恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
「岩瀬。スマホのGPSでナビしろ。広告店、クライアント、ここの順な」
「は、はい。了解です」
百貨店の駐車場に置かせてもらっていた車に乗り込みながら秀一が言うと、岩瀬は戸惑いながら頷いた。とりあえず方向の目処だけ頭に思い浮かべつつ、岩瀬がシートベルトをつけたことを目視して発進する。
「地図読めるか?」
「……得意ではないです」
岩瀬は気まずそうに言って、「なので、音声ナビしてもらいます」とスマホの音量を上げた。
機械的な声がナビの開始を告げる。
車内には、秀一が朝に聴いていたボサノバが流れている。黙ったまま、どこか生真面目に座っている岩瀬を横目で見て、「曲変えるか?」と聞いた。
岩瀬はちらりと秀一を見て、ふるふると首を横に振る。
「いいです。このままで」
「そうか」
ボサノバといっても、有名なポップスをカバーした、比較的耳障りのいい選曲になっている。いいと言うのならそのままに、と思っていたが、赤信号の合間に岩瀬が申し訳なさそうに秀一を見やった。
「……的場さん、やっぱり止めてもいいですか」
「ん? ああ、いいぞ」
秀一は頷いて、音楽を止めた。
「ラジオでもつけるか?」
「いえ……いいです」
岩瀬は言って、窓の外を見た。
青信号になったのを見て、アクセルを踏む。
「荷造り終わってるといいな」
「う……そうですね。ちょっと電話してみます」
「どれくらいで着くことになってる?」
「三〇分くらいです」
岩瀬はスマホをタップして、広告会社に電話をした。あと三〇分くらいで着く旨を伝えると、何を言っているかは分からないものの、恐縮したような声音が聞こえてくる。
「大丈夫そうか」
「たぶん」
「納品もう少し早くしときゃよかったのになぁ」
「デザイン決めるところでちょっと出遅れてた感はあったので、仕方ないです」
三谷の仕事を思い返しながら話した後、ふと沈黙が訪れる。音楽を止めたので、車のエンジン音ばかりが耳に響いていた。
「……ふぅ」
助手席から脱力したような吐息が聞こえて、秀一は意外に思いながら隣を見やる。
岩瀬はすっかりシートに身体を預け、ぼんやりしていた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です……」
「寝ててもいいぞ」
「そういうわけには……」
秀一を見る岩瀬の顔は、この1時間ほどで老け込んだように見えた。秀一は苦笑する。
「じゃあ、寝なくてもいいから目ぇ閉じとけ。お前今、結構すごい顔だぞ」
「えっ、そんなですか」
岩瀬が慌ててかばんからミラーを取り出す。小さな手鏡を睨みつけるように左右の顔を写す姿は滑稽で、笑いが込み上げた。
「曲止めたの、眠くなるからだろ」
「うっ……バレてましたか」
「よーし、じゃあオルゴール曲でもかけてやるか」
「そ、そんなことしたら、的場さんまで眠くなっちゃうんじゃないですか?」
秀一は「冗談だよ」と笑った。そもそもそんな曲は持ち合わせていない。
岩瀬は深々とため息をつき、顔を押さえるように手で覆った。
「……すみません、本当に。……的場さんだって、疲れてるのに」
「お前のせいじゃないだろ。はやめに確認の連絡入れてよかったじゃないか」
「でも……」
秀一は片手を伸ばし、なおも何か言おうとする岩瀬の肩を軽く叩く。
「チームで仕事しろって言ってんだろ。一人で回せると思う方が間違いだ」
岩瀬は困ったような顔で秀一の横顔を見て、うつむいた。
珍しく愁傷な気配に、秀一は困惑する。
「なんだ、いつもの威勢はどうした?」
「いえ……」
岩瀬はぽつりと言って、秀一から顔を背けるように窓の外を見やる。
「……だって、宇津木さんや的場さんみたいな人ばかりじゃないって、知ってますから」
表情を見せまいとしたのだろうが、その顔は窓ガラスに写っている。物憂げな眼差しはすっかり自信をなくしていて、秀一は苦笑を浮かべた。
「だから、なんだ」
「え?」
岩瀬が戸惑ったように振り返る。
前方をしっかりと見つめながら、秀一は言った。
「そりゃ、宇津木さんも俺も他の人間とは違うよ。もっと優秀な奴もいれば、できない奴もいるし、相性がいい奴も悪い奴もいる。それが会社ってもんだし、仕事着ってもんだ。そもそも、俺や宇津木さんと組んだからって仕事を成功させられる人間ばかりじゃないさ。それに」
信号が黄色になったのを見てブレーキを踏むと、ちらりと岩瀬を見やった。
「俺みたいな人間がわらわらいたら、お前始終怒鳴り散らさなきゃいけなくて大変だろ。セクハラだの炎上だのって」
にやりと笑った秀一に、岩瀬は一度ぽかんとしてから笑う。
「……確かに、それもそうですね」
