恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
 二人が入ったのは、海沿いのレストランだった。
 車でなければ不便な立地にあるので、平日、しかも「なか日」ともなればさして人は多くない。
 窓際席に通されたが、夜になれば見えるのは黒い海だけだ。見えるのは店内の明かりが反射して写し出される自分たちの姿。
 もちろん、特段ロマンチックな雰囲気を期待しての店のチョイスではない。秀一はドリンクメニューを広げ、岩瀬に差し出した。

「景気づけだ、一杯くらい頼んどけ」

 秀一の提案に、岩瀬は首を振った。

「運転手さんを前にして飲むほど礼儀知らずじゃありません」
「じゃあ、俺も飲むか?」
「酔っ払いに運転させるような人間だと思ってるんですか」

 もちろん冗談で言った台詞に、岩瀬も即座に答えてくる。彼女の口の端が引き上がっているところを見れば、向こうも冗談だと分かっていての返事だと知れた。
 秀一は冗談めかして肩をすくめる。

「疲れた今飲ませれば、少しは醜態を見れるかと思ったんだが」
「またそういう軽口を」

 適当に食事を頼むついでに、さすがに水というのも味気ないからとソフトドリンクを頼んで乾杯した。

「とうとう明日からですね」

 飲み物を口にし、一息沈黙を置いたのち、岩瀬が呟く。

「そうだな」

 秀一は炭酸飲料を口にしながら答えた。
 岩瀬が細く息を吐き出しつつ、手で目を覆う。

「疲れてるか」
「……そこそこ。でも、もちます」
「まあ、無理はするなよ」
「ここで私が倒れたら大変ですもんね」

 ふ、と笑う岩瀬に秀一は半眼を向けた。

「仕事のことなんかどーとでもなんだよ。お前自身の健康が大事だろ」

 秀一の言葉に、岩瀬は意外そうに目を丸くした。秀一はそれを見て思わず呆れる。
 こういう奴は、大概、仕事以外に自分の価値観を見出だしてないのだ。

「岩瀬。お前、自分のことどう思ってるんだ?」
「自分のこと……?」
「仕事はお前の一部に過ぎないだろ。どういう風に生きていたいかとか、なにが楽しいかとか……まあ、お前が仕事にやりがいを感じてるのは分かってるつもりだが」

 秀一が問うと、岩瀬はまばたきをして首を傾げる。「どういうふうに生きたいか……」と秀一の言葉を反趨した後、苦笑した。

「そうですねぇ。とりあえず、誰かの思い通りには生きたくないです」
「はぁ?」

 今度は秀一が眉を寄せる番だった。岩瀬はくすくす笑う。

「私がお役に立てることがあって、誰かが喜んでくれるなら、それは嬉しいことですけど……それを誰かに強制されたくないなと思います。……ほら、いまどき、女って『幸せ』の定義が世代とか環境によって全然違うから」

 秀一は頬杖をついて、言葉の続きを待つ。岩瀬はグラスについた水滴を指先で撫でながら、自嘲気味な笑顔を浮かべた。
 その指先が意外なほど華奢なことに気づき、つい目が行く。

「まあ……私ももうすぐ三十になるので。とにかく仕事をがむしゃらにがんばります、とだけ言ってれば済む年齢じゃなくなってきたんだなー、とは思ってます。親とか。友達とか」

 伏せがちな目は憂鬱そうに手先を見つめている。長いまつげはときどき静かにまばたきをしていた。

「っていうと、結婚とか?」
「ふふ。まあ、そんなとこです」

 岩瀬はごまかすように笑って、グラスを引き寄せた。すぼめた唇が柔らかくストローをくわえる様に目が引かれ、秀一は気まずく思いながら目を逸らす。

「田之倉くんもとうとう、結婚ですしねー」

 岩瀬は頬杖をついて窓を見やり、ため息混じりにそう言った。
 秀一は、そういうことかと納得する。
 岩瀬は田之倉のことをただ「同期」と言っていただけだが、もしかしたら好意があったのかもしれない。
 それが結婚するということになって、気分が塞いでいるのか。

「挙式は来週だったか」
「そうですね。連休明けの土曜です」
「行けそうか?」
「まあ、無事仕事が片付けば」

 岩瀬は答えて、窓から秀一へと視線を戻す。その目は仕事用の張り詰めたものから少し和らいだ視線に変わっていた。
 秀一の胸中に複雑な感情が沸き起こる。
 が、あえてそれを意識しないようにした。

