雪月公は菫の花に微笑む
「カルネット参謀官を部屋に」
ミカエルがそう言うと、脇に控えていた老年の男が恭しく頭を下げた。
年の頃は六十を過ぎているだろうか。白髪を後ろへ撫でつけ、黒を基調とした執事服を隙なく着こなしている。
細身ではあるが、背筋は伸び、目つきには曇りがない。皇都の貴族邸にいる使用人とは少し違う。柔らかな物腰の奥に、武人に近い気配があった。
「お初にお目にかかります、カルネット参謀官。ウォルターズ公爵家にて家令を務めております、グレン・バートラムと申します」
「ヴィオラ・カルネットです。しばらくお世話になります」
「こちらこそ、お不便のないよう努めさせていただきます」
グレンは丁寧に礼をした。その礼の仕方ひとつにも、北方の家らしい簡潔さがあった。皇都のように、必要以上に膝を折ったり、長々と儀礼の言葉を重ねたりはしない。だが、無礼ではない。
ミカエルは階段の手前で足を止め、ふとヴィオラを見る。
「バートラムはこの屋敷で最も信頼できる者の一人です。何かあれば彼へ」
「承知しました」
「ただし、貴女が余計なことをなさった場合、私へ報告するのも彼です」
「余計なことの基準をお聞きしても?」
「私が不快に思うことです」
「範囲が広すぎます」
「ええ。ですからお気をつけを」
ミカエルは天使のように微笑んだ。ヴィオラは一拍だけ黙り、穏やかに答える。
「努力します」
「期待しないでおきます」
「それは賢明ですね」
グレンの眉が少し動いた。笑いそうになったのを堪えたのかもしれない。
ヴィオラがそちらへ視線を向けると、老家令は何事もなかったかのように澄ました顔をしていた。
ミカエルはそんな二人を見ていたが、何も言わなかった。
「では、私は執務へ戻ります。カルネット参謀官」
「はい」
「皇帝陛下からの密命であろうと、ここはウォルターズ領です。皇都と同じように動けるとは思わないことです」
「承知しております」
「本当に承知しているかどうかは、明日以降拝見しましょう」
それだけ言うと、ミカエルは踵を返した。
白銀の外套が揺れ、廊下の奥へ消えていく。姿が見えなくなっても、その場に残った空気は冷たい。
だが、不思議なことに、先ほど玄関先で感じた拒絶ほどではなかった。
歓迎はしない。しかし、排除もしない。少なくとも今は。
ヴィオラはそれだけ確認してから、グレンへ向き直った。
「案内をお願いします」
「かしこまりました」
グレンに導かれ、ヴィオラは階段を上がった。
公爵邸の廊下は広く、天井が高い。窓は厚い硝子で覆われており、その向こうでは雪が音もなく降り続いていた。
皇都では春の花が咲いていたはずだというのに、この地ではまだ冬が終わっていない。いや、もしかすると北では、冬こそが日常なのかもしれなかった。
ミカエルがそう言うと、脇に控えていた老年の男が恭しく頭を下げた。
年の頃は六十を過ぎているだろうか。白髪を後ろへ撫でつけ、黒を基調とした執事服を隙なく着こなしている。
細身ではあるが、背筋は伸び、目つきには曇りがない。皇都の貴族邸にいる使用人とは少し違う。柔らかな物腰の奥に、武人に近い気配があった。
「お初にお目にかかります、カルネット参謀官。ウォルターズ公爵家にて家令を務めております、グレン・バートラムと申します」
「ヴィオラ・カルネットです。しばらくお世話になります」
「こちらこそ、お不便のないよう努めさせていただきます」
グレンは丁寧に礼をした。その礼の仕方ひとつにも、北方の家らしい簡潔さがあった。皇都のように、必要以上に膝を折ったり、長々と儀礼の言葉を重ねたりはしない。だが、無礼ではない。
ミカエルは階段の手前で足を止め、ふとヴィオラを見る。
「バートラムはこの屋敷で最も信頼できる者の一人です。何かあれば彼へ」
「承知しました」
「ただし、貴女が余計なことをなさった場合、私へ報告するのも彼です」
「余計なことの基準をお聞きしても?」
「私が不快に思うことです」
「範囲が広すぎます」
「ええ。ですからお気をつけを」
ミカエルは天使のように微笑んだ。ヴィオラは一拍だけ黙り、穏やかに答える。
「努力します」
「期待しないでおきます」
「それは賢明ですね」
グレンの眉が少し動いた。笑いそうになったのを堪えたのかもしれない。
ヴィオラがそちらへ視線を向けると、老家令は何事もなかったかのように澄ました顔をしていた。
ミカエルはそんな二人を見ていたが、何も言わなかった。
「では、私は執務へ戻ります。カルネット参謀官」
「はい」
「皇帝陛下からの密命であろうと、ここはウォルターズ領です。皇都と同じように動けるとは思わないことです」
「承知しております」
「本当に承知しているかどうかは、明日以降拝見しましょう」
それだけ言うと、ミカエルは踵を返した。
白銀の外套が揺れ、廊下の奥へ消えていく。姿が見えなくなっても、その場に残った空気は冷たい。
だが、不思議なことに、先ほど玄関先で感じた拒絶ほどではなかった。
歓迎はしない。しかし、排除もしない。少なくとも今は。
ヴィオラはそれだけ確認してから、グレンへ向き直った。
「案内をお願いします」
「かしこまりました」
グレンに導かれ、ヴィオラは階段を上がった。
公爵邸の廊下は広く、天井が高い。窓は厚い硝子で覆われており、その向こうでは雪が音もなく降り続いていた。
皇都では春の花が咲いていたはずだというのに、この地ではまだ冬が終わっていない。いや、もしかすると北では、冬こそが日常なのかもしれなかった。