雪月公は菫の花に微笑む
「貴女は、私が帰れと言えば大人しく帰る程度の方だと思っていました」
「そのように見えましたか」
「いいえ」

 ミカエルは何を考えているのか悟らせないまま、柔らかな微笑みだけを顔に浮かべた。

「だから、念のため申し上げたのです」
「では、念のためお返事いたします」

 ヴィオラは相手の意図を受け取ったことだけを示し、余計な言葉を足さず丁寧に一礼した。

「帰りません」

 しばし、沈黙が落ちた。
 雪は降り続いている。皇都とは違う重たい空。音を吸い込む白い大地。門柱に刻まれた雪と狐の紋章。すべてが、ここはウォルターズ家の領域だと告げていた。

 だが、ヴィオラもまた退くつもりはなかった。自分は皇帝の密命を受け、この地へ来たのだ。帝国騎士団の参謀官として。そして、ヴィオラ・カルネットとして。

 ミカエルはやがて、ささやかに笑った。

「……皇帝陛下も、面倒な方を寄越したものですね」
「閣下ほどではないかと」
「その言い方は、私に嫌われますよ」
「好かれようなどと思っておりませんので」
「それは結構」

 ミカエルはようやく身体を横へ引いた。

 彼の背後で、公爵邸の扉が開かれる。暖かな灯りと知らない香の匂いが、雪の中に流れ出した。

 外から見上げた時には氷の城のようだった邸は、内側に確かな生活の温度を持っているらしい。

 ミカエルは片手を胸に添え、優雅に一礼した。

「ようこそ、ウォルターズ領へ。歓迎はしませんが、客人としての扱いはいたしましょう」
「恐れ入ります」
「ただし、余計なことをなされば、その時は遠慮なく追い出します。その判断を、貴女が誤らないことを祈ります」
「祈ってくださるのですか」
「北の神は寛大ですので」
「閣下は?」
「私は寛大ではありません」
「存じております」

 ヴィオラがそう返すと、ミカエルは一瞬だけ目を伏せた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。けれど、その横顔は先ほどよりも少し人間らしく見えた。

 ヴィオラは公爵邸の中へ足を踏み入れる。背後で、重い扉が穏やかに閉じた。その音を最後に、皇都へ続く道は雪の向こうへと消えていく。

 ヴィオラは顔を上げ、ウォルターズ公爵邸の奥へと歩き出した。


 ウォルターズ公爵邸の中は、外から眺めた時の印象とは違っていた。雪原に建つ白い城のような外観は、近寄る者すべてを拒むように冷たく、重く閉ざされて見えたというのに、扉をくぐった先にあったのは、思いのほか穏やかな温度だった。

 広い玄関広間には、磨き上げられた黒い石の床が広がっている。その上には淡い銀糸で雪の結晶を織り込んだ敷物が敷かれ、壁には北方の山脈と海を描いた大きな絵が飾られていた。

 皇都の貴族邸にあるような金銀の装飾や、華やかな花瓶はほとんどない。代わりに、厚手の織物や鹿角の燭台、白い木で作られた彫刻が並んでいる。

 豪奢ではない。だが、質実だった。この土地で長い冬を越すために必要なものだけが、美しく整えられている。ヴィオラはその空気を、一目で嫌いではないと思った。
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