恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
それから約一週間。
好波の毎日は、時間の経過を忘れるほど慌ただしく過ぎていった。
最終確認の打合せやクライアントとの電話、ポップなどの印刷物の納品確認、その他諸々。
終電で帰って始発で出勤、という日が続いた。
宇津木は好波の身体を気遣かったが、今がツメなのだから手を抜くわけにはいかない。休養が大切なのも分かっているが、とにかくゴールデンウイークを走り抜ければ……という一念だけで働いている。
意外なことに、黙ってそれにつき合ってくれたのは的場だった。残業できない長島や、電車で通勤している宇津木や小山内と違って、自宅が近く車で通勤しているからか、好波が出勤したときはもう会社にいて、好波が帰ると同時に会社を出る。
休日も、普段の「定時」にあたる時間は会社にいた。
二人きりになる時間は多かったが、それで気詰まりに思うことはなかった。互いにデスクに向かい、淡々と仕事をこなしていたからだろう。
ときどきは打合せや状況確認のために会話もしたが、とにかく他のことを考えている余裕がなかったのだ。
そんな日が約一週間続いた、水曜の二〇時。
明日、木曜の夕方からは、百貨店で行われる物産展の設営が始まる。
いつもならまだ仕事をしている時間的だが、的場が「よし」と言って立ち上がった。
「岩瀬。飯食いに行くぞ」
「えっ?」
今までは、それぞれ好きに夕飯をとっていた。
と言っても、近くにあるコンビニか弁当屋で買ったものをオフィスに持ってきて、パソコンや資料と向き合いながら食べていたわけだが。
「明日からが本番だろ。今日はちゃんと休むぞ」
「え、でも……」
「なんだよ。まだマストの業務あんのか?」
背後に立った的場が、眉を寄せてデスクに手を置き、好波のパソコン画面を覗き込む。肩に的場の胸元が触れ、感じた硬さに戸惑って縮こまった。
的場は「ふん」と言いながら好波の画面に表示された資料をスクロールした後、見下ろしてくる。
「三谷が持ってたイベントの確認?」
「そ、そうです……明日、百貨店の設営行っちゃったら、明後日にならないとこっちの仕事に戻れないので」
好波が見ていた計画書は、金、土の夜に開催される婚活会社のプロモーションイベントだ。ハート型のバルーンや電飾をちりばめた限定バーを、プロジェクションマッピングで盛り上げる。
若い女性向けに、SNSでの拡散を狙った企画だ。
「印刷してあんのか」
「え、ええ……まあ」
「だったら持って来い」
的場は言って、好波の手とマウスの間に手を滑り込ませた。戸惑いながら手を引くと、淡々とシャットダウンへ進んでいく。
「ま、的場さん……」
「自分がぼぅっとしてる自覚ねぇだろ」
振ってきた言葉はぶっきらぼうだったが、突き放されるような冷たさはない。飲み会で三谷とやりとりしていたときと似た空気に、好波は的場を見上げる。
整った横顔が、いつもよりも間近にあった。柔らかそうな髪にくっきりした二重。目にはパソコンの映像が映り込んでいる。
その淡々とした表情が不思議と心強く感じて、ついぼんやりと見ていたら、的場がふっと笑った。
「……何、見とれてんだ?」
その目は途端にいたずらっぽさを宿し、好波を見てくる。その目の中にパソコン画面の代わりに自分が映っていることに気づき、好波は気恥ずかしくなって目を泳がせた。
「別に、見とれてません」
そして、鞄を引き寄せ、帰る準備を始める。
確かに、疲れがたまっているのかもしれない。
的場さんがいてよかったーー
と、一瞬、思ってしまった。
「素直じゃねぇな」
的場は笑うと、自分も鞄を手にしてドアノブに手をかけた。
「何食う? 刺身は駄目なんだったな。イタリアン? スパニッシュ?」
「……帰って休むんだったら、一緒に食べる必要ないじゃないですか」
