雪月公は菫の花に微笑む
 皇帝の執務室は、午後の光が差しているにもかかわらず静かだった。

 ヴィオラが事情を説明し終えるまで、皇帝は一度も口を挟まなかった。三枚の補給申請、ウォルターズ家の備蓄報告、財務側の支出記録。そのすべてに目を通したのち、青い瞳がゆっくりと上がる。

「北方海域で、交易船が幾つか消えている」

 思いがけない言葉に、ヴィオラはそっと眉を動かした。

「海難事故ではないのですか」

「そう処理されていた。だが、消えた積荷の一部が別の経路で流通している形跡が出た。国境近くでは武装した不審者も目撃されている」

「ウォルターズ公爵家からの報告には」

「大きな異常はない」

 机上の三枚が、急に別の重さを持った。北が異常を隠しているのか。北自身もまだ掴んでいないのか。それとも、皇都と北の間にあるどこかで情報と物資が歪められているのか。
 今ある材料だけで結論を出すべきではない。

 ヴィオラが黙って考えていると、皇帝は机の引き出しから灰色の封蝋で閉じられた封書を取り出した。

「カルネット」
「はい」
「北へ行け」

 命令は短かった。隣に立つアスランの眉が動いたが、ヴィオラは驚きを飲み込み、参謀官として必要な問いを先に口にする。

「任務内容をお聞かせください」

「その申請がどこで作られ、荷がどこへ消えたのかを確かめろ。異常がウォルターズ家の内側にあるのか、交易路の外にあるのか、あるいは皇都側にあるのかも含めてだ。詳細は封書に記した。現地で開け」

「承知しました」

「ただし、勘違いするな。ウォルターズ領は皇都ではない。ミカエルは俺の臣下であって、俺の駒ではない。あの地では、あいつの許可なく好きに動けると思うな」

「はい」

「それから、あいつの言葉を額面通りに受け取るな」

 その忠告だけは、本人を知らないヴィオラにも理解できた。
 通称、雪月公。またの名を、帝国の狐。
 美貌と毒舌で知られ、皇都から何度招かれても十八年にわたり北を離れない公爵。噂の半分が本当でも、歓迎されるとは思えない。

「訪問を拒まれた場合は?」

「追い返されるな」

 あまりな返答に、アスランが横で小さく息を漏らした。
 笑ったのだろう。ヴィオラはそちらを見ず、真面目に頷いた。

「承知しました」
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