その笑顔はいつもより穏やかで、二人きりでいる車内の空気は明るくなったように感じられた。
また信号が青になり、車が動きはじめる。
秀一はふと思い出して、口を開いた。
「ーーでも一つ、誤解は解いておくぞ」
「誤解? 何のことですか?」
不思議そうに首を傾げる岩瀬に、秀一は答えた。
「波乗りだ」
「……的場さんの趣味ですよね?」
「そう。繁忙期じゃない日、俺が早朝の日課にしてること」
岩瀬はたっぷり5秒ほど、秀一の言葉の意味を考えるような間の後、ぱっと顔を赤くした。
「ちょ、な、そん、それならそうと、言ってくれれば……!」
「嘘は一度も言ってないぞ。激しかったとか優しかったとかも波の様子の話をしてただけで」
「ば、馬鹿っ」
岩瀬は動揺しながら、べし、と秀一の肩を叩く。秀一は叩かれた肩をさすりながら笑った。
「運転手にそれはどうなんだ」
「だ、だって。も、ほんと……ほんと、セクハラオヤジ」
「オヤジって。まだ三〇前半なんだけど」
「そういうこと言って相手の反応を楽しんでるのがオヤジなんですっ」
岩瀬は怒りながらまたぷいと窓の外を見る。赤らんだ頬が窓に写っているのが見えて、秀一は笑いを堪えた。
***
広告会社からクライアントへ、そして百貨店へ戻ったのは、約束の時間を若干過ぎた頃だった。
「でも、どうにか間に合いましたね」
「ああ。クライアントもむしろ恐縮してたな」
「でも、とりあえず明日の分はあれで間に合いそうなのでよかったです」
百貨店の売り場に戻りながら話し、岩瀬はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
素直な言葉に、秀一は一瞬照れる。
「おう」
応じると、岩瀬は下げた頭を上げ、いたずらっぽい目で秀一を見上げた。
「でも、セクハラの件は許しませんから」
「なんでだよ。お前が勝手にえっちな妄想してただけだろ」
「えっ……ちとか、言わないでくださいっ、思わせぶりなこと言ってたくせに!」
ひとまず課題を一つクリアして、岩瀬もほっとしているようだ。いつもの調子を取り戻したことに安堵しつつ、秀一はその背中をぽんとたたいた。
「ま、ゴールデンウイークはこれからだ。まだまだ先は長いぞ。気を引き締めていけよ」
「当たり前じゃないですか」
岩瀬は答えて笑う。一くくりにした長い髪が、前を向く拍子にふわりと揺れた。
夜明け前の波のような、濃紺色の髪。
前へ前へとずんずんと進んでいく細い肩を、秀一は微笑んで見ていた。
「は、はい。了解です」
百貨店の駐車場に置かせてもらっていた車に乗り込みながら秀一が言うと、岩瀬は戸惑いながら頷いた。とりあえず方向の目処だけ頭に思い浮かべつつ、岩瀬がシートベルトをつけたことを目視して発進する。
「地図読めるか?」
「……得意ではないです」
岩瀬は気まずそうに言って、「なので、音声ナビしてもらいます」とスマホの音量を上げた。
機械的な声がナビの開始を告げる。
車内には、秀一が朝に聴いていたボサノバが流れている。黙ったまま、どこか生真面目に座っている岩瀬を横目で見て、「曲変えるか?」と聞いた。
岩瀬はちらりと秀一を見て、ふるふると首を横に振る。
「いいです。このままで」
「そうか」
ボサノバといっても、有名なポップスをカバーした、比較的耳障りのいい選曲になっている。いいと言うのならそのままに、と思っていたが、赤信号の合間に岩瀬が申し訳なさそうに秀一を見やった。
「……的場さん、やっぱり止めてもいいですか」
「ん? ああ、いいぞ」
秀一は頷いて、音楽を止めた。
「ラジオでもつけるか?」
「いえ……いいです」
岩瀬は言って、窓の外を見た。
青信号になったのを見て、アクセルを踏む。
「荷造り終わってるといいな」
「う……そうですね。ちょっと電話してみます」
「どれくらいで着くことになってる?」
「三〇分くらいです」
岩瀬はスマホをタップして、広告会社に電話をした。あと三〇分くらいで着く旨を伝えると、何を言っているかは分からないものの、恐縮したような声音が聞こえてくる。
「大丈夫そうか」
「たぶん」
「納品もう少し早くしときゃよかったのになぁ」
「デザイン決めるところでちょっと出遅れてた感はあったので、仕方ないです」
三谷の仕事を思い返しながら話した後、ふと沈黙が訪れる。音楽を止めたので、車のエンジン音ばかりが耳に響いていた。
「……ふぅ」
助手席から脱力したような吐息が聞こえて、秀一は意外に思いながら隣を見やる。
岩瀬はすっかりシートに身体を預け、ぼんやりしていた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です……」
「寝ててもいいぞ」
「そういうわけには……」
