雪月公は菫の花に微笑む
 公爵邸の門を抜けると、雪に覆われた街道が北へ伸びている。道の両脇には背の低い針葉樹が並び、そのさらに向こうには白い山脈が見えた。

 朝日が昇るにつれ、雪原は淡い金色に染まり始める。その光景は、息を呑むほど美しかった。

 だが、同時に厳しい。これほど美しい土地で、人は簡単に命を落とすのだろう。ひとつ道を間違えれば雪に呑まれ、風向きを読み違えれば凍える。北とはそういう土地だ。

「綺麗だと思いましたか」

 前を行くミカエルが、振り返らずに尋ねた。

「思いました」
「では、半分だけ正解です」
「半分?」
「北は美しい。ですが、美しいだけの土地ではありません」
「でしょうね。美しいものほど、危険な顔を持っています」
「……経験談ですか」
「一般論です」

 ミカエルは振り返った。真昼の空のような瞳が、かすかに細められる。

「貴女は時折、妙に含みのあることを仰る」
「気のせいです」
「そういうことにしておきましょう」

 それ以上、ミカエルは踏み込んでこなかった。ヴィオラも何も言わない。

 皇都を出る前の自分の過去を、ここで語るつもりはなかった。婚約者の裏切りも、妹のことも、髪を切った夜のことも、今の任務には関係ない。今、彼女が見るべきなのは北だ。

 やがて、風に海の匂いが混じり始めた。雪の奥から、低く重い波音が聞こえてくる。

 丘を越えた先に、港町が現れた。

 ノルドハーヴェン。北の海へ突き出すように造られたその街は、皇都の港とは全く違っていた。石造りの倉庫が並び、太い縄と帆布が風に揺れ、桟橋には雪をかぶった船がいくつも停泊している。

 海は鉛色で、波は荒い。だが、港にいる人々の動きは活気に満ちていた。

 商人。漁師。兵。荷運びの男たち。厚手の外套を纏った女たち。子どもまでもが、小さな荷物を抱えて走っている。ミカエルが馬を進めると、人々が次々に顔を上げた。

「公爵様!」
「閣下、おはようございます!」
「昨日の南倉庫の件ですが!」
「公爵様、うちの坊主がまた軍港の方へ入り込もうとしまして!」

 あちこちから声が飛ぶ。ヴィオラは少し驚いた。皇都で聞く雪月公の評判は、冷酷で、毒舌で、敵か味方か分からない男というものだった。

 だが、この港町の人々は、ミカエルを恐れていない。敬意はある。だが、距離は遠くない。ミカエルもまた、彼らを無視しなかった。

「南倉庫は午後に確認します。軍港へ入り込んだ坊主は、二度目なら罰として雪かき三日です。三度目なら五日。本人へそう伝えなさい」
「はい!」
「それから、昨日の荷揚げで怪我をした者は?」
「足を少しやっただけです。医師に診せました」
「少し、という言葉は信用しません。後で名を」
「へい」

 語り口は淡々としているが、その実、彼は領内の細部まで驚くほど正確に把握していた。

 ヴィオラはその様子を見ながら、昨夜の食堂でグレンが言った言葉を思い出した。

 ──言葉ほど冷たい方ではございません。

 確かに、そうなのかもしれない。

 馬から降りると、ミカエルは港の倉庫街へ向かった。
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