「まあそう言わずに。がんばってる岩瀬サンの激励会だと思ってよ」
的場は笑いながら、冗談めかしてウインクをした。好波は脱力して半眼になる。
「……久々に見ました、サブマネのそのキャラ」
「あ、そうだっけ? カッツカツだったもんね。一週間」
的場は言いながらドアを開けた。好波は電気を消してオフィスを出る。
鍵を閉めた的場が、エレベーターへ向けて歩いていく。好波はそれにおとなしくついて行った。
「で、どうする?」
「お任せします」
「つれないなー」
「お断りしないだけよしとしてください」
疲れているから、何の料理を食べるかの決断を下すのも面倒くさいのだ。
エレベーターを待つ間に言い合ううち、的場は笑った。
「あ、そう。嫌じゃないんだ?」
「……今日は」
「そりゃよかった」
的場はくすくすと笑った。好波はちらりとその横顔を見る。
考えてみれば、つい2週間前までは、口も利きたくないと思っていた男だった。
この1週間そこそこで、自分の中での評価が信頼できる人に変わっていることに気づく。
今とて、軽い調子で話してはいるが、好波とどうこうというつもりはないのだろう。ただ後輩として、仲間として、気にかけてくれているだけーー
……じゃあ、あのキスは一体何だったんだろう。
すっかり忘れていたことを不意に思い出した。
そのとき、エレベーターのドアが開く。
的場が手でドアを押さえ、好波に微笑んだ。
「どーぞ」
「どーも」
好波はできるだけぶっきらぼうに答えると、先にエレベーターに乗り込んだ。そのすぐ後に的場が乗ってくる。
「駅前はどこも混んでるし、少しゆっくりできるとこ行こうか。人が多いと疲れるし」
好波はその言葉に、思わず的場を見やる。
「何?」
「いえ。……的場さんも、人疲れすることあるんだなと思って」
生真面目で硬く見られがちな好波とは違い、性格的には明るくて気さくな的場だ。どこに行っても人が寄って来るし、町を歩けば知人に会う。
それだけ顔が広いということは、さぞかし人が集まる場所が好きなのだろうと思っていたのだが。
「なんだ、それ。当たり前だろ」
的場は好波の評に笑った。
「いつでもサービス精神ありでの人づき合いなんてしてられねぇよ。そんなことしてたら、どんどん自分が枯渇していく。……そう思わないか?」
好波はその言葉が今の自分を指し示しているように感じて戸惑った。的場はちらりと好波を見下ろして続ける。
「だからときどき、自分を解放できる場所に行く。俺なんか居ても居なくても何も変わらないような場所に。俺の周りにある世界なんてごくちっぽけで、世の中にとってはどーでもいいことなんだな、ってことを確認するために」
「……それで、海に行くように?」
「よく分かったな」
的場は笑った。日焼けしたその肌に、白い歯が映える。
好波の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「父も、同じようなことを言ってたので」
的場はふと表情を改めて好波を見下ろした。
「……もしかして、お前の父親もサーファー?」
「違いますよ。父は運動神経がからっきしですもん。趣味でカメラやってて、海を撮るのが好きなだけです」
「あ、そう。……なるほどね」
的場が微笑む。好波も頷き返した。
ぽぉん、と音がして、エレベーターが一階についた。
「運動音痴なお父さんか。お前も意外とカナヅチだったりして」
「……なんでそういう話になるんですか」
「あ、もしかして図星?」
「ノーコメントです」
二人で軽口を交わしながらエレベーターを降りると、的場の車へと向かう。
同僚の男の運転でドライブーー
今までなら避けるであろうシチュエーションなのに、自然と足を踏み込む自分がいた。
これもまた、疲れているからだろう。
「どーぞ、お姫様」
「そういうの要りません」
