琥珀色の独占欲
## 第3話 報告のはじまり
雨の日のあとも
鏡琥珀は来た。
月曜日の放課後。
いつもの四時過ぎ。
扉が開いて
見慣れたジャージが入ってきた。
瑠璃は筆を止めなかった。
来ないでと言ったのに。
そう思った。
思ったのに
扉が開いた瞬間
肩の力がふっと抜けたのを
瑠璃は自分でも気づいていた。
気づかないふりをした。
彼は丸椅子を引き寄せなかった。
扉の近く。
一番遠い机の端に
そっと腰を下ろした。
「……ここなら、邪魔じゃない?」
小さな声だった。
瑠璃は振り返らなかった。
「……どこにいても一緒です」
「そっか」
彼はそれきり黙っていた。
三十分。
一度も話しかけてこなかった。
紙パックも置かなかった。
ただ
遠くから
瑠璃の背中を見ていた。
五時。
彼が立ち上がる。
「また来るね」
扉が閉まる。
瑠璃は
筆を置いた。
さっきまで彼が座っていた机の端を見た。
遠かった。
いつもの丸椅子より
ずっと。
それが
なぜか少しだけ
落ち着かなかった。
六月の半ば。
梅雨の晴れ間だった。
美術室の裏手に
外の流し場がある。
錆びた蛇口が三つ並んだ
誰も使わない流し場。
瑠璃は油絵の筆を洗うとき
いつもそこを使っていた。
北校舎の陰になっていて
人が来ないから。
石鹸を泡立てて
筆の根元を指で揉む。
青い絵具が
水の中にゆっくりと溶けていく。
そのとき
校舎の角の向こうから
声が聞こえた。
「……鏡くん」
女の子の声だった。
少し震えていた。
瑠璃の指が止まった。
蛇口の水だけが
細く流れ続けていた。
「来てくれてありがとう。……あのね」
聞いてはいけないと思った。
立ち去らなければと思った。
でも
流し場は行き止まりだった。
出ていくには
あの角を曲がるしかなかった。
瑠璃は蛇口を閉めた。
音を立てないように。
「好きです。一年のときから、ずっと」
瑠璃は
泡だらけの筆を握ったまま
動けなかった。
少しの沈黙。
それから
彼の声がした。
「……ありがとう」
いつもの
軽い声ではなかった。
「でも、ごめん。好きな人いるから」
女の子が
小さく息を呑む気配がした。
「……付き合ってるの?」
「ううん」
彼が少しだけ笑った。
「片想い。ずっと断られてる」
瑠璃の心臓が
どくんと鳴った。
「そう、なんだ」
女の子の声が滲んでいた。
「……ねえ、一個だけ聞いていい?」
「うん」
「一年のとき、三人と付き合って三人とも振ったって。本当?」
瑠璃は息を止めた。
長い沈黙があった。
風が吹いて
校舎の角の紫陽花が揺れた。
「付き合ってないよ」
彼が言った。
静かな声だった。
「三人から告白されて、三人とも断った。それだけ」
「……え」
「話が変わって広まったみたい。訂正するのも変だから、放っておいたけど」
彼は少しだけ間を置いた。
「俺、誰とも付き合ったことないよ」
瑠璃の手から
筆が滑り落ちた。
流しの底に当たって
からん、と
小さな音がした。
角の向こうの声が
一瞬止まった。
瑠璃は
息を殺して
流しの縁にしがみついていた。
心臓がうるさかった。
聞こえてしまう気がした。
やがて
また彼の声がした。
「好きになったのも、今の人が初めてだから」
「……そっか」
女の子が
鼻をすする音がした。
「ありがとう。ちゃんと答えてくれて」
「こっちこそ。ありがとう」
足音が一つ
遠ざかっていった。
しばらくして
もう一つの足音も
反対の方向へ消えていった。
軽くて
リズムのある足音。
瑠璃は
流しの前に立ち尽くしていた。
泡が
指の間で
ゆっくりと消えていった。
誰とも
付き合ったことがない。
好きになったのも
初めて。
美術室に戻っても
筆が持てなかった。
キャンバスの前に座って
乾きかけた青を
ただ見つめていた。
渡り廊下で
女の子に囲まれて笑っていた人。
誰にでも優しい人。
誰にでも同じことを言っている人。
そう決めつけていたのは
自分だった。
噂を信じたのも。
確かめもしないで
「からかってるなら、やめて」と言ったのも。
瑠璃は膝の上で
指を握りしめた。
爪の間に
まだ青い絵具が残っていた。
四時を少し過ぎたころ。
扉が開いた。
「瑠璃ちゃん」
いつもの声だった。
さっきの
静かな声ではなかった。
彼は扉の近くの
遠い机の端に座ろうとして。
ふと
足を止めた。