秀一を見る岩瀬の顔は、この1時間ほどで老け込んだように見えた。秀一は苦笑する。
「じゃあ、寝なくてもいいから目ぇ閉じとけ。お前今、結構すごい顔だぞ」
「えっ、そんなですか」
岩瀬が慌ててかばんからミラーを取り出す。小さな手鏡を睨みつけるように左右の顔を写す姿は滑稽で、笑いが込み上げた。
「曲止めたの、眠くなるからだろ」
「うっ……バレてましたか」
「よーし、じゃあオルゴール曲でもかけてやるか」
「そ、そんなことしたら、的場さんまで眠くなっちゃうんじゃないですか?」
秀一は「冗談だよ」と笑った。そもそもそんな曲は持ち合わせていない。
岩瀬は深々とため息をつき、顔を押さえるように手で覆った。
「……すみません、本当に。……的場さんだって、疲れてるのに」
「お前のせいじゃないだろ。はやめに確認の連絡入れてよかったじゃないか」
「でも……」
秀一は片手を伸ばし、なおも何か言おうとする岩瀬の肩を軽く叩く。
「チームで仕事しろって言ってんだろ。一人で回せると思う方が間違いだ」
岩瀬は困ったような顔で秀一の横顔を見て、うつむいた。
珍しく愁傷な気配に、秀一は困惑する。
「なんだ、いつもの威勢はどうした?」
「いえ……」
岩瀬はぽつりと言って、秀一から顔を背けるように窓の外を見やる。
「……だって、宇津木さんや的場さんみたいな人ばかりじゃないって、知ってますから」
表情を見せまいとしたのだろうが、その顔は窓ガラスに写っている。物憂げな眼差しはすっかり自信をなくしていて、秀一は苦笑を浮かべた。
「だから、なんだ」
「え?」
岩瀬が戸惑ったように振り返る。
前方をしっかりと見つめながら、秀一は言った。
「そりゃ、宇津木さんも俺も他の人間とは違うよ。もっと優秀な奴もいれば、できない奴もいるし、相性がいい奴も悪い奴もいる。それが会社ってもんだし、仕事着ってもんだ。そもそも、俺や宇津木さんと組んだからって仕事を成功させられる人間ばかりじゃないさ。それに」
信号が黄色になったのを見てブレーキを踏むと、ちらりと岩瀬を見やった。
「俺みたいな人間がわらわらいたら、お前始終怒鳴り散らさなきゃいけなくて大変だろ。セクハラだの炎上だのって」
にやりと笑った秀一に、岩瀬は一度ぽかんとしてから笑う。
「……確かに、それもそうですね」
その笑顔はいつもより穏やかで、二人きりでいる車内の空気は明るくなったように感じられた。
また信号が青になり、車が動きはじめる。
秀一はふと思い出して、口を開いた。
「ーーでも一つ、誤解は解いておくぞ」
「誤解? 何のことですか?」
不思議そうに首を傾げる岩瀬に、秀一は答えた。
「波乗りだ」
「……的場さんの趣味ですよね?」
「そう。繁忙期じゃない日、俺が早朝の日課にしてること」
岩瀬はたっぷり5秒ほど、秀一の言葉の意味を考えるような間の後、ぱっと顔を赤くした。
「ちょ、な、そん、それならそうと、言ってくれれば……!」
「嘘は一度も言ってないぞ。激しかったとか優しかったとかも波の様子の話をしてただけで」
「ば、馬鹿っ」
岩瀬は動揺しながら、べし、と秀一の肩を叩く。秀一は叩かれた肩をさすりながら笑った。
「運転手にそれはどうなんだ」
「だ、だって。も、ほんと……ほんと、セクハラオヤジ」
「オヤジって。まだ三〇前半なんだけど」
「そういうこと言って相手の反応を楽しんでるのがオヤジなんですっ」
岩瀬は怒りながらまたぷいと窓の外を見る。赤らんだ頬が窓に写っているのが見えて、秀一は笑いを堪えた。
***
広告会社からクライアントへ、そして百貨店へ戻ったのは、約束の時間を若干過ぎた頃だった。
「でも、どうにか間に合いましたね」
「ああ。クライアントもむしろ恐縮してたな」
「でも、とりあえず明日の分はあれで間に合いそうなのでよかったです」
百貨店の売り場に戻りながら話し、岩瀬はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
素直な言葉に、秀一は一瞬照れる。
「おう」
応じると、岩瀬は下げた頭を上げ、いたずらっぽい目で秀一を見上げた。
「でも、セクハラの件は許しませんから」
「なんでだよ。お前が勝手にえっちな妄想してただけだろ」
「えっ……ちとか、言わないでくださいっ、思わせぶりなこと言ってたくせに!」
ひとまず課題を一つクリアして、岩瀬もほっとしているようだ。いつもの調子を取り戻したことに安堵しつつ、秀一はその背中をぽんとたたいた。
「ま、ゴールデンウイークはこれからだ。まだまだ先は長いぞ。気を引き締めていけよ」
「当たり前じゃないですか」
岩瀬は答えて笑う。一くくりにした長い髪が、前を向く拍子にふわりと揺れた。
夜明け前の波のような、濃紺色の髪。
前へ前へとずんずんと進んでいく細い肩を、秀一は微笑んで見ていた。