「片付くだろ。お前なら」

 秀一は一言答えて、飲み物を口に運ぶ。
 岩瀬はまた意外そうな面持ちで秀一を見つめ、笑った。
 やや吊り気味の目が弓なりに細められる。

「そうですね。……倒れなければ」
「そうだな。倒れんなよ」
「気をつけます」

 岩瀬はくすくす笑った。
 注文した料理が運ばれてくる。
 その後の会話は、仕事に関係する話に終始した。

 ***

 岩瀬と食事する時間は思ったよりも和やかで、居心地がよかった。
 気付けば予想外に時間が過ぎていて、慌てて岩瀬を車に乗せ、駅まで送ろうとしたのだったが。
 駅に着く直前になって、岩瀬が眠っていることに気づいた。
 街の明かりに照らされたその横顔は、起きているときよりも幼く見える。うっすらと開いた唇に、柔らかく反射する光が目の毒だ。
 秀一はため息をつく。
 勢いで唇を奪ったあの夜。秀一とて、忘れたわけではない。
 唇の柔らかさも温もりも、思いの外不慣れな様子も、二人でいるとき思い出しそうになっては、何度も打ち消してきた。

 ーーまさかこんな風になるとは、思ってもいなかった。

 冗談のつもりで繰り返したグレーゾーンのセクハラで済まなくなれば、レッドカード一発退場ものだ。これ以上何かしでかすわけにはいかない。
 秀一は駅前の赤信号で停車した隙に、岩瀬の肩を叩いた。

「岩瀬。……岩瀬、駅着いたぞ」
「ん……」

 鼻にかかった声が艶めかしい。
 思わず下半身がぴくりと反応したのは、疲れているからだ、と思うことにするーー岩瀬と同じく、秀一もここ一週間ほど睡眠時間を削って仕事をしているのだから。

「岩瀬ー」
「ぅん……」

 夢の世界にいながら、一応応答してくるのがいじらしい。信号が青に変わって、駅前のロータリーへ進む。
 降車場に車を停めると、華奢な肩をゆすった。

「岩瀬。帰りが遅くなるぞ」
「ん……ん、はぃ……」

 車の振動が心地好かったのか、かけているジャズのCDが安眠を誘ったか。ちょっとやそっとでは起きそうにないほど、深い眠りについているらしい。
 秀一はため息をついた。

「……参ったな」

 ハンドルの上に肘をつき、頬杖をついて助手席に座る岩瀬を見つめる。
 駅からあふれる明かりに照らされた白い顔は、まるで子どものように無垢に見えた。
 柔らかいカーブを描いた頬。すっと伸びた鼻筋。艶やかなまつげが呼吸に合わせて震え、ふっくらとした唇が蠱惑的に見えて目を逸らす。

 ああ、駄目だ。疲れている。
 そう思いながら、秀一は片手で目を揉んだ。
 そう、疲れている。秀一だけでなく、岩瀬も。
 ならば、ぐっすり眠っているのを起こすのは可愛そうなんじゃないか。
 ここから岩瀬の家までは、片道一時間ほどかかる。眠る時間もそれだけ短くなるわけだ。
 それなら……このまま寝かせておいて……終電がなくなったら……仕方がないからと、俺の家にーー

「いやいやいや」

 秀一は自分で自分にツッコミを入れ、両手で顔をぐしゃぐしゃとこすった。
 駄目だ。思考がめちゃくちゃになっている。岩瀬を起こそう。
 そう決意して、上体をしっかりと起こし、助手席に座る岩瀬を覗き込んだ。

「岩瀬、起きーー」

 少し大きな声で言いかけて、またしてもその顔に見とれた。
 すやすやと聞こえる優しい呼吸。
 ゆっくりと上下する胸。
 恐らく二度と、秀一が目にすることのないであろう、無防備な寝姿ーー

 恐る恐る、その頬を指先で撫でる。
 岩瀬は何も気付かず眠っている。
 それを確認して、手のひらでゆっくりと頬を覆う。
 秀一は、苦笑した。

「ーーこら、岩瀬。起きろって」

 ぶにーっ、と頬をつねると、さすがに岩瀬が目を開けた。

「ぁ、ぁにすぅんですかっ」
「駅着いたぞ。爆睡してんじゃねー」
「はなしてくださいっ」

 わたわたと手を払われて、秀一は笑う。

「にしても、よく寝てたなー。ちゃんと帰れるか?」
「か、帰れますっ」
「寝過ごして終点まで行くなよ」
「わ、分かってますっ」

 岩瀬はむきになって、秀一につままれた頬をさすっている。
 秀一はハンドルの上に頬杖をついてにやりとした。

「ご希望なら、俺の家に泊まってってもいいけど?」
「ばっーー」

 ぱっ、と岩瀬の顔が赤らんだ。

「馬鹿言わないでくださいっ! じゃあ、おやすみなさい!」

 叫ぶように言って、岩瀬が勢いよくドアを開ける。外に滑り出るや、閉めかけたところで一度手を止めた。

「……あの」
「うん?」
「ありがとうございました」

 岩瀬は気まずげに言って、目を合わせないまま頭を下げる。
 秀一が「おう」と答えるか否かのところでドアは閉められて、駅の方へ走っていく後ろ姿が見えた。
 秀一はため息をついてハンドルの上によりかかる。

「……可愛いかよ……」

 冗談にしようとぼやいたつもりが、かなり本音に近いことを自覚して、ハンドルに乗せた手の甲に頭突いた。
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