それから
少しだけ迷うように
瑠璃のほうへ歩いてきた。
いつもの丸椅子の
一つ手前で止まる。
「あのさ」
瑠璃は振り返った。
彼が
少しだけ緊張した顔をしていた。
「今日、告白された」
瑠璃の呼吸が止まった。
「隣のクラスの子。北校舎の裏で」
知っている。
全部。
「断った。好きな人いるって言った」
彼はまっすぐに瑠璃を見ていた。
「……それだけ」
瑠璃は
何も言えなかった。
「なんで」
やっと声が出た。
「なんで、私に言うんですか」
彼は少しだけ考えた。
それから
困ったように笑った。
「隠し事、したくないから」
「……」
「瑠璃ちゃん、俺のこと誰にでも優しい人だと思ってるでしょ」
瑠璃は
目を逸らせなかった。
「それはたぶん、合ってる。誰にでも優しくしてるつもり」
彼は小さく息を吐いた。
「でも、好きって言ったのは瑠璃ちゃんだけ。……それだけは、ちゃんと知っててほしくて」
美術室が静かになった。
窓の外で
梅雨の晴れ間の光が
雲の切れ目から差していた。
瑠璃は
膝の上の手を
もう一度握りしめた。
「……聞いてました」
彼が瞬いた。
「流し場で。筆、洗ってて」
彼の顔が
ゆっくりと赤くなっていった。
耳の先まで。
首筋まで。
「……え」
「全部」
「全部?」
「全部」
彼は両手で顔を覆った。
「……うわ」
指の隙間から
くぐもった声が漏れた。
「あの、筆落ちた音……」
「私です」
「……うわ」
瑠璃は
ほんの少しだけ
口元が緩みそうになった。
慌てて引き締めた。
「ごめんなさい」
彼が指の隙間から瑠璃を見た。
「からかってるなら、やめてって。言いました」
瑠璃は目を伏せた。
「噂、信じてました。確かめもしないで」
「……いいよ」
「よくないです」
「いいって」
彼は顔から手を下ろした。
まだ赤かった。
でも
笑っていた。
「それに、最初に俺の話、ちゃんと聞いてくれたの。瑠璃ちゃんだよ」
「……え」
「好きな人いるって言ったら、みんな誰? って聞く。付き合ってたって噂も、みんなそのまま信じる」
彼は窓の外を見た。
「瑠璃ちゃんは、信じてなかったけど。それでもちゃんと、聞いてた」
瑠璃は
何も言い返せなかった。
少しの沈黙があった。
彼が
ためらうように口を開いた。
「……瑠璃ちゃんは?」
「え」
「付き合ったこと、ある?」
瑠璃は
一瞬だけ迷った。
それから
小さく首を振った。
「……ないです」
彼の目が
ぱっと見開かれた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「一回も?」
「一回も」
彼は
しばらく瑠璃を見つめていた。
それから
口元が
ゆっくりとほどけていった。
「……おそろいだ」
嬉しそうだった。
子どもみたいに。
ただ
そう言っただけなのに。
瑠璃は目を逸らした。
頬が熱かった。
どうしてかは
考えないことにした。
五時。
彼が立ち上がった。
鞄を肩にかける。
扉のほうへ歩きかけて
振り返った。
「あのさ」
「……はい」
「ミルクティーも、レモンティーも、だめだったでしょ」
瑠璃は
少しだけ黙った。
それから
小さな声で言った。
「……緑茶」
彼が瞬いた。
「甘いの、あんまり得意じゃなくて」
彼の顔が
みるみるうちに輝いていった。
「緑茶」
「……はい」
「わかった」
何度も頷く。
まるで
大切な暗号を教えてもらったみたいに。
「また来るね」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
いつもより
少しだけ速かった。
跳ねるように。
瑠璃は
誰もいなくなった美術室で
しばらく扉を見ていた。
それから
ようやく筆を取った。
乾きかけた青の上に
新しい色を置く。
少しだけ
明るい青。
夜明けが
ほんの少しだけ
近づいたような青だった。
翌日。
美術室の机の端に
ペットボトルが一本置いてあった。
緑茶だった。
付箋が貼ってあった。
少し右上がりの
大きな字。
「今日、告白されなかった。報告おわり」
瑠璃は
思わず吹き出した。
誰もいない美術室で
一人で。
声を出して。
キャップを開ける。
初めて。
一口飲む。
少しだけ苦くて
冷たかった。
付箋を剥がす。
今度は
丸めなかった。
スケッチブックの表紙の裏。
黄色い付箋の隣に