剽軽な動作で助手席のドアを開く的場を一瞥すると、軽やかな笑い声が返ってきた。
好波の毎日は、時間の経過を忘れるほど慌ただしく過ぎていった。
最終確認の打合せやクライアントとの電話、ポップなどの印刷物の納品確認、その他諸々。
終電で帰って始発で出勤、という日が続いた。
宇津木は好波の身体を気遣かったが、今がツメなのだから手を抜くわけにはいかない。休養が大切なのも分かっているが、とにかくゴールデンウイークを走り抜ければ……という一念だけで働いている。
意外なことに、黙ってそれにつき合ってくれたのは的場だった。残業できない長島や、電車で通勤している宇津木や小山内と違って、自宅が近く車で通勤しているからか、好波が出勤したときはもう会社にいて、好波が帰ると同時に会社を出る。
休日も、普段の「定時」にあたる時間は会社にいた。
二人きりになる時間は多かったが、それで気詰まりに思うことはなかった。互いにデスクに向かい、淡々と仕事をこなしていたからだろう。
ときどきは打合せや状況確認のために会話もしたが、とにかく他のことを考えている余裕がなかったのだ。
そんな日が約一週間続いた、水曜の二〇時。
明日、木曜の夕方からは、百貨店で行われる物産展の設営が始まる。
いつもならまだ仕事をしている時間的だが、的場が「よし」と言って立ち上がった。
「岩瀬。飯食いに行くぞ」
「えっ?」
今までは、それぞれ好きに夕飯をとっていた。
と言っても、近くにあるコンビニか弁当屋で買ったものをオフィスに持ってきて、パソコンや資料と向き合いながら食べていたわけだが。
「明日からが本番だろ。今日はちゃんと休むぞ」
「え、でも……」
「なんだよ。まだマストの業務あんのか?」
背後に立った的場が、眉を寄せてデスクに手を置き、好波のパソコン画面を覗き込む。肩に的場の胸元が触れ、感じた硬さに戸惑って縮こまった。
的場は「ふん」と言いながら好波の画面に表示された資料をスクロールした後、見下ろしてくる。
「三谷が持ってたイベントの確認?」
「そ、そうです……明日、百貨店の設営行っちゃったら、明後日にならないとこっちの仕事に戻れないので」
好波が見ていた計画書は、金、土の夜に開催される婚活会社のプロモーションイベントだ。ハート型のバルーンや電飾をちりばめた限定バーを、プロジェクションマッピングで盛り上げる。
若い女性向けに、SNSでの拡散を狙った企画だ。
「印刷してあんのか」
「え、ええ……まあ」
「だったら持って来い」
的場は言って、好波の手とマウスの間に手を滑り込ませた。戸惑いながら手を引くと、淡々とシャットダウンへ進んでいく。
「ま、的場さん……」
「自分がぼぅっとしてる自覚ねぇだろ」
振ってきた言葉はぶっきらぼうだったが、突き放されるような冷たさはない。飲み会で三谷とやりとりしていたときと似た空気に、好波は的場を見上げる。
整った横顔が、いつもよりも間近にあった。柔らかそうな髪にくっきりした二重。目にはパソコンの映像が映り込んでいる。
その淡々とした表情が不思議と心強く感じて、ついぼんやりと見ていたら、的場がふっと笑った。
「……何、見とれてんだ?」
その目は途端にいたずらっぽさを宿し、好波を見てくる。その目の中にパソコン画面の代わりに自分が映っていることに気づき、好波は気恥ずかしくなって目を泳がせた。
「別に、見とれてません」
そして、鞄を引き寄せ、帰る準備を始める。
確かに、疲れがたまっているのかもしれない。
的場さんがいてよかったーー
と、一瞬、思ってしまった。
「素直じゃねぇな」
的場は笑うと、自分も鞄を手にしてドアノブに手をかけた。
「何食う? 刺身は駄目なんだったな。イタリアン? スパニッシュ?」
「……帰って休むんだったら、一緒に食べる必要ないじゃないですか」
「まあそう言わずに。がんばってる岩瀬サンの激励会だと思ってよ」
