そのものを歪めてくるんだ」
わたしはコクリと頷いた。まさに図書室で起きた惨劇がそれだった。
「そして第二に、一番厄介なのが『第三者の巻き込み』だ」
律の言葉に、ハッと胸が詰まった。風車公園の坂道で、鉄パイプに襲われそうになった幼い女の子の姿が頭に浮かぶ。
「俺もお前も……根がバカ正直で、誰かが目の前で死にそうになってたら、自分を捨ててでも助けに飛び込んじゃうだろ? 運命はそれを分かってて、あえて関係ない第三者を危険に晒すんだ。俺たちが絶対に逃げ出せない『罠』としてな」
(だから……あの時、風車公園に女の子が歩いていたんだ……!)
寒気が背筋を駆け抜けた。
運命は、わたし達の「誰かを助けたい」という優しい心を逆手にとり、死の引き金として利用していたのだ。
「そして最後の第三が『強制的な自己犠牲』。誰かが庇わなきゃいけない状況を作られて、お前が俺を庇うか、俺がお前を庇うか……どちらか片方が死ぬことで、その回のタイムリープが完結する仕組みになってた」
「……なんて、酷い……」
悔しさに唇を噛みしめた。
どこまで残酷なのだろう。お互いを大切に想えば想うほど、その想いが二人を絶望の底へと叩き落とす武器に変わってしまうなんて。
「でも、紬」
律がチョークを置き、わたしの両肩をしっかりと掴んだ。
「この法則が分かった今なら、抜け道がある」
「抜け道……?」
「ああ。今まで失敗してきた理由は二つだ。一つは『お互いが一人で抱え込んでいたこと』。そしてもう一つは『危険が予測できない場所にいたこと』だ」
律の瞳に、強い意思の炎が宿っていた。
「なら、逆をやればいい。二人で行動し、危険の要素を極限まで排除した『完璧な場所』で午後五時を迎えるんだ」
「完璧な場所……? そんな場所、どこにあるの? 学校の中も、街の中も、公園もダメだったのに……」
わたしが尋ねると、律はニッと口元に不敵な笑みを浮かべ、窓の外を指差した。
「校庭(グラウンド)の中央だ」
「え……? グラウンド……?」
驚いて窓の外を見下ろす。
オレンジ色の夕日に染まる広い校庭。部活動の生徒たちが片付けを始め、少しずつ人がいなくなっていく場所だ。
「そうか……!」
わたしは膝を打った。
グラウンドの中央なら、上から倒れてくる建物も本棚もない。
車が突っ込んでくることもなければ、工事資材もない。
広大で何も障害物がない平地なら、頭上から落ちてくるものも、崩れる床もないのだ。
「さらに」と律が言葉を重ねる。
「部活動の奴らが全員下校して、グラウンドに誰もいなくなれば『第三者』も存在しなくなる。囮に使える人間がいなければ、俺たちが誰かを庇って飛び出す危険もなくなるんだ」
「すごい……完璧だよ、律!」
わたしは思わず声を弾ませた。
102回目にして、初めて見えた確かな希望の光。
これなら、運命がどんな手を使ってこようとも、物理的に手出しができない。
「だろ? でも、一番大事なルールがひとつだけある」
律は表情を引き締め、わたしの目を見つめた。
「何があっても、絶対に互いの手を離さないこと。どんな怪奇現象が起きようが、どんな音が響こうが、二人の手を繋いだまま、グラウンドの中央から一歩も動かない。……約束できるか、紬?」
「うん! 約束する! 絶対に、絶対に離さない!」
わたしは強く頷き、律の手をギュッと握り返した。
彼の温かい体温が、掌を通して心臓まで届いてくる。一人で怯えていた時とは違う。今のわたしには、世界で一番頼もしいパートナーがいるのだ。
「よし。じゃあ行こう。まずはグラウンドにいる部活の奴らを全員退出させるぞ」
「了解!」
時計の針は、午後四時四十八分。
運命の事故まで、あと十二分。
わたし達は誰もいない教室を飛び出し、階段を駆け下りた。
昇降口で上履きからスニーカーに履き替え、夕暮れの風が吹くグラウンドへと足を踏み出す。
グラウンドでは、野球部と陸上部の生徒たちがちょうど用具の片付けを終えるところだった。
「おーい! 陸上部、野球部! 先生が職員会議で『今日は下校時間を早めるから5分以内に全員校門を出ろ』って言ってたぞー!」
律が大声を張り上げて、ウソの指示を出した。普段はクールで目立たない律が必死に叫んでいる姿に、部員たちは驚いたように顔を見合わせる。
「え、マジで?」「ラッキー、早く帰ろうぜ!」「お疲れー!」
素直な部員たちは急いで荷物をまとめ、次々と校門に向かって走っていった。