そっと挟んだ。
二枚になった。
雨の日のあとも
鏡琥珀は来た。
月曜日の放課後。
いつもの四時過ぎ。
扉が開いて
見慣れたジャージが入ってきた。
瑠璃は筆を止めなかった。
来ないでと言ったのに。
そう思った。
思ったのに
扉が開いた瞬間
肩の力がふっと抜けたのを
瑠璃は自分でも気づいていた。
気づかないふりをした。
彼は丸椅子を引き寄せなかった。
扉の近く。
一番遠い机の端に
そっと腰を下ろした。
「……ここなら、邪魔じゃない?」
小さな声だった。
瑠璃は振り返らなかった。
「……どこにいても一緒です」
「そっか」
彼はそれきり黙っていた。
三十分。
一度も話しかけてこなかった。
紙パックも置かなかった。
ただ
遠くから
瑠璃の背中を見ていた。
五時。
彼が立ち上がる。
「また来るね」
扉が閉まる。
瑠璃は
筆を置いた。
さっきまで彼が座っていた机の端を見た。
遠かった。
いつもの丸椅子より
ずっと。
それが
なぜか少しだけ
落ち着かなかった。
六月の半ば。
梅雨の晴れ間だった。
美術室の裏手に
外の流し場がある。
錆びた蛇口が三つ並んだ
誰も使わない流し場。
瑠璃は油絵の筆を洗うとき
いつもそこを使っていた。
北校舎の陰になっていて
人が来ないから。
石鹸を泡立てて
筆の根元を指で揉む。
青い絵具が
水の中にゆっくりと溶けていく。
そのとき
校舎の角の向こうから
声が聞こえた。
「……鏡くん」
女の子の声だった。
少し震えていた。
瑠璃の指が止まった。
蛇口の水だけが
細く流れ続けていた。
「来てくれてありがとう。……あのね」
聞いてはいけないと思った。
立ち去らなければと思った。
でも
流し場は行き止まりだった。
出ていくには
あの角を曲がるしかなかった。
瑠璃は蛇口を閉めた。
音を立てないように。
「好きです。一年のときから、ずっと」
瑠璃は
泡だらけの筆を握ったまま
動けなかった。
少しの沈黙。
それから
彼の声がした。
「……ありがとう」
いつもの
軽い声ではなかった。
「でも、ごめん。好きな人いるから」
女の子が
小さく息を呑む気配がした。
「……付き合ってるの?」
「ううん」
彼が少しだけ笑った。
「片想い。ずっと断られてる」
瑠璃の心臓が
どくんと鳴った。
「そう、なんだ」
女の子の声が滲んでいた。
「……ねえ、一個だけ聞いていい?」
「うん」
「一年のとき、三人と付き合って三人とも振ったって。本当?」
瑠璃は息を止めた。
長い沈黙があった。
風が吹いて
校舎の角の紫陽花が揺れた。
「付き合ってないよ」
彼が言った。
静かな声だった。
「三人から告白されて、三人とも断った。それだけ」
「……え」
「話が変わって広まったみたい。訂正するのも変だから、放っておいたけど」
彼は少しだけ間を置いた。
「俺、誰とも付き合ったことないよ」
瑠璃の手から
筆が滑り落ちた。
流しの底に当たって
からん、と
小さな音がした。
角の向こうの声が
一瞬止まった。
瑠璃は
息を殺して
流しの縁にしがみついていた。
心臓がうるさかった。
聞こえてしまう気がした。
やがて
また彼の声がした。
「好きになったのも、今の人が初めてだから」
「……そっか」
女の子が
鼻をすする音がした。
「ありがとう。ちゃんと答えてくれて」
「こっちこそ。ありがとう」
足音が一つ
遠ざかっていった。
しばらくして
もう一つの足音も
反対の方向へ消えていった。
軽くて
リズムのある足音。
瑠璃は
流しの前に立ち尽くしていた。
泡が
指の間で
ゆっくりと消えていった。
誰とも
付き合ったことがない。
好きになったのも
初めて。
美術室に戻っても
筆が持てなかった。
キャンバスの前に座って
乾きかけた青を
ただ見つめていた。
渡り廊下で
女の子に囲まれて笑っていた人。
誰にでも優しい人。
誰にでも同じことを言っている人。
そう決めつけていたのは
自分だった。
噂を信じたのも。
確かめもしないで
「からかってるなら、やめて」と言ったのも。
瑠璃は膝の上で
指を握りしめた。
爪の間に
まだ青い絵具が残っていた。
四時を少し過ぎたころ。
扉が開いた。
「瑠璃ちゃん」
いつもの声だった。
さっきの
静かな声ではなかった。
彼は扉の近くの
遠い机の端に座ろうとして。
ふと
足を止めた。
それから
少しだけ迷うように