的場は笑いながら、冗談めかしてウインクをした。好波は脱力して半眼になる。
「……久々に見ました、サブマネのそのキャラ」
「あ、そうだっけ? カッツカツだったもんね。一週間」
的場は言いながらドアを開けた。好波は電気を消してオフィスを出る。
鍵を閉めた的場が、エレベーターへ向けて歩いていく。好波はそれにおとなしくついて行った。
「で、どうする?」
「お任せします」
「つれないなー」
「お断りしないだけよしとしてください」
疲れているから、何の料理を食べるかの決断を下すのも面倒くさいのだ。
エレベーターを待つ間に言い合ううち、的場は笑った。
「あ、そう。嫌じゃないんだ?」
「……今日は」
「そりゃよかった」
的場はくすくすと笑った。好波はちらりとその横顔を見る。
考えてみれば、つい2週間前までは、口も利きたくないと思っていた男だった。
この1週間そこそこで、自分の中での評価が信頼できる人に変わっていることに気づく。
今とて、軽い調子で話してはいるが、好波とどうこうというつもりはないのだろう。ただ後輩として、仲間として、気にかけてくれているだけーー
……じゃあ、あのキスは一体何だったんだろう。
すっかり忘れていたことを不意に思い出した。
そのとき、エレベーターのドアが開く。
的場が手でドアを押さえ、好波に微笑んだ。
「どーぞ」
「どーも」
好波はできるだけぶっきらぼうに答えると、先にエレベーターに乗り込んだ。そのすぐ後に的場が乗ってくる。
「駅前はどこも混んでるし、少しゆっくりできるとこ行こうか。人が多いと疲れるし」
好波はその言葉に、思わず的場を見やる。
「何?」
「いえ。……的場さんも、人疲れすることあるんだなと思って」
生真面目で硬く見られがちな好波とは違い、性格的には明るくて気さくな的場だ。どこに行っても人が寄って来るし、町を歩けば知人に会う。
それだけ顔が広いということは、さぞかし人が集まる場所が好きなのだろうと思っていたのだが。
「なんだ、それ。当たり前だろ」
的場は好波の評に笑った。
「いつでもサービス精神ありでの人づき合いなんてしてられねぇよ。そんなことしてたら、どんどん自分が枯渇していく。……そう思わないか?」
好波はその言葉が今の自分を指し示しているように感じて戸惑った。的場はちらりと好波を見下ろして続ける。
「だからときどき、自分を解放できる場所に行く。俺なんか居ても居なくても何も変わらないような場所に。俺の周りにある世界なんてごくちっぽけで、世の中にとってはどーでもいいことなんだな、ってことを確認するために」
「……それで、海に行くように?」
「よく分かったな」
的場は笑った。日焼けしたその肌に、白い歯が映える。
好波の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「父も、同じようなことを言ってたので」
的場はふと表情を改めて好波を見下ろした。
「……もしかして、お前の父親もサーファー?」
「違いますよ。父は運動神経がからっきしですもん。趣味でカメラやってて、海を撮るのが好きなだけです」
「あ、そう。……なるほどね」
的場が微笑む。好波も頷き返した。
ぽぉん、と音がして、エレベーターが一階についた。
「運動音痴なお父さんか。お前も意外とカナヅチだったりして」
「……なんでそういう話になるんですか」
「あ、もしかして図星?」
「ノーコメントです」
二人で軽口を交わしながらエレベーターを降りると、的場の車へと向かう。
同僚の男の運転でドライブーー
今までなら避けるであろうシチュエーションなのに、自然と足を踏み込む自分がいた。
これもまた、疲れているからだろう。
「どーぞ、お姫様」
「そういうの要りません」
剽軽な動作で助手席のドアを開く的場を一瞥すると、軽やかな笑い声が返ってきた。