わたしも駆け回り、グラウンドの隅で残ってストレッチをしていた生徒たちに「校門閉まっちゃうよ!」と声をかけて外へ促した。
四時五十三分。
広大なグラウンドから、人影が完全に消え去った。
夕暮れの静寂が、広い校庭を包み込む。
黒土のグラウンドの中央に立ち、わたしと律はぽつんと風に吹かれていた。
周りを見回す。
北側には校舎、南側にはバックネット、東側には高いフェンス、西側には体育館。
どれもグラウンド中央にいるわたし達までは届かないほど、十分に離れている。
「よし……誰もいなくなった。障害物もない」
律が時計を確認する。
四時五十五分。
あと、五分。
「紬、手」
「うん」
わたし達は、グラウンドの真ん中で正面から向き合い、両手を固く繋ぎ合わせた。
右手と左手、両方の指を交差させる「恋人繋ぎ」で、互いの体温を確かめ合う。
ポケットの中に入れたふたつの真鍮の懐中時計が、微かにジジジ……と共鳴するように温かい振動を始めていた。
「怖くないか、紬?」
「律と一緒なら、全然怖くないよ」
わたしが微笑むと、律は愛おしそうに目を細め、繋いだ手にキュッと力を込めた。
「102回目の今日で……絶対に終わらせよう。明日になったらさ、放課後に二人で、駅前の新しいカフェに行こうな。甘いもん嫌いだけど、お前が食べるの見ててやるから」
「ふふ、約束だよ? 私、一番大きいパフェ頼んじゃうんだから」
「おう、いくらでも奢ってやるよ」
軽口を叩き合いながら、わたし達は息を潜めて「その時」を待った。
四時五十七分。
あと、三分。
その時——ふいに、周囲の風がピタリと止んだ。
「……っ!?」
空気が、異様なほど重くなる。
夕空の橙色が、毒々しい赤紫色のグラデーションへと変貌していった。
鳥の羽ばたきも、遠くの電車の音も、一切の環境音が世界から掻き消される。
息が詰まるほどの完全な静寂。
まるで、世界という舞台からすべての役者が退場し、わたし達二人だけが隔離されたかのような不気味な空間。
「来るぞ……!」
律が低く呟いた。
四時五十八分。
あと、二分。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如として、地響きのような不快な低音が、足元の黒土から響き渡った。
地震ではない。地面が揺れているわけではないのだ。
けれど、わたし達が立っているグラウンドの周囲——校舎、体育館、照明塔、バックネットが、まるで歪んだレンズを通して見ているかのように、ぐにゃりと奇妙に歪み始めた。
(なになに……!? 何が起きているの!?)
恐怖で身体が固まりそうになる。
だが、わたしは繋いだ手を絶対に緩めなかった。律もまた、骨が折れそうなほどの強い力でわたしの手を握りしめている。
「騙されるな、紬! 視覚の錯覚だ! 俺たちはグラウンドの真ん中にいる、どこからも何も届かない!」
律が叫ぶ。自分自身にも言い聞かせるような、必死の声だった。
四時五十九分。
あと、一分。
その瞬間——運命は、わたし達の予測を遙かに超える「最悪の悪意」を暴露した。
バチバチバチッーーーーー!!
グラウンドの四隅に立っていた、高さ二十メートルを超える巨大な【鋼鉄製の夜間照明塔】。
その四本の巨塔の根本から、同時に激しい火花が散った。
「な……ッ!?」
律の顔から、完全に血の気が引いた。
老朽化でもない、風でもない。
まるで目に見えない巨大な手が四本の鉄塔を同時にへし折ったかのように、ボルトが弾け飛ぶ甲高い音がグラウンドに響き渡る。
ギシィィィィィィンッ!!
四本の巨大な鋼鉄の塔が、倒壊を始めた。
東から、西から、南から、北から。
四方八方から、巨大な鉄の柱が——すべてグラウンドの中央に立っているわたし達目掛けて、十字に交差するように倒れてくる!!
(そんな……!! 逃げ場がない……!!)
中央にいるから安全なのではない。
中央にいるからこそ、四方から同時に倒れてくる鉄塔の「交差点」になってしまったのだ!
上空を覆い尽くす、巨大な四本の黒い影。
重力に従い、猛スピードで迫り来る死の鉄塊。
逃げる場所なんて、どこにもない。
右へ避けても、左へ避けても、前へ逃げても、後ろへ逃げても、必ずどれかの鉄塔の下敷きになる。
午後四時五十九分五十秒。
運命は、二人まとめて叩き潰すために、完璧な処刑台を作り上げていたのだ。