瑠璃のほうへ歩いてきた。
いつもの丸椅子の
一つ手前で止まる。
「あのさ」
瑠璃は振り返った。
彼が
少しだけ緊張した顔をしていた。
「今日、告白された」
瑠璃の呼吸が止まった。
「隣のクラスの子。北校舎の裏で」
知っている。
全部。
「断った。好きな人いるって言った」
彼はまっすぐに瑠璃を見ていた。
「……それだけ」
瑠璃は
何も言えなかった。
「なんで」
やっと声が出た。
「なんで、私に言うんですか」
彼は少しだけ考えた。
それから
困ったように笑った。
「隠し事、したくないから」
「……」
「瑠璃ちゃん、俺のこと誰にでも優しい人だと思ってるでしょ」
瑠璃は
目を逸らせなかった。
「それはたぶん、合ってる。誰にでも優しくしてるつもり」
彼は小さく息を吐いた。
「でも、好きって言ったのは瑠璃ちゃんだけ。……それだけは、ちゃんと知っててほしくて」
美術室が静かになった。
窓の外で
梅雨の晴れ間の光が
雲の切れ目から差していた。
瑠璃は
膝の上の手を
もう一度握りしめた。
「……聞いてました」
彼が瞬いた。
「流し場で。筆、洗ってて」
彼の顔が
ゆっくりと赤くなっていった。
耳の先まで。
首筋まで。
「……え」
「全部」
「全部?」
「全部」
彼は両手で顔を覆った。
「……うわ」
指の隙間から
くぐもった声が漏れた。
「あの、筆落ちた音……」
「私です」
「……うわ」
瑠璃は
ほんの少しだけ
口元が緩みそうになった。
慌てて引き締めた。
「ごめんなさい」
彼が指の隙間から瑠璃を見た。
「からかってるなら、やめてって。言いました」
瑠璃は目を伏せた。
「噂、信じてました。確かめもしないで」
「……いいよ」
「よくないです」
「いいって」
彼は顔から手を下ろした。
まだ赤かった。
でも
笑っていた。
「それに、最初に俺の話、ちゃんと聞いてくれたの。瑠璃ちゃんだよ」
「……え」
「好きな人いるって言ったら、みんな誰? って聞く。付き合ってたって噂も、みんなそのまま信じる」
彼は窓の外を見た。
「瑠璃ちゃんは、信じてなかったけど。それでもちゃんと、聞いてた」
瑠璃は
何も言い返せなかった。
少しの沈黙があった。
彼が
ためらうように口を開いた。
「……瑠璃ちゃんは?」
「え」
「付き合ったこと、ある?」
瑠璃は
一瞬だけ迷った。
それから
小さく首を振った。
「……ないです」
彼の目が
ぱっと見開かれた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「一回も?」
「一回も」
彼は
しばらく瑠璃を見つめていた。
それから
口元が
ゆっくりとほどけていった。
「……おそろいだ」
嬉しそうだった。
子どもみたいに。
ただ
そう言っただけなのに。
瑠璃は目を逸らした。
頬が熱かった。
どうしてかは
考えないことにした。
五時。
彼が立ち上がった。
鞄を肩にかける。
扉のほうへ歩きかけて
振り返った。
「あのさ」
「……はい」
「ミルクティーも、レモンティーも、だめだったでしょ」
瑠璃は
少しだけ黙った。
それから
小さな声で言った。
「……緑茶」
彼が瞬いた。
「甘いの、あんまり得意じゃなくて」
彼の顔が
みるみるうちに輝いていった。
「緑茶」
「……はい」
「わかった」
何度も頷く。
まるで
大切な暗号を教えてもらったみたいに。
「また来るね」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
いつもより
少しだけ速かった。
跳ねるように。
瑠璃は
誰もいなくなった美術室で
しばらく扉を見ていた。
それから
ようやく筆を取った。
乾きかけた青の上に
新しい色を置く。
少しだけ
明るい青。
夜明けが
ほんの少しだけ
近づいたような青だった。
翌日。
美術室の机の端に
ペットボトルが一本置いてあった。
緑茶だった。
付箋が貼ってあった。
少し右上がりの
大きな字。
「今日、告白されなかった。報告おわり」
瑠璃は
思わず吹き出した。
誰もいない美術室で
一人で。
声を出して。
キャップを開ける。
初めて。
一口飲む。
少しだけ苦くて
冷たかった。
付箋を剥がす。
今度は
丸めなかった。
スケッチブックの表紙の裏。
黄色い付箋の隣に
そっと挟んだ。
